「都」と「道」と「府」と「県」の違いについて

 日本には1都1道2府43県があります。 全部「県」でも良いのに、何故4つだけ「県」では無いのでしょうか?

 実は、現在でこそ、この4種は対等なものとされていますが、歴史的経過はかなり違うものなのです。 これについて詳しく見て行きましょう。

「道」は歴史的起源が別

 「都道府県」のうち「道」だけが、「○○道」のうちの「○○」(つまり「北海」)を取り出しても、道庁所在地やそれに準ずる地名にはならないという意味で性格が異なりますね。 実は、この違いは歴史的起源の違いに関係しているのです。

 「都府県」は「幕藩体制の藩」を「廃藩置県」してできた「県」を統合して生まれたというのが基本です。それに対して、 「北海道」は幕末の試行錯誤的な支配体制を明治政府が引き継ぎ、さらに試行錯誤を経て今の形に落ち着いたものです。

 元々、北海道(蝦夷地)は幕府にとって支配体制が確立していない地でした。 南の方に「松前藩」があったのですが、直接支配地は限られていました。 幕末近くになって、国防上の必要から東北諸藩に一部を領地として配分したりもしているのですが、あくまで「付け足し」の土地でした。

 明治政府はこの「蝦夷地」を開拓地として幕府から引き継ぎ、内地とは別途に支配体制を整備して行きました。 一時は「函館」「札幌」「根室」の3県が設置されたりもしたのですが、結局は1886(明治19)年に全体を1つの地方機関で管轄するのが良いということになり、それが現在まで続いているわけです。 そして、その機関が「北海道庁」と名付けられたのです。

 こういう経緯ですから、元々「北海道庁」は「府庁」「県庁」とは全く性格の異なる地方機関だったわけで、機関名が「地名」+「種別名」+「庁」という構造になっていないのも、この性格の違いに起因しています。

 また、現在では「北海道立○○」という施設などがありますが、かつては「北海道庁立○○」だったようです。 「○○県」だと、それだけで「役所」の意味になるが、「北海道」は単なる地名で、役所ではないと認識されていたんですね。 この時代には、府県の領域では国の省庁の権能に属する部分の一部も北海道庁が担っていたようで、そういう違いもあったようです。

 しかし、経緯はどうであれ、結果として「北海道庁」の管轄地が「府庁」「県庁」の管轄地と排他的であって、両方合わせれば日本の本土を網羅することになったわけです。 従って、「北海道庁」がある意味で「府庁」「県庁」と対等な組織と看做されるようになるのは当然です。 そして、戦後になって地方自治制度が再整備され、さらに他の府県の権能に属さない部分を分離して「北海道開発庁」(2001年の省庁再編で国土交通省に統合)とするなどした結果、「道府県」の法的な差異は全く無くなりました。 現在では、「道」は「単に面積が大きいだけ」の県です。 (もちろん、面積が大きいゆえの差異=例えば「支庁」の存在などがありますが……)

「北海道」の命名の由来について

 「角川日本地名大事典(1962)」によると、北海道全体(当初は松前藩領を除く)を管轄する機関として「開拓使」が設置された1869(明治2)年のうちに、「北海道」という地名を明治政府として正式決定したようです。 即ち、先に「北海道」という地名があって、それを管轄する役所という意味で「北海道庁」と命名されたことは確かなようです。

 同じく「角川日本地名大事典(1962)」によると、この命名は松浦武四郎が開拓使から求められて提出した案が元になっているようです。 即ち、「蝦夷」を音読みした「カイ」(アイヌ語の「カイナー」も意識したらしい)に「加伊」という字を当てて「北加伊」とする案を元に、用字を「北海」に改め、さらに「道」を補ったという経緯があったとのことです。

 松浦武四郎は、自らの雅号として「北海道人」と名乗っていたようですが、この雅号との関連(因果関係)は、ちょっとよくわかりません。

 いずれにしても、古代の「五畿七道」を参考にした命名であることは間違い無いものと思われます。 「七道」には「東西南」の3つの「海道」があって「北」が欠けているからです。

 但し、あくまで「参考」にしただけであって、「五畿七道」の発想をそのまま踏襲したわけではありません。 「七道」は都からの命令や都への報告の伝達を目的とした地域区分であり、まず伝達のための「官道」を設定して、各々の官道に沿う細長い領域を1つの地域としています(それゆえ「○○道」と命名されている)。 「北海道」という地域名にそういう性格はありません。

