1979年に死去した祖父が「家系図」を持っていた。 中学生の時にコピーさせてもらい、夏休みの社会科自由研究のネタにしたことがある。 その時のコピーは大阪の実家にまだ残っているし、それを更にコピーしたものが筆者の手元にある。
戸田家は、元々平成大合併までの愛媛県周桑郡小松町(現西条市内/松山から真っ直ぐ東へ進んで山を越えて再度海辺へ出るあたりで、高速道路のインターチェンジがある)を在所としていた。 祖父は小松にはほとんど在住していないのだが、「故郷」は小松という意識が強かったようで、墓も遺言により小松にある。 ちなみに「周桑郡」は明治に入ってから「周布郡」と「桑村郡」が合併してできた郡である。
系図をコピーさせてもらったときに聞いた話では、親戚の「学校の先生」が作ったということだった。 嫡流の最後に掲載されている「玉井嘉三郎」なる「早大文学部卒、教育界に入る」との注記がある人物が作者なのかもしれない。 その人物の父親が昭和8(1933)年に、大伯父が文政4(1821)年に死んでいるので、おそらく明治の間に学業を終えている程度の世代と思われる。 ちなみに、筆者はこの「大伯父」のさらに叔父にあたる「戸田六三郎」なる人物の「五世の孫」にあたる。
系図作成に際して、近世以降は菩提寺の過去帳を基礎資料にしたらしい。 それゆえ、作成時に存命だったと思われる以外の登場人物全員について、戒名と没年月が判っている。 というか、半数以上が名前と戒名と没年月しか判らない。
過去帳で辿れる最初の人物は、落武者だということで素姓も(真偽はともかく)明らかにされているので、そこからはその家系に関する種々の資料を集めれば神代まで遡れてしまうというわけである。 作者は、おそらくこの方法によったのだろう。
以下は、この家系図の内容から骨子を抽出して整理したものである。 即ち、筆者の直系祖先以外の人物は全て除き、記載されている文章もかなり省略した。 家系図以外からの情報は、年号の西暦換算と表外説明文を除いて、《》で囲んだ。
94 | 《この5代を「別天神」と呼ぶ。 親子関係で結ぶのは大いに疑問だが、系図を作る時はそういうふうに書くことになっているらしい。》 | ||
93 | 高皇産靈神 | ||
92 | 神皇産靈神 | ||
91 | 宇麻志阿斯訶備比古遲神 | ||
90 | 天常立神 | ||
89 | 國常立神 | 《この7代を「神世七代」と呼ぶ。 親子関係で結ぶべきかどうか疑問なのは別天神と同じ。》 | |
88 | 豊雲野神 | ||
87 | 宇比地迩神・須比智迩神 | ||
86 | 角杙神・活杙神 | 「杙」は右側が「戈」になった字体 | |
85 | 意富斗能地神・大斗乃弁神 | ||
84 | 淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神 | 「陀」は右側が「施」の右側になった字体。 | |
83 | 伊弉諾神・伊弉册神 | ||
82 | 天照大神 | 《有名な「アマテラスオオミカミ」、即ち天の岩戸に隠れたら世の中が真っ暗になったという太陽神で、皇室の祖先とされる人物。古代史の常識だが、一応念の為。》 | |
81 | 正哉吾勝々速日天忍穂耳命 |
80 | 天火明饒速日命 | 弟の瓊々杵尊(皇祖)に先行し、十種の神宝を賜って降臨。 尾張國真清田神社祭神。 《瓊々杵尊(ににぎのみこと)の降臨が所謂「天孫降臨」である。》 |
79 | 可美真手命 | |
78 | 彦湯支命 | |
