律令時代と現代との「省」の対応

 2000年の中央省庁改編で「大蔵省」が無くなった時に話題になり、防衛庁を「省」へ昇格させようという動きが具体化したときにも朝日新聞「天声人語」が引合いに出していましたが、現代日本における中央行政府の単位である「省」というネーミングは、古代の律令制度における「省」が起源になっています。

明治当初における律令八省の復活

 律令政府には「省」が8つあり、「八省」と呼ばれていました。 八省の機能は平安時代の間にかなり失われ、江戸時代には、八省に属さない小規模な役所も含めた全体が、ごく一部の専門職を除いて完全に形骸化していました。 しかし、各役所の役職(官職)は、役人の「社会的地位」を表現する肩書として存続していました。 宮中のみならず、武士たちも、現実の職掌とは全く無関係に官職を名乗っていました (わずかな例外として、広い領地を有する大名が、その領地を管轄する地方機関の長官を名乗るなどがありましたが)。 大奥に居た女性たち(特に公家出身の人たち)が武官や法務官の役職を名乗っているのは、冷静に考えると笑えます。

 明治政府は、当初は全く新たな命名で役所機構を整備しようとしたのですが、1869(明治2)年に「律令制度の行政機構」を一旦復活して実質的な機能を持たせたうえで、これを改造して行政組織を造り上げていく方針としました。 「王政復古」の建前に従った方が得策という判断だったのでしょう。 そして、宮内・大蔵・民部・刑部・兵部の5省が復活し、それとは別に外務省が設置されたのですが、中務・式部・治部の3省は復活しませんでした。

 中務(なかつかさ)省は天皇の秘書業務(暦の管理など天皇の権威にかかわることも含まれ、式部や治部との管轄境界が理解困難な部分も多い)、式部省は人事業務(子弟教育に関連して大学寮も管轄下)、治部省は姓氏や冠婚葬祭など皇族貴族や僧尼の身分管理に関わる業務を各々管轄する役所です。 いずれも、明治政府が行おうとする近代政治にとっては、独立の省を設置するほどのことは無いと判断されたのでしょう。 宮中に密接に関連する部分は、元々は宮中の生活上の(=政治的でない)調達等を管理する役所であった宮内省に吸収され、そうでない部分は近代的な感覚で各省に引き継がれたものと思われます。

八省に倣って命名された新設の省

 八省のうち5省は「○部省」という命名になっており、「部」の前に付く1文字で機能を表現しています。 明治政府も、最初のころは、この方式で新設の省に命名するのを一応の原則にしていたようです。 「一応」というのは、数としては例外の方が多いということなのですが、例外にはそれなりの理由がありそうです。 具体的には、「外務省/内務省」はハナから律令の発想から外れた職掌分類ですし、「司法省」は既存の省をあえて改組改名したもの、「陸軍省/海軍省」は既存の省を分離したものです。

 新設された「○部省」の最も早い例は1870(明治3)年の「工部省」です。 殖産興業政策を管轄し、当初は各種の官有企業を傘下に置いていたのですが、払い下げで交通と通信だけになったため、1885(明治18)年の内閣制度発足の機会に「逓信省」に改称しました (このとき、交通通信以外の殖産興業監督部門を農商務省に移管し、逆に農商務省から通信関連の部門を移管している)。

 なお、鉄道行政については、この後、内閣直属になったり逓信省管轄になったりの目まぐるしい組織改変で混乱し、1908(明治41)年に鉄道院(のち鉄道省を経て運輸省→国土交通省および国鉄→JR)が設立されるまで続きました。 この段階では逓信省は鉄道以外の運輸行政を担っていたのですが、順次鉄道省(運輸省)に移管されて通信のみを管轄するようになり、戦後に電気通信省(のち電電公社を経てNTT)を分離して郵政省となっています。 電気通信省の監督部門は電電公社設立のときに郵政省に戻っていますが、このときには名称は変えていません。 郵政省は2000年の省庁再編で現業部門を郵政事業庁(のち日本郵政公社を経て日本郵政株式会社)に分離したうえで総務省に統合されました。

 さて、工部省の次は1871(明治4)年の「文部省」です。 1885(明治18)年の内閣制度発足以後まで残った唯一の「○部省」で、その後も生き残りつづけ、2000年の省庁再編に際しても「文部科学省」という形で名前が残りました。

 そのあと、1872(明治5)年に「教部省」が設置されています。 これは、元々律令では太政官と形式的に対等だった「神祇官」が1871(明治4)年に「神祇省」に降格された後、さらに宗教政策に特化した役所に再構成されたものです。 このとき、天皇家内部の神祇祭祀機能は宮内省に移管されています。 教部省は1877(明治10)年に内務省に統合され、1913年に国家神道管理機能を内務省に残した形で文部省に移管されています。

名を変えつつ現在まで引き継がれている省

 さて、名目的に律令のものが復活した5省のうち宮内・刑部・兵部の3省は、職掌も律令の通りだったと言って良いと思われます。

 宮内省は、中務省・治部省・神祇官の職掌を吸収した側面もありますが、基本的な枠組みは変っていないと考えて良いでしょう。 現在も宮内庁として残っています。 ちなみに、内閣制度発足に際して宮内省は別格とされ、宮内大臣は内閣を構成していません。

 刑部(ぎょうぶ)省は1871(明治4)年に弾正台を統合して司法省に改組し、戦後の司法権完全独立の結果、法務省に改組されました。

 兵部(ひょうぶ)省は1872(明治5)年に陸軍省と海軍省に分離して敗戦後の廃止まで続いています。 そして、戦後の再軍備で保安庁→防衛庁となって、これが防衛省に昇格されたわけです。 「天声人語」では、これを「兵部省の復活」と皮肉っていました。

大蔵省は財政を管轄しなかった!

