このページは、2001年8月5日付のメールマガジンACADEMIC RESOURCE GUIDE第107号に掲載された投稿論文の内容を、バックアップの目的で、著者が管理するサイト内に再録しているものです。 リンクに際しては、本来ならば当該マガジンのバックナンバーページへのリンクとするべきところですが、現在第224号(2005年)以前のバックナンバーは公開されていないようです。
滋賀県立琵琶湖博物館では、2001年2月12日から「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」をインターネット上で公開している。 これは副館長決裁を経た公文書であり、琵琶湖博物館の公式見解であるが、公共機関がこのような明確な見解を表明することは画期的であるとの評価も得ている。
確かに、この文書を目立つ形で公表するという行為は、起草者である筆者としても「少々思いきった試み」であろうと考えている。 そして、その背景にはそれなりの動機がある。 本論では、この動機がどのようなものであったかについて述べながら、「リンク」に関する問題点を考えて行きたい。
インターネットWWW(world wide web)は「リンク」によって成立していると言ってもよいであろう。 そもそも、WWWを実現している通信規格は“http”、即ち「ハイパーテキスト転送規約」である。 「ハイパーテキスト」については、インターネット上にも「ちえの和WEB」の「コンピュータ偉人伝」、「BAYSIDE BREATH」「Web作成講座 」の用語集、湯村祐二氏の「World Wide Webの歴史」など多数の解説があるので詳述しないが、粗っぽく言えば、他のテキストへの参照情報(リンク)が埋め込まれたテキスト(文書)群のことである。 つまり、リンクこそがハイパーテキストの本質であり、従ってWWWの本質である。
ハイパーテキストが成立するためには、どの構成テキストにも等しくアクセスできる必要がある。 当然の帰結として、httpは構成テキストが万人に公開されていることを前提に設計される結果となった。
WWWを構成する各テキストは、もちろん著作物であり、著作権の対象となる。 しかし、WWWが「公開媒体」である以上、構成テキストは「公表」されていることになる。 WWWを構成しているという事実自体が権利者の意思に反しているなら話は別だが、そうでない限りはWWWとしての常識的な利用を権利者が万人に許諾したということである。 リンクを設定することもその「常識的な利用」に当然含まれる。
WWWも含めてインターネット利用が実験段階であった時代には、その技術的背景を充分に理解していなければ利用できなかった。 しかし、「インターネットブーム」という形でインターネットが大衆化するにつれ、リンクとは他のWWWページを自分のページの中に「埋め込む」ことであるとする誤解が蔓延したように思える。
確かに、リンクに従ってページからページへ移行した読者は、著者が途中で切り替わったことに気付きにくい状況に置かれている。 従って、リンク先ページの「複製」がリンク元ページ内に存在するかのような印象を持ちやすいのは確かである。 これは書籍から他の書籍を参照