77 | 出石心大臣 | |
76 | 《「大矢口宿彌」とする説の方が有力。 大新川命の兄に「大水口宿彌」なる人物があり、混同されたらしい。》 | |
75 | 大綜杵命 | |
74 | 伊香色雄命 |
手元の家系図では、どこで物部嫡流から別れるか記載されていないが、崇仏の是非をめぐって蘇我氏と対立して滅ぼされた「尾興・守屋」の親子は、次の大新川命(大新河とも)の弟「十市根」の6世&7世の孫にあたるらしい。
73 | ||
72 | 大小市連 | 《「小市」は「越智」の古い表記で、そういう意味ではここから「越智氏」が始まると考えることもできる。》 |
71 | 子致命 | 《この人1代が抜けている系図も存在する。 また、この人を孝霊天皇の孫皇子(伊予皇子(彦狹島尊)の子)「小市御子」とする(即ち、越智氏は物部氏ではないと主張する)系図も存在する。 「子致」は「小致」「子到」とも表記し、これも「越智」の古い表記。》 |
70 | 天狹貫 | 「あめのさぬき」と読む。 |
69 | 天狹介 | 「あめのさすけ」と読む。 |
68 | 粟鹿 | 「あわか」と読む。 |
67 | 三並 | 「みなみ」と読む。 仲哀天皇の熊襲征伐のときの功績により家紋を改める。 |
66 | 熊武 | 神功皇后の新羅征伐に功績があり、朝鮮鎮守将軍として現地に残る。 |
65 | 伊但島 | 「いたじま」と読む。「但」は右側が「且」になった字体。 《「伊但馬」と表記する資料もある。》 応神天皇24年に新羅の攻勢があり、抗戦するも不利となり、祖父三並が館から夫人と二女を逃がそうとしたが途中で敵に遭遇して従者は全滅、3人とも自害した。 夫人鶴瀧姫34歳・長女福時姫14歳・二女綾勝姫12歳。 《本ページを見た方から、宇和郡板嶋郷(古くは板道間郷と表記:現宇和島市街北部)の地名起源を、伊但馬がこの地に館を構えたことによるとする説があり、日振島村史などに記載されているという情報をいただきました。》 |
64 | 喜多守 | 仁徳天皇53年に新羅と交戦。 |
63 | 高縄 | 別名躬尺丸。雄略天皇8年に新羅へ出兵して功績を挙げる。 |
62 | 高箕 | |
61 | 勝海 | |
60 | 久米丸 | |
59 | 百里 | |
58 | 百男 | 欽明天皇23年に高麗《新羅のこと?》へ出兵して戦利品を持ち帰る。 |
57 | 益躬 | 越智郡大領。 推古天皇17(619)年に新羅の「鉄人」大将が率いる八千余人の軍が襲来した。 「鉄人」は鉄の体に兵器が通用しないため手に負えず、中四国まで攻めて来られた。 そのため、出陣を命ぜられて数日戦うが状況は不利であったため、偽降して播州明石浦和坂で対面したところ、鉄人の足裏に眼があることを察知した。 そこで、隠し持っていた矢で足裏を射たところ、頭まで貫通して真逆様に落馬したので、益躬の家来が首を取った。こうして敵を退治することができた。 《この年には、聖徳太子がまだ生きている。 この時期に朝鮮半島絡みで大規模な戦闘があった記録は記紀には無いハズ。 そもそも、新羅に明石まで攻めて来られたなんていうことが、歴史上1度でもあったっけ?》 |
56 | 武男 | 桑村郡《現西条市/平成大合併まで東予市》大明寺(のち実報寺)を造営。 |
55 | 玉男 | |
54 | 諸飽 | 桑村郡楠村《平成大合併までの東予市楠/現西条市内》道安寺を造営。 |
53 | 萬躬 | |
