大石内蔵助良雄以下47名の元赤穂藩士らが吉良上野介義央を亡主の仇として討ち取った事件は「忠臣蔵」として有名です。 ところで、この事件が何年の出来事かということが話題になることがあります。 といっても、記録が曖昧で事実がよくわからないという問題ではありません。 歴史学上の「暦の記述」の問題なのです。 ですから、「忠臣蔵」事件に限らず、この季節に起った出来事には全て同じ問題が生ずるのですが、一番有名なこの事件を引合いに出して語られることが多いのです。 実のところを言うと、内田正男氏などという暦の権威とも言うべき人が、この問題に関してだけは大ボケの主張をしていたりして、なかなか厄介な状況になっているとも言えます。
とりあえず事実関係を整理しておくと、事件が起ったのは「元禄15年12月14日」です。 このことに異議がつけられてはいません(午前0時を過ぎていたので現代風には翌15日だという話もありますが、この文章の趣旨には影響しないので無視します)。 そして「元禄15年」は西暦の「1702年」に相当します。 ところが、この「12月14日」という日は、当時日本全国で使われていた「貞享暦」(現代日本で言う「旧暦」とほぼ同じと考えて差し支えありません)による日付であり、グレゴリウス暦(グレゴリオ暦:現代日本で言う「新暦」)だと、翌年の「1月30日」になってしまいます。
このことを理由に、この事件は翌「1703年」の事件だという主張が堂々とまかり通っているのです。でも考えてみてください。
年が季節に同期しない暦(イスラム暦など)や、夏(晩春・初秋)を年始とする暦(そんなの実在するの?)、あるいは南半球の季節感に基づく暦ならともかく、日本の暦に基づく「年」と西暦の「年」との対応関係に不確定要素はありません。 ですから、日本の暦に基づく「年」を西暦で識別すること(つまり日本の暦に基づく日付を西暦の年号に続けること)には何の問題もありませんし、歴史学の記述としては積極的にそうするべきなのです。
逆に、西洋の暦に基づく「年」を和暦で識別することにも何の問題もありません。 日本で専ら「旧暦」が使われていた時代についてそんなことをしても何かが便利になるわけではないので、普通はそんなことをしないというだけのことです。
もちろん、この場合には同じ「年」でも暦によって何十日かのズレが生ずるわけですが、ヨーロッパの中でもユリウス暦からグレゴリウス暦への切替(非カトリック国は改暦を素直に受入れなかった)に際して生じた現象と同じことですし、何の問題もありません。 現代日本でも、例えばこの文章の初稿を書いている日について「新暦では年が明けて2002年(平成14年)だが、旧暦ではまだ2001年(平成13年)である」という表現が問題無く使えます。
「忠臣蔵」の年について言えば、「日本の貞享暦における“1702年(元禄15年)”」は、グレゴリウス暦の「1702年(元禄15年)1月28日〜1703年(元禄16年)2月15日」(閏8月が入って13ヶ月間)に相当し、
最初の「忠臣蔵事件は何年の出来事か」という問題に戻れば、「準拠する暦によって1702年または1703年」というのが、一応の正解です。 ただ、どの暦に準拠するのを「標準」と考えるべきかという問題は残ります。
「忠臣蔵」事件は、当時の日本社会の中で閉じた事件であり、「貞享暦」以外の暦との関わりが全く無い出来事です。 ですから、その年月日は特に注釈が無い限り貞享暦で記述されるべきであり、貞享暦に従えば「1702年」の出来事ということになります。
「忠臣蔵事件は1703年の出来事である」という記述は、「西洋の暦(グレゴリウス暦orユリウス暦)では」などという注釈を入れない限りは誤りです。