ギリシャとラテンのアルファベットの微妙な差異

 ギリシャ文字を御存知ですか? 全ては知らなくても、部分的に知っている人は多いと思います。 有名なところでは、円周率のπ(パイ)、総和のΣ(シグマ)、 電気抵抗の単位「オーム」に使われるΩ(オメガ)、 角度を表わす変数θ(シータ)、密度を表わす変数ρ(ロー) などがあります。その他数式の中で種々の意味で用いるので、 高校レベル以上の理科や数学の教科書・参考書には、ギリシャ文字の一覧表、 つまりギリシャ・アルファベットが掲載されていることがよくあります。

 さて、このアルファベットを見慣れたラテン文字(ローマ文字)のものと比較して、 「妙なところで微妙に違うんだな」と思った方は無いでしょうか? 全体的に何と無く似ているのにも関わらず、 1ヶ所や2ヶ所ではなく、沢山の細々した差異があるのです。 これには、それなりの歴史的経緯があるのですが、 それを順に見て行くことにしたいと思います。

新しい時代の文字追加

 まず、ラテン・アルファベットには、比較的新しい時代(10世紀以降)に 文字が追加されていることを確認しておきましょう。 これが入ったままだと、見通しが悪くなるからです。

 文字の追加とは言っても、全く新たな文字が入ったわけではなく、 元々同じ文字だったものが状況によって違う発音に対応するようになったために、 その状況に応じて文字を使い分けるようになったのです。 具体的には、「IJ」「UVW」という2組が、元々は同じ文字でした。

 「J」は、英語やフランス語などでは、日本人には「ジャ行」に聞こえる 子音として使うので、そういう音の文字だと思っている人が多いと思いますが、 本来は「ヤ行」の子音を表わす文字です。 日本語でも、例えば「やかましい」が「じゃかやしい」に訛ったりすること でもわかるように、「ジャ行」と「ヤ行」は舌の位置が近く、 相互に変化しやすいようです。 なお、英語では「ヤ行」を「Y」で表わしますが、 ヨーロッパ全体を見渡すと圧倒的少数派です。 「Y」については後述します。

 話を戻して、元々「ヤ行」というのは「I」を半母音化して 子音として用いた音です。そして、当初は「I」という字を 母音と半母音の両方に用いたのですが、 そのうち(15世紀ごろ)、母音には「I」、 半母音には「J」という使い分けが成されるようになったわけです。

 同様にして「V」という字も、 「ウ」という母音と「ワ行」の半母音の両方に用いていたのが、 母音には「U」、半母音には「V」という使い分けが起こりました(10世紀ごろ)。 ところが、この半母音の「V」を含む単語を 唇を噛む「ヴァ行」の音に変えて発音する地域が増え、 ヨーロッパの中でも地域によって「V」の発音が違うという 混乱状態になってしまいました。 偶々「ワ行」「ヴァ行」の両方の発音を共によく使う言語を使っていた イングランドを征服したノルマン人が、 「ワ行」の子音を表わすための「W」という文字を考案し(11世紀ごろ)、 それが各地に広がったのですが、その使い方も様々で、 結局のところ新たな混乱を招くだけのことになってしまったようです。

 さて、現在のアルファベットの配列を見ると、 以上の「10世紀以降に区別されるようになった」文字は 固めて並べて配置されています。これを各々1つにまとめた

ABCDEFGHIKLMNOPQRSTVXYZ
というのが、ラテン・アルファベットの10世紀以前の形です。 そして、最後の2文字は、紀元前1世紀にローマがギリシャを 支配下に置いた以降に、追加されたものなのですが、 これについては後でまた詳述します。

ギリシャでの不要文字削除

 というわけで、紀元前1世紀以前のラテン・アルファベットと ギリシャ・アルファベットを並べてみましょう。

ΑΒΓΔΕΖ ΗΘΙΚΛΜ ΝΞΟΠΡΣ ΤΥΦΧΨΩ
   
随分と一致が良くなりましたね(ラテンの「V」は上述したように「U」であり、 ギリシャの「Ρ(ロー)」はラテンの「P」ではなく「R」であることに注意)。 しかし、微妙にズレが生じているところが若干あります。 実は、この一致には少々ゴマカシがあるのです。

 元々、ギリシャ・アルファベットは、フェニキアのアルファベットを 輸入して、ギリシャ語向けに改変を加えたものと考えられています。 その改変も一時に行われたわけではなく、徐々に進められました。 そして、その古い形には、以下のように「F」と「Q」が入っていたようです。

ΑΒΓΔΕFΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠQΡΣΤΥ
(最後の4文字は後世の追加なので、ここでは並べなかった)
(この段階で既にフェニキア起源の文字が一部削除されているが、 それについては、この文章では言及しない)
ここで「F」は「ワウ」または「ディガンマ(二重のΓ)」と呼ばれ、 「ワ行」音を表記するものでしたが、 ギリシャ語がこの音を使わなくなったために、消えてしまったのです。 一方の「Q」は「コッパ」と呼ばれ、 元のフェニキアでは「Κ(カッパ)」と区別される音だったのですが、 ギリシャでは区別がありません。 当初は「Κ」が「Υ」に続く時のみ「Q」に近い発音になることから、 その場合のみ「Q」を使っていたようですが、やがて使われなくなりました。 細かい話になりますが、 当初はギリシャでも「ワ行」音はあったようで、 「Υ(ウプシロン)」は「ワ行」と「ウ」を区別するために ギリシャ人が早い時期に後尾に追加した文字です。 「F(ワウ)」には2本の棒が同じ側へ出るように書く書き方と 反対側へ出るように書く書き方があり、 後者の書き方が「Υ」になったようです。

 ところが、このような変化が起こる前に、 アルファベットがローマまで伝えられ、 「Q」はそのまま「V(U)」へ続く時のみに使う「カ行」音の字となり、 「F」はギリシャ語には無い「ファ行」音を 表記するのに転用されたらしいのです。 「ファ行」音はギリシャ語の「Φ(ファイ)」に似ていて、 後にギリシャの語彙を導入する際には「Φ」を「PH」と表記して 「ファ行」に発音していますし、 キリル文字で「ファ行」音を表わす「Ф(エフ)」も 「Φ(ファイ)」を流用したものです。 しかし、ローマ人はむしろ「ワ行」との近縁性に着目したようです (当初は「FH」と表記していたが、そのうち「F」のみになった)。 「ΘΦΧ」は、元々「帯気音」で発音されていたのが、 遅くとも4世紀には他の発音で替えられるようになったらしいので、 そのことが影響しているかもしれません。

 なお、「Η(イータ)」は古くは「ヘータ」と呼ばれて 「ハ行」音を表わす子音字だったようです。 しかし、この音もギリシャ語では使われなくなったため、 「Ι(イオタ)」とは少し違う母音を表記するのに転用されたようです。 そしてこれも、その変化が起こる前にローマに伝えられたようです。

ローマでの文字削除と入替

 というわけで、「F」や「Q」が消える前のギリシャ・アルファベットを、 古い時代のラテン・アルファベットと改めて対応させてみると、 以下のようになります。

ΑΒΓΔΕ ΖΗΘΙΚΛ ΜΝΞΟΠ ΡΣΤΥΦΧ ΨΩ
        
 空白部分は、ラテン語には無い音なので消えた文字 (厳密には、Ωはギリシャでの追加前にローマへ伝わり、 消すまでもなかったらしい)です。 空欄は5ヶ所ありますが、実は「ΖΘΞΦΨΩ」の6文字が消えています。 このうち「Ζ」は、 単に消えるのではなく「G」に置き替わったのです。 このようなことになった事情は、少々複雑です。

 そもそもアルファベットはギリシャからローマへ直接伝わったのではなく、 間のエトルリアを経由して伝えられたようです。 そして、このエトルリア語には「カ行」音の清濁の区別がありませんでした。 そのため、「Γ(ガンマ)」が丸くなってできた「C」という文字で 「カ行」音と「ガ行」音の両方を表記することになったわけです。 この流儀は、当初はそのままラテン・アルファベットに継承されたのですが、 ラテン語では「カ行」音の清濁の区別があるので、このままでは困ります。 そこで、「C」にヒゲを付けて 「G」という字形にすることで区別しようとしたわけです。 この結果、ラテン・アルファベットには 「カ行」音を表わす文字が「CKQ」の 3つもあるという事態になってしまいました。

 では、何故「G」を後世の「J」や「VW」のように 「C」の直後に配列しなかったのでしょうか? これには、おそらくアルファベットを数字としても用いる習慣、 つまり「A」を1、「B」を2、「C」を3……という具合 (10の次の文字は20、30……と進み、90、100の次は200、300……) に使う習慣が関係しているのではないかと思います。 このため、アルファベットに文字を追加したり削除したりすると その後の文字に持たせる数価が変わってしまい、不都合です。 そのために、不要な「Ζ」と入れ替える形にしたのではないかと思われます。