52 | 守興 | 伊予大領。 天智天皇朝の征異に軍功があり、異国に3年居て白鳳13年2月22日薨。 《白鳳は白雉と同じとするのが定説だが、異論もある。 白雉という年号は5年までで終わって、しばらく年号が無かったことになっているが、外挿して白雉13年を比定すると662年になる。》 一書によると、斎明天皇による百済救援に従軍して白林江《白村江の誤写らしい》で敗れて唐まで連行された後、逃げ帰ったという。 《白村江の戦は記紀では663年。》 |
51 | 玉興 | 散位伊大夫伊予大領。 桑村郡桑邑《平成大合併までの東予市三芳/現西条市内》一宮三島神社の1社を建立。 三芳光明寺を再建したとも。 |
50 | 玉澄 | 《玉純と表記する資料あり。》
玉興の弟で、世子の無かった玉興の養子となる。
一城を築いて居したため、新居殿とも称された(館跡は新居郡《現西条市》高外木城=高峠城)。
のち風早郡河野郷《現北条市》に居依し、河野氏を称する。
天平19(747)年4月8日卒。 天平5(733)年に三島明神が現れ、勅命により、嫡子益男に国政を執らせ、次男安元に社職を務めさせるという、国政と祭祀の分離を行った。 このとき、安元は神託により「大祝《おおはふり》」となる。 |
49 | 益男 | 周布郡司。天平年間に周布郡井手郷に三島明神を勧請。 |
48 | 真勝 | 実勝とも。西条に館。 |
47 | 深躬 | 桑村郡司。桑村に館。 桑村三島社記に水田1町3反を寄進したとある。 |
46 | 息村 | 《興村と表記する資料あり。》桑村に新館を構える。 |
45 | 息利 | 《興利と表記する資料あり。》樹下押領使。 |
44 | 息方 | 《興方と表記する資料あり。》大井館。 |
43 | 好方 | 越智押領使。 追捕海賊使小野好古と共に藤原純友《反乱は939~941》を討ち、被官奴田新藤次忠勝が純友の首を得る。 |
42 | 好峯 | 野間押領使。 |
41 | 安國 | 風早大領。 |
40 | 安躬 | 喜多郡司。 |
39 | 元興 | 温泉郡司。《次代との間に元家(久米権介)を挟む資料あり。》 |
38 | 家時 | 《時家とする資料あり。》和気大夫。 |
37 | 爲世 | 桓武天皇第四皇子伊予親王の長男で、母親は家時の娘。 親王を皇位につけようとする策略が露見して藤原夫人(親王の母)が自害した後、家時が親王の子を潜かに撫育し、伊予に下向した橘清友に預け、その子と称する。 7歳の時に上洛して嵯峨天皇皇后の橘嘉知子に寵愛され、「准第十八皇子」とされて藤原姓を賜る。 下向して浮穴郡高井里に住み、浮穴四郎を称する。 |
事典の類をあたると、このあたりで後世の河野氏が系図を捏造しているという説が出てくる。 つまり、古くから河野氏をも称していた越智氏の地位を簒奪した後世の河野氏が、正統性を主張するために捏造したというのである。 爲世が桓武天皇の孫というのも怪しい話であるし、河野氏嫡流で爲世の次代である爲時も、爲世の弟とする説と子とする説があってよくわからない。
ちなみに、後世の河野氏が間違い無く「河野」を名乗ったのは爲時の玄孫にあたる親經からであるらしい。 その孫通清と曽孫通信は源平合戦で源氏方として働き、鎌倉の御家人となった。 そして、承久の乱や南北朝動乱による中断を除いて、豊臣秀吉の四国征伐で滅ぼされるまで代々伊予守護職を務めた。
なお、「浮穴」は現在では「うけな」と読むが、古くは「うきあな」だったらしい。 明治に入ってから「浮穴郡」が上下に分離し、さらに下浮穴郡は伊予郡などに吸収合併されたので、上浮穴郡だけが現存している。
