中世の「数遊び」

 琵琶湖博物館では、2002年7月20日から11月24日まで「中世のむら探検」と称する企画展示(特別展示)を開催しました。 この展示では、中世(武士が台頭してきた平安時代末期から、鎌倉時代・室町時代を経て、戦国時代の終焉まで)の庶民生活に焦点をあて、現代生活との間に意外な連続性があるという観点を重視して説明していきました。

 この展示では、中世の「遊び」も1つのテーマになっていました。 スペースの都合などで展示には盛り込めないことになったのですが、中世に入って庶民の遊びとして普及するようになったものの1つに「数遊び」があります。 これは、この時代になって庶民が経済力をつけた結果、貨幣経済が発達したことによるものと考えられています。

 日本での貨幣の使用の始まりというと、「和同開珎」か「富本銭」かという問題で有名な8世紀ごろの皇朝銭を思い浮べる方もあるでしょう。 しかし、この時代には「庶民の経済力」が充分ではなかったため、貨幣経済が発達する素地がありませんでした。 そのため、皇朝銭は貨幣として一般社会に流通することなく終ってしまったのです。

 中世に入ると、貨幣経済が必要に迫られて自然発生的に生まれてきます。 ところが、京都の貴族政府は貨幣鋳造の技術を既に失っていますし、専ら「伝統的権威」に支えられた政権ですから、市井の状況を見据えて新しい事業を始めたりするわけがありません。 かといって、武家政権はまだまだ未発達で、しっかりした貨幣を鋳造して全国に通用させるような技術や権力を獲得するのは豊臣政権の成立を待たねばなりませんでした。 では必要な貨幣をどうしたかというと、中国(宋・元・明など)との貿易によって大量の貨幣を輸入し、それを国内で流通させたのです。 (それでも足りない分を私的に鋳造し、少額貨幣として補助的に通用させるなどということも行われました。)

 このようにして貨幣経済が浸透してくると、一般庶民の最下層の人々にさえも「お金を数える」能力が要求されるようになってきます。 つまり、「数の計算」が生きて行くために不可欠な「生活の智恵」になったのです。 当然、子供たちにもそれを教えなければなりません。 そのための手段として「数遊び」が広く行われるようになったと考えられています。

 近世(安土桃山時代・江戸時代)に入ると、「和算」が起こって、行列式論や積分求積などの高度な数学を独自に展開するなどの発達を遂げます。 その直接の契機は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の副産物として、大量の中国製数学関連文献が朝鮮経由で輸入されたことだと考えられています。 しかし、輸入されてから数十年という短期間で、本場の中国で既に理解されなくなっていた方程式解法を解読したうえ改良してしまうなど、卓抜した成果を次々に挙げてしまったのは、元々から日本人の側に「素地」があったからとしか考えられません。 その素地は中世にあったと思われます。

 そして、日本人は今でも世界的に高い計算能力を有しています。 そのへんの“店番のおばちゃん”が平然と「引き算」で釣銭の計算をする国なんて、そうそう多くはありません(普通は、商品の価格に「足し算」をしながら釣銭を積み重ねて行って、客から渡された金額に達するまで続けます)。 このような特異な民族性を支えているのは、中世以来の「数遊び」の伝統なのではないでしょうか。

 数遊びの具体的な題材の多くは、春秋戦国の「諸子百家」時代の中国など、外国で古くから知られていたものです。 しかしながら、それがそのまま使われたわけではなく、当時の日本の社会状況に見合った形にアレンジされました。 その中から「継子立て」「盗人隠し」「百五減り(百五減算)」の3つを見てみましょう。

継子立て

 ある家で、30人の子供たちの誰を相続人とするかを決めることになりました。 この家を仕切っていたのは当主の後妻で、15人はその後妻の子、残る15人は先妻の子でした。 この後妻は、子供たちを輪に並べて、10人ずつ数えては輪から除くということを繰り返して、最後に残った子を相続人にしようと言い出しました。 そして子供たちを並べて数え始めたのですが、一見ランダムに並べたように見えて、実は先妻の子が優先的に除かれるように仕組まれた並べ方だったのです。

 先妻の子が1人だけとなった時に、残った1人が不服を唱え、次は自分から10人ずつ数えてくれと言い出しました。 仕方なくそのようにしたところ、今度は後妻の子が次々と輪から除かれて行き、結局その不服を唱えた先妻の子が残ったのです。

 さて、最初に後妻は子供たちをどのように並べ、誰から数え始めたのでしょうか? 答えは、右上図(白が先妻の子、黒が後妻の子で、矢印で示した後妻の子を「1」と数えて時計回りに数えて行く)です。 皆さんで確かめてみてください。