 残るのは民部省と大蔵省です。 大蔵省は2000年に財務省と金融庁に改組されるまで名前が残りましたが、実態としては律令の大蔵省とはかなり異なるものです。 近代大蔵省の機能を象徴する下部組織に「主税局」「主計局」があり、財務省にも引き継がれていますが、律令制度で同じ名前を有する「主税寮(しゅぜいりょう/ちからのつかさ)」「主計寮(しゅけいりょう/かずえのつかさ)」は、大蔵省ではなく民部省に属します。 財政は民部省の管轄だったのです。

 では、律令の大蔵省は何をしていたかというと、財産管理を扱う役所だったのです。 管理対象である「財物」の範囲は広かったようで、朝廷の仕事として工芸品等を作るのも大蔵省の管轄です (但し、宮中行事に密接に関連するものなどは宮内省や中務省の管轄だったりして、大蔵省の管轄は狭い)。 また、派生して「市」の管理や「造幣」も大蔵省が管轄していたようなので、経済政策の一部も含んでいたといえるかもしれませんが、あくまで「ついで」です。

 そうなると「民部省」とは一体何かということになるのですが、「民政一般」を管轄したんですね。 ただ、律令時代には民政はほぼイコール徴税であり、戸籍管理も徴税のための台帳整備だったわけですから、結局のところ財政を管轄することになってしまうわけです。

 ちなみに、現在の「主税局/主計局」は「歳入を扱う/歳出を扱う」という区分ですが、律令では「主税寮」は「租」を扱い「主計寮」は「庸調」を扱うという形で「税の種類」で区分されていたようです。 ただ、「租」に関しては「誰からいくら収納するか」の管理が重要で「庸調」に関しては「誰にどのように配分するか」の管理が重要なので、結果的に現在の「主税局/主計局」に対応することになるようです。

近代政府の機能の大部分を占める民部省

 「民部省」が「民政一般」を管轄するということは、よく考えてみると、近代政府の機能の大部分が「民部省」に属してしまうということになります。 当然ながら、このことが明治政府の組織上、最初の大問題になったようです。

 明治政府には西洋の政府組織を勉強してきた人が沢山居たわけですから、財政と財産管理が分離している不合理は最初から問題になっていて、5省を復活させた1869(明治2)年のその年のうちに、トップ人事を共有する(例えば民部卿は大蔵卿も兼任する)ことで事実上の合併がなされています。 ところが、この「民部大蔵省」というのは「財政と民政」を全て管轄するわけですから、その後の内務省もビックリの強大な権限を有する役所となってしまいます。 しかも、大蔵大輔兼民部大輔(「大輔」は律令における「省」のナンバー2)の大隈重信が更なる権限強化を図ったことから権力闘争になってしまい、翌年には再分離されました。

 しかし、それで話が終わったわけではなく、さらに翌年の1971(明治4)年に文部省や司法省の設置を伴う大改組があった際に民部省が廃止されて大蔵省に吸収されています。 その結果、大蔵省が戸籍業務などの民政を担うことになり、結局「強大な権限を有する役所」が復活してしまいました。 ただ、それに先立って1870(明治3)年に工部省が民部省の職掌の一部を引き継ぐ形で設立されており、これには民部省の権限を少しでも弱めようという意図があったようです。 民部省廃止のときにも、職掌の一部が追加で工部省に引き継がれています。

 その後、1973(明治6)年に「内務省」が発足したことにより、大蔵省は財政と通貨政策のみを担当する役所となります。 民政全般を担当するという意味では内務省は民部省の後継であると考えることもできますが、徴税機能を有さないことが大きな違いです。 その代わりに、内務省は司法省から警察機能を引き継ぎました。 この「警察機能を一体化した」というところが、その後の内務省の強大な権力を支えることになります。

 2000年省庁再編までの戦後体制では、自治省・建設省・国家公安委員会(警察庁)が 典型的な「旧内務省系」と認識されていました。 厚生省と労働省も旧内務省系なのですが、戦前の政策を継承できなかったようなところがあったためか、あまり典型的とは見做されていないようです。 また、通商産業省(当初は商工省:現経済産業省)や農林水産省も元々は内務省から分離した農商務省が発祥ですが、分離のタイミングが早かったために、いわゆる「内務官僚」からは距離を置いた存在になったわけです。 2000年省庁再編の目玉の1つに「国土交通省」というのがありますが、これは「旧内務省系」の建設省とそうではない運輸省という、出自の違いゆえに仲の悪かった2つを統合したというところが画期的だったわけです。

このページの内容は、NetNewsの fj.rec.history に投稿した <7fmmq7$31t@nws-7000.lbm.go.jp> (22 Apr 1999 08:32:07 GMT) に 大幅に加筆したものです。

参考文献

新編日本史辞典(東京創元社:1990)ISBN4-488-00302-8
日本史広辞典(山川出版社:1997)ISBN4-634-62010-3
角川新版日本史辞典(角川書店:1997)ISBN4-04-032002-6
Wikipedia「工部省」 「逓信省」 「鉄道省」 「民部省」 「大蔵省


2006年2月21日WWW公開用初稿/2009年11月12日最終改訂/2011年7月29日字句修正/2012年7月17日リンク修正

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