「都」は戦時体制

 「東京都」は、太平洋戦争中の1943(昭和18)年に「東京市」と「東京府」の機能を統合してできたものです。 ですから、「都」は域内に市町村の他に「特別区」(所謂23区の各々)を抱えているという意味で、特殊なものになっています。

 なお、東京都には「警察本部」や「消防本部」ではなく「警視庁」や「消防庁」があるという意味でも特殊ですが、これは現在では単なる命名の違いでしかありません。 元々は、首都ということで、中央政府直轄の特殊な組織だったようですが……

「府県」は直轄地の支配単位

 明治政府発足時には、旧天領などの直轄地と「藩」が併存していました。 そして、直轄地の支配単位が紆余曲折の末「府県」に落ち着いたわけです。 ちなみに、現在でも「県」という言葉は県庁のことを指すのか県域のことを指すのかが曖昧ですが、「県庁」という「役所」のことを指すのが本来の用法です。 従って、初期には「○○県」のほかに「○○裁判所」などというのも存在しました(当時はもちろん、司法権が制度的に行政から独立していない)。 ちなみに、「廃藩置県」という言葉が、非直轄地の直轄地化を意味することになったのは、この事実が背景になっています。

 いずれにしても、1867(明治4)年の「廃藩置県」と、その後の「琉球処分」の一環としての1879(明治12)年の沖縄県設置の結果、北海道(+日清戦争以降の海外領土)を除いて日本国内が「府」と「県」だけになったわけです。 「全てが直轄地」になれば「直轄地であること」は当たり前になってしまいますから、「直轄地の支配単位」という本来の意味は忘れられて、「府県」が単なる「地方行政組織」の名前と認識されるようになったわけです。

「府」と「県」の違いは重要度の違い

 徳川幕府の天領には「奉行支配地」と「郡代支配地」がありました。 「奉行支配地」は主要都市などの重要地です。 ちなみに、天領における「代官」は「郡代」の配下です。

 感覚的には「奉行支配地」→「府」と「郡代支配地」→「県」と考えて良いだろうと思います。 但し、明治政府にとっての重要度と徳川幕府にとっての重要度は違うので両者が一致するわけではありません。 典型例は日光で、日光奉行は居ても、日光府は設置されませんでした(日光県は設置された)。

 初期には「京都・箱館・大阪(大坂)・長崎・東京(江戸)・越後(新潟)・神奈川・度会・奈良・甲斐」(設置順)の10府があったようですが、廃藩置県の少し前に、明治政府にとって特に重要な東京・大阪・京都だけを「府」とし、他は「県」に統一したようです。 (補足:甲斐府設置前に神奈川府が県に格下げになっているので、上の10府が同時に存在したことはありません。 その後、新潟府と越後府が並存したために10府になった時期があります。)

 また、「府」と「県」には命名方針の違いもありました。 「県名」は基本的には「県庁所在地名」で、管轄地域全体を指す地名は名乗らないのが原則です。 それに対して「府」は、後に管轄が周辺地域へ広がっていったため判らなくなってしまいましたが、元々は江戸や京都などといった「都市1ヶ所」を管轄するのが基本で、その管轄地名を名乗るのが原則でした。 そのため、最初から広域を管轄していた「府」は、管轄地域全体を指す地名を名乗るのが基本だったようです。

 しかし、このような「府」の重要性や異質性も次第に無くなっていき、戦後の地方自治制度の再整備によって単なる名前だけの違いになりました。

重要地を管轄する機関を「府」と命名した理由について

 「県」は秦の始皇帝にまで遡れる地方制度であり、律令以前の日本の地方単位である「あがた」にもこの字が当てられています。 それに対して、「府」という用語が一般的な地方制度の名前として使われた歴史は、漢字文化圏全体を見渡しても無さそうです。

 「府」という命名が古来どういう役所に使われているかを考えてみると、まず律令格式レベルでは

近衛府・兵衛府・衛門府/鎮守府
というわけで、全て武力を行使するという任務の役所です。

 その後、「国司」という、地方行政機構の「役所」を指す言葉がその長官を指すようになり、役所のことは「国府」と呼び、その所在地を「府中」と呼ぶようになってきました。 そして江戸時代には「お膝元の城下町」のことを「府内」と呼ぶようになります。

 こうして考えて行くと、

府=民衆や外敵を(主に武力で)直接的に制圧する役所
というイメージが浮び上がってきます。

 だとすると、「東京府」「大阪府」「京都府」というのも、「重要都市である東京・大阪・京都をしっかりと制圧する役所」という位置付けでこのように命名されたと考えるべきでしょう。



1999年12月27日WWW公開用初稿/2012年6月5日最終改訂/2012年7月17日ホスト移転

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