 このパズルを実際に試してみるときは、碁や双六で使われる白黒の石を、各々先妻の子と後妻の子に見立てて行われました。 徒然草の第137段でも引合いに出されており、有名なものだったようです。 「後妻と継子との相続争い」というのは、中世には各地で頻繁に起っていた事件であり、 それになぞらえて説明するというのは、当時の社会状況を反映したものだと言えそうです。

 なお、江戸時代の寺子屋で使われていた教科書に子供たちが輪になって並んでいる挿絵で説明しているものがあり、教材として活用されていた様子がうかがえます。 また、西洋でも“ジョセファス(ヨセフス)の問題”という名前で同様の問題が知られています。

盗人隠し

 日本と唐(単に「外国」というほどの意味)の間に「船改め」の番所がありました。 16人の見張り番が右図上のように7人ずつ四方を見張る形で立っていたので「七人番所」と呼ばれていました。 そこへ8人の盗人たちが来て、かくまってほしいと頼みました。 見張り番たちは同情してかくまおうと考えたのですが、四方を見る人数が7人より増えると、たちまちばれてしまいます。 そこで、角で両方を見張る者の数を工夫して1人ずつ人数を増やしていき、最後には右図下のようにして8人全員を隠してしまいました。

 この隠し方を実際に碁石などを使ってやってみろという問題です。 皆さんもひとつ挑戦してみてください。

 諸外国の類題では、倉庫管理や寄宿舎からの脱走など種々の状況が設定されているようです。 その中で敢えて「船の見張り番」という状況を選択するところが、日本的といえば日本的かもしれません。

百五減り

 これには特に「お話」はありません。単なる「数あてゲーム」です。

 石を沢山集めて山を作ってください。但し石の数は105以下とします。 石が何個あるか、相手にわからないように数えておきます。

 準備ができたら、石の山から7つずつ石を除いていって、最後に何個残ったかを、相手に教えてください。 次に、石を全て山に戻し、5つずつ除いていって何個残ったかを教えてください。 さらに、3つずつ除いていって同様に教えてください。 これで、相手には石の数がわかります。

解法

7つずつ除いた残りの15倍
5つずつ除いた残りの21倍
3つずつ除いた残りの70倍
を合計する。合計が0なら「105」が答。 0でなくて105を超えていなかったらその合計が答。 105を越えていたら105を引いた値(105を引いてもなお105を超えていたら、再度引く)が答。

この計算で石の数がわかる理由

 7つずつ除いて行って最後に残った数ということは、元の数を7で割った余りですね。5や3についても同じです。 そこで、まず元の数を7・5・3で割った余りを各々R7・R5・R3と書くことにします。

 「解法」は

R7×15 + R5×21 + R3×70
を計算するように指示しています。この計算結果を「S」と書くことにします。

 ここで、15・21・70という数が以下のような数であることに注目してください。

15は、3や5で割り切れるが、7で割ると1余る
21は、3や7で割り切れるが、5で割ると1余る
70は、5や7で割り切れるが、3で割ると1余る
このとき、「S」を7で割った余りがどうなるか考えてみましょう。
  1. 「R5×21」と「R3×70」の部分は、「21」や「70」が7で割り切れるので、全体も各々7で割り切れる。
  2. 「R7×15」の部分を「R7×14 + R7×1」と分解して考えてみる。 このうち「R7×14」の部分は、「14」が7で割り切れるので、全体も7で割り切れる。
結局、「S」は「7で割り切れる数」に「R7×1」を足したものということになりますから、「S」を7で割った余りは「R7×1」即ち「R7」です。 同様にして、「S」を5や3で割った余りは各々「R5」「R3」になります。 つまり、「S」を7・5・3で割った余りは元の数を7・5・3で割った余りに全て各々等しいことになります。

 さて、一般に

複数の数で割った余りが全て各々等しい2つの数の差は、割った全ての数の公倍数である。
ということが言えます(これは、厳密に証明しようとすると長くなりますが、直感的に納得できると思います。解らない人は、身近に居る数学に強い人に相談してみてください)。 公倍数は全て「最小公倍数」の整数倍ですから、「S」から7・5・3の最小公倍数である105を何回か差し引いて105以下になったら、それが元の数ということになります。

参考文献

大矢真一「和算以前」(中公新書577)、中央公論社(1980)
小城栄「パズル・クイズル」(カッパブックス)、光文社(1959)
小倉金之助「日本の数学」(岩波新書赤版61)、岩波書店(1940)
川本亨二「江戸の数学文化」(岩波科学ライブラリー70)、岩波書店(1999)
酒井欣「日本遊戯史」、建設社(1933)
佐藤健一「新・和算入門」、研成社(2000)
三上義夫(佐々木 力 編)「文化史上より見たる日本の数学」(岩波文庫38-101-1)、岩波書店(1999)
横井清「中世民衆の生活文化」、東京大学出版会(1980)


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