36 | 藤原大夫。 弟から大野氏・井戸氏・井上氏や神太夫家(大祝家を輔ける家)が出ている。 | |
35 | 季成 | 玉重丸、浮穴五郎太夫。玉井氏を称する。 (爲世が下向して住んだ浮穴郡高井里の館)を相続する。 父母に深く愛され、祖先玉興と玉澄の名を重ねて玉重と命名。 父祖《って誰?》尊崇の玉生八幡の聖蹟に因んで玉井を名乗る。 《いかにも怪しい記述で、玉井氏は実は河野の血縁ではないことを意味しているのかもしれない。》 |
34 | 玉季 | 改め爲成。 浮穴五郎太夫。 始め浮穴に在し、後に新居に移る。 |
33 | 成澄 | 成俊ともいう。 新居太夫。 弟から井手氏・難波江氏・神戸氏・周敷氏・今井氏などが出ている。 |
32 | 言明 | 太郎判官。 |
31 | 守俊 | 拜志三郎。 弟から桑村氏・高橋氏などが出ている。 |
30 | 豊俊 | 明四郎。 |
29 | 盛明 | 三郎右衛門。 |
28 | 義明 | 北条太夫越智親孝《河野親經の父》に仕官。 この時代から陪臣となる。 《河野本家が爲世から4代しか経過していないのに、玉井氏は8代経過しており、不審。》 |
27 | 時繁 | 徳三郎兵衛。 伊予守源頼義下向時に仕官して武功があった。 |
26 | 忠興 | 河野四郎通清に仕え、《源平合戦の初期に》平家方の奴賀西寂《奴可入道西寂とも》に攻められ、高縄城で主君に殉ずる。 |
25 | 忠輝 | 河野通信《通清の子》に仕え、先君や父の仇を討つべく、《源平合戦の中で》西寂入道を生捕にし、通清の墓前で斬る。 一騎当千の名を称された。 |
24 | 通孝 | 承久3(1221)年に通信が後鳥羽上皇方についたため奥州に配流され、忠輝は戦死し、遺孤離散した。
成長後、功によって通治に帰参し「通」の字を賜る。
元弘元(1331)年3月、通治に従って京都に入り、大高次郎重成に敗られ、通治は関東に遁れ、通孝は越智頼連と共に自刃する。 《父親が戦死してから110年後に戦死したというのも無茶苦茶な話で、間の何代かが抜けている可能性が高い。 承久の乱においては、通信の子通久(北条時政の女婿)が北条方についた他は河野一族の多くが上皇方につき、戦後に通久が河野本家の相続を認められたが勢力は弱まったらしい。 蒙古襲来のときに敵船に斬り込みをかけたりして大活躍した通有は通久の孫にあたるが、活躍の背景には承久の乱の失地を回復するという動機もあったという説がある。 河野通治は通有の子(嫡孫を養子にしたとする資料もある)で、後に通盛と改名している。 元弘元年というのは、元弘の変(後醍醐天皇が隠岐配流となる原因になった第2回挙兵計画)の年であるが、挙兵計画が発覚して騒ぎが始まるのが同年4月のことであるし、この年の時点では通治は鎌倉幕府側についていたらしいので、話が合わない。 元弘3(1333)年の後醍醐天皇の隠岐脱出→鎌倉幕府滅亡に際して河野一族の一部は早々に呼応したが、通治自身は5月の京都六波羅探題陥落時まで幕府側についていて鎌倉へ逃げたらしく、太平記にも足利尊氏配下の大高(だいこう)重成が河野氏と戦ったとあるので、その時の話が錯綜した可能性が高い。》 |
23 | 通貞 | 大三郎。 河野家衆越智郡鈍川村《現玉川町鈍川(にぶかわ)》鷹ヶ森城主越智氏に仕える。 |
22 | 正盛 | |
21 | 義正 | 勘兵衛。 越智上総介爲信《通貞が仕えた鷹ヶ森城主の子孫と思われるが不詳》に仕える。 |