 尤も、ローマでは「Θ」や「Ξ」が使われた痕跡が無いようですから、 アルファベットを数字としても用いる習慣は無く、 ただ「文字の順位を変えてはならない」という意識だけが 残っていたという可能性もあります。 しかし、ギリシャでは、使わなくなった「F」や「Q」を 数字としてのみ使い続けていたようですし、 アラビア文字圏などでは現在でもこの習慣が残っているそうです。

ギリシャ文字の再導入

 さて、最初の方で述べたように、 紀元前1世紀にローマがギリシャを支配下に置いた以降に、 ギリシャの語彙を導入する必要から「Y」と「Z」が末尾に追加されました。

 「Y」は実は「Υ(ウプシロン)」であり、 既に「V」という形でラテン・アルファベットに入っていたのですが、 その当時の「Υ」の発音は「イ」と「ウ」の中間のような音で、 当時のラテン語の「V」の発音とは随分違っていたようです。 そのため、当時の発音を表記するために「Y」という別の字が必要になったのです。 ちなみに、その後ラテン・アルファベットが各地域へ広まるに際して、 この音を使わない地域が多かったせいなのか、 「Y」の読み方は地域ごとに様々になってしまっています。

 一方の「Z」は、かつて「G」と入れ替わりに追放された「Ζ」です。 一旦追放されたものが復活したという経緯のゆえに、 元々は7番目に居た字が最後尾にまで追いやられてしまったわけですね。

 なお、ギリシャ語特有の音としては、他にエトルリア経由で伝わる際に 削除された「ΘΞΦΨΩ」もあるのですが、 これには「TH」「KS」「PH」「PS」「OH」という表記が用いられ、 ラテン・アルファベットに文字が導入されることはありませんでした。 また、「Χ(カイ)」もギリシャ西部の方言に基づいて 現在のラテン文字「X」の発音になったものなので、 標準発音を処理する必要があったのですが、 これも「KH」または「CH」という表記で対処されました。 ちなみに、クリスマスを「Χmas」と書くことがありますが、 この「Χ」は標準発音の「カイ」なのです。

字形の変遷

 ということで、今度は、現在のラテン・アルファベットと、 その各々に対応するギリシャ文字とを並べてみましょう。 当然、ΓとΙは各2回、Υは4回登場します。

ΑΒΓΔΕ ΓΗΙΙ ΚΛΜΝΟ ΠΡΣΤ ΥΥΥΧΥΖ
字形が同じもの、大きく変わっているもの、様々ですね。 Wは元々Vを2つ並べたものなので、それを割り引いて考えると、 気になるのは「ΓΔΛΠΡΣΥ」といったところでしょうか。 しかし、これも活字化以前の手書き文字の、書き方の流儀の問題だ ということに注意すれば、それほど目茶苦茶なものでも無いでしょう。 「Γ→C」「Δ→D」は単に「丸みを帯びた」だけですし、 「Λ→L」は単に「向きが変わった」だけ、 「Υ→V」は単に「浅くなった」だけです。

 「Σ→S」は、こういう向きに矢印を引くと変ですが、 実は古くは「Z」を裏返しにしたような字体 (さらに古くは「W」のような字体)だったようで、 それが各々に変化したと考えれば納得できると思います。

 「Π→P」「Ρ→R」は説明が要りそうですね。 特にP(ピー)が全く別の字であるΡ(ロー)の元の形と 見掛け上同じになってしまったわけですから。 実はΠ(パイ)は、両足を同じ長さに書くのが現代的な標準ですが、 右足(右横書きの場合は左足)を少し短く書くのが本来の形のようです。 下手をするとΓ(ガンマ)との区別がつかなくなりますが、 そこまでは短くしません。 そもそも、手書きではΓの右端にヒゲを付けないのが本来の形ですし。

 そして、この短い右足が、ローマへ伝わる段階で丸まってしまったのです。 丸まったのが左足に接触してしまうと、Ρ(ロー)と区別できなくなります。 そこで、強調する意味だったのでしょうか、 元々から左足に接触しているΡについては、 接触部に短い斜線を入れるようになったようです。 そして、この斜線がマトモな線に発達したのが、現在のRなのです。

参考文献

松本克己(1981) ギリシア・ラテン・アルファベットの発展, pp.73-106 In: 世界の文字(講座 言語 第5巻), Ed. 西田龍雄, 大修館書店, ISBN 4-469-11055-8
小学館(1973) ランダムハウス英和大辞典(各文字の見出し解説)
ニコラス・バフチン(1935) 古典研究者のための現代ギリシア語研究入門, 日本語訳(北野雅弘, 1998) http://www.page.sannet.ne.jp/kitanom/modgre/bakh1.html


2003年1月22日WWW公開用初稿/2003年5月5日最終改訂/2012年7月17日ホスト移転

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