戊辰戦争の「賊軍(朝敵)」の土地は、明治政府の報復(あるいは賞罰)で県庁所在地名を県名にさせなかったという俗説があります。 調べてみると、この説は1941年の宮武外骨の著書「府藩縣制史」が発端のようです。 しかしながら、元の説を丹念に読んでみると、元々が根拠薄弱な怪しい議論であるうえに、さらにその本来の主張からさえも掛け離れた「拡大解釈」が流布していることが解ります。 そのあたりについて、まとめてみました。
宮武外骨の「府藩縣制史」(名取書店)は、奥付によると1941(昭和16)年3月20日発行で、「宮武外骨著作集 第參巻」(河出書房新社1988)ISBN4-309-72453-1にも収録されています。 河出書房新社の著作集は原本を修正せずに復刻したもので、綴じ込まれている色刷ページの紙質感が大きく異なる他は、原本の雰囲気がそのまま残っています。
内容は300ページ以上ありますが、基本的に「論評つき資料集」だと思ってください。 明治政府発足直後の「府藩県三治体制」から版籍奉還&廃藩置県を経て「1道3府43県」に落ち着くまでの地方行政制度の変遷に関わる資料が集められています。 当時の県政現場で何が行われていたかに関わるエピソードが雑多に集められた部分があるなど、資料集としての網羅性を重視した編集になっています。
「府藩縣制史」で「賞罰的県名」説を主張しているのは、全304ページ(表紙扉・自序・凡例・目次・綴じ込み図版・奥付を除く)のうちp.89〜p.97の9ページに過ぎません。 ただ、著者や出版社は、この説をこの書物の大きな「売り」と考えていたようです。 「宮武外骨著作集 第參巻」にも収録されている広告には、「賞罰的県名」説を主張している部分の草稿(完成稿に較べてデータが少ない)を完成形に近い形にレイアウトし、デカデカと掲載しています。
さて、この主張の根拠になっている事実は、廃藩置県直後の1871〜1872年(明治4〜5年)に、多数の「朝敵藩」の県名が、都市名に基づくものから郡名に基づくもの(例外として、伊予の2県は管轄地域全体を、熊本県改め「白川県」は県庁の所在地域を、各々象徴する「雅称」)に変更されているということだけです。 この事実認識は、全くの「状況証拠」でしかありません。
そして、多数存在する例外を、無理のある決めつけで正当化しています。 具体的には、「朝敵側」の例外は戊辰戦争の過程での何らかの行動が功績として評価されたのだとし、「官軍側」の例外は「曖昧藩」と名付けて「態度が曖昧であった」としているわけです。 具体的に各々の行動を「功績」や「曖昧な態度」として認定する判断基準は何だったかということは論証されていません。 つまり、改名の有無は「賞罰」の結果であるという結論を前提に置いてしまい、その結論を遡って合理化できるように理屈をコジつけただけなのです。
事実を指摘した後の論理展開も「これを公表しなかった理由」の推定(=憶測)という方向へ進んでおり、典型的な「陰謀史観」に走ってしまっています。 つまり、現象のごく一部分だけに着目して、それを尤もらしく説明できるような「権力者の悪意」を考え出し、それが真実であるという思い込みを出発点にして、それに合うように他の全てを曲解してしまっているわけです。 そして、「順逆表示の史実」「永久不滅の賞罰的県名」などという煽情的な表現で結論を強調し、根拠の危うさを隠してしまっているのです。
補足:宮武外骨という人の言動傾向から考えて、この説自体がそもそも「尤もらしく作った嘘(冗談)」なのではないかという見解もあるようです。
「府藩縣制史」で指摘された事実からは、廃藩置県直後の「3府72県」時代の「当初の」命名に関してしか論じることができません。 1876(明治9)年に「3府35県」に統合した以降、現在の都道府県に至るまでの命名には直接には適用できないのです。
もちろん、一旦命名された県名を敢えて変更するには、それ相応の理由が必要ですから、初期の命名が後々まで残る傾向は明確です。 実際、1873(明治6)年以降、統廃合も県庁移転も伴わない県名変更は、1876(明治9)年(第2次一斉統合の2ヶ月前)の「白川県」→「熊本県」だけです。 県の統廃合時にも、元の県庁のうち何れかが引き続き県庁となる場合には、その県庁名が継承されています(伊予の「雅称」の事例を除く)。 郡名起源の県名が都市名起源に戻っている3つの事例(新川→富山、足羽→福井、名東→徳島)は、いずれも一旦統合廃止された県が復活した事例です。
「廃藩置県直後の一斉統合」という大きな動きがあった1871(明治4)年は「県名を見直す契機」でもあったわけです。 そして、そのときに命名された県名を、単に「手間暇かけて敢えて変えるほどの理由は無い」という消極的な理由で使い続けていたと考えられるのです。 つまり、現在の県名の多くは「1871(明治4)年」という特定の時点での事情のみで決められたものなのです。
しかし、「賞罰的県名」説を真実だと主張する人には、現在にまで続いている一貫した政治意図を持った命名方針として語る人が多いように思えます。 これは、「府藩縣制史」の主張からも完全に逸脱した、明白に誤った理解です。
このような理解が広まっている原因の1つに、「府藩縣制史」に使われている「永久不滅の賞罰」という煽情的な表現があるかもしれません。 「永久不滅」などというのは、「府藩縣制史」で指摘された根拠事実からは全く導かれない、完全な暴走表現なのですが、これが一人歩きしてしまった可能性は考えられます。
少し補足しておくと、「賞罰的県名」説は、県名と県庁所在地名が「現時点で一致しない」という事実には必ずしも対応しないということにも注意が必要でしょう。 現行県名が現県庁所在地に一致しないのは17県ありますが、そのうち「栃木・神奈川・兵庫」の3県は「都市名由来」なので、「賞罰的県名」の可能性は全く考えられません。 この3県には、現在の県庁所在地と異なる都市名に由来する命名となった事情があるわけです。 また、沖縄県が戊辰戦争と無関係なことにも異論は無いでしょう。
逆に県名と県庁所在地名が「現時点で一致」していても、「賞罰的県名」説の対象になる事例があります。 それはまず、「県庁所在地名を後から県名に合わせて改称した」事例で、大分と宮崎の2例があります。 上の「17県」に数えていますが、「さいたま市」の事例も似たようなところがあるでしょう。 また、県名が「県庁所在地名に戻った」のが上述の通り4県(熊本・富山・福井・徳島)あります。 結局、現行43県のうち「賞罰的県名」説の対象になるのは17-3-1+2+4=19県です。
また、「賞罰的県名」説の対象となっている県のうち16県(郡名15+雅称1)は統合されて無くなったままです。 つまり「賞罰的県名」説の是非を検討するべき対象となるのは、この16県を加えた35県、あるいはそれに加えて県庁移転の際に「郡名起源の県名」から別の「郡名起源の県名」に改称された1県を二重に数えた36県ということになります。 83県(当初の72県+県庁移転に伴って改称した11県)のうちの36県です。 (「83県」には県庁移転を伴わない改称(1871〜1872年(明治4〜5年)に一旦都市名起源県名としてから郡名起源や雅称に改称した10県と白川→熊本、石鉄→愛媛)や県庁復帰に伴う改称(「郡名起源から都市名起源に戻った」3県と一関→磐井)および郡内移転に伴う郡名起源県名への改称(金沢→石川)は二重計上していません。)
「府藩縣制史」で指摘された根拠事実から言えることは、「朝敵藩」の県名が郡名に基づくものに変更された「傾向が認められる」ということだけです。 その傾向は「朝敵であったこと」とは全く別の「理由や条件」に基づくものであり、単にその「理由や条件」を満たしやすい状況が「朝敵藩」には揃っていたに過ぎない、という可能性も考えられるのです。 その場合、「賞罰(報復)」という「明確な意図」の存在は否定されることになります。
実は、一部に「報復」の意思が働いた例が存在することは確かなようです。 その実例として知られているのが、「和歌山県」を郡名起源の「名草県」に改称しようとした事例です。 「府藩縣制史」で「賞罰的県名」が行われたと主張されているのと同時期に、和歌山県令が「賊軍の地名を避ける」ことを理由として「名草県」への改名を中央に申請し、却下されたということがあったようです。 この事例が「却下」という結果になったということは、「報復」というのが「全国的に統一された、一貫性のある方針」では無かったことを示している可能性があります。
明治政府の当時の課題は、如何にして近代国家としての国力をつけていくかということにありました。 そのためには、戊辰戦争の遺恨も含めた世の中の不平不満を巧く収めて国家としての統一を保つことが必須です。 遺恨をわざわざ煽るような「賞罰」で統一性を危うくするなどというのは、課題解決に全く逆行する話です。 和歌山県のような事例は、遺恨から抜け出せずにいる一部官僚の暴発と考えるべきもので、明治政府の立場としては、むしろ抑圧するべき動きでしょう。
別稿でも述べたように、「金沢県」が「石川県」に、あるいは「安濃津県」が「三重県」に改称されたのは、政情不安定に対処するために県庁を移転させた結果です。 また、「盛岡県」を「岩手県」に、あるいは「仙台県」を「宮城県」に改称する際には、少なくとも建前上は「人心一新のため」というようなことを理由にしています。 政情不安定が生じたり、人心一新の必要が生じたりしやすいのは何処かと考えてみると、まずは明治政府への反対勢力が強い「賊軍の地」でしょう。 もちろん官軍側にも不平士族を中心とする不穏な行動がありましたが、それが活発化したのは1873年(明治6年)10月の征韓論政変以降で、この政変は県名改称の動きが終わった翌年です。
また、他の都市に県庁などが置かれて支配を受けることを嫌がるという形で地域対立が起りやすい場所でも、政情不安定が生じやすいでしょう。 特に、県名改称が行われたのは廃藩置県後の府県一斉統合の時期で、この種の地域対立が煽られる恐れがありました。 そしてこのような場合、対立する一方を明確に表す「都市名」よりも明確さが劣る「郡名」の方が相手に受入れられやすいことが考えられます。 つまり、この場合には「都市名由来の県名」を「郡名由来の県名」に変更することが、問題解決の手段として有効に働く可能性が高いのです。 実際、「一関県」が移転して「水沢県」となり、そのあと一関へ戻るときに郡名起源の「磐井県」とした事例や、「長浜県」の移転に際して「彦根県」とせず「犬上県」とした事例などは、地域対立を煽らないという目的があった可能性が考えられます。 このような地域対立が起こりやすいのは「文句無しの中心都市」が無い地域だと考えられます。 それは基本的には江戸時代に「大きな大名家による統一的な支配」が行われて来なかった地域だと考えられ、「大きな大名家」とは具体的には「外様雄藩」で、戊辰戦争で「官軍」になったところが多いのです。
このように考えてみると、「賊軍(朝敵)の地」であることは、都市名由来の県名を改称する理由を作り出す「誘因」として働くことが解ります。 つまり、「賞罰」などという直接的な理由ではなく、「政情不安定などの遠因になる」という間接的な理由として作用した可能性が高いと考えられるわけです。
「賞罰的県名」説と関連して、「賊軍の地」の名を県名にしないために、わざわざ県庁を本来の中心都市から外して変な土地に置いたという説がある場所もあります。 具体的には、青森・山形・福島・長野が該当します。 しかし、青森は北海道経営という新しい政策課題の拠点ですし、山形は3県合併に際して単に中央を採ったと考えるのが妥当、長野は地域内対立の結果です。 福島は、現在の県域が成立した時の事情は山形県と同様で、それ以前の移転は政情不安定が理由である可能性が高そうです。 いずれも「賊軍への報復」説は成立しそうにありません。