20 | 通冬 | 枚之助。 河野弾正少弼通直《通治(通盛)の玄孫……としておこう。 このころの河野氏の相続関係は複雑なようで、同名人物も多いため人物特定が困難らしく、資料によって系図が矛盾している。》に従って、永正5(1508)年に大内義興が前将軍義尹を奉じて上洛するのに同行し、戦乱中討死。 |
19 | 正次 | 通之助。 左京大夫通宣《通直の子か? 応仁の乱で対立した分家に同名別人が居り、官職はこの別人と符合》の命で、天文2(1533)年に風早郡米野村《現北条市米之野》高縄寺再建の作業奉行。 弘治元(1555)年5月13日病死。 |
18 | 盛清 | 鈍川村応ヶ森城主越智駿河守通能《3代くらい前の河野本家に「通能」が居るが、もちろん別人だろう。 よこぴい氏の「歴史の館 東方不敗」(デッドリンク)の中の「戦国将星録」では、この越智氏を河野氏譜代の「正岡氏」の系統に分類している。 ちなみに、このページには同じく河野氏譜代の「黒川氏」の執事として「玉井備前守」というのが出てくるが、別系統だろう。》の臣。 天正13(1585)年に小早川隆景が秀吉の命で来攻し、討死。 |
17 | 五左衛門 | 旧名を義正。 天正13(1585)年の小早川来攻の際には道前大曲砦に居たが、野々市ヶ原合戦で大敗し、その後の攻勢に抗しきれず、周布郡塚村(のちの小松村)の土地を開墾して帰農する。 後に三島明神《現在の小松町中心部西外れにある三島神社?》を祭ったので、新宮村と呼ばれた。 元和元(1615)年10月6日没。 |
16 | 菅左衛門 | 正保2(1645)年7月3日没。 |
15 | 嘉平治 | 耕地開発に多大な功績があり、新宮郷内に「嘉平治株」と称する地が多く残っている。 明暦3(1657)年2月没。 |
14 | 新兵衛 | 寛文元(1661)年2月没。 |
13 | 「多」は上半分が「ヨ」の形の字体。 元禄4(1691)年12月没。 | |
12 | 甚左衛門 | 正徳5(1715)年2月没。 |
11 | 九兵衛 | 享保2(1717)年8月没。 |
10 | 太郎右衛門 | 享保18(1733)年9月没。 |
9 | 七助 | 陶窯を興し、人を使って瓦を焼き、小松領《領主は一柳氏:外様1万石》内の窯業の嚆矢となり、「御用窯」を拝命する。 宝暦11(1761)年11月没。 |
8 | 彌左衛門 | 御用窯第二代。 天明3(1783)年5月没。 |
7 | 彌八郎 | 御用窯第三代。 寛政元(1789)年7月没。 |
6 | 宇右衛門 | 御用窯第四代。 文政3(1820)年12月没。 |
5 | 六三郎 | 宇右衛門三男。 北川村《現小松町北川》の瓦師である戸田家を継ぐ。 弘化元(1844)年1月3日没。 |
4 | 松之助 | 瓦業は継がず農を営む。 明治22(1889)年3月没。 |
3 | 信吉 | 松之助二男。 《筆者の父の記憶では「延吉」が正しいとのことだが、現存する墓には「俗名信吉」とある。 両方使っていたのかもしれない。 兄の虎助が家を継いだため故郷を離れ、松山で豆腐屋を営む。 虎助の曽孫にあたる方が小松在住であり、関西の戸田一族^_^;は今でも「小松の家」と呼んでいる。》 |
2 | 《信吉長男。 大正年間に洋裁職人としての修行を積むため各地を転々とし、神戸で独立開業。 晩年は大阪市城東区や門真市に在住。 1894年生まれ、1979年没。》 | |
1 | 《宏》 | 《壽賀一 五男。 1928年神戸生まれ、大阪市平野区在住。 数学者。》 |
0 | 《孝》 | 《宏二男。 このページの筆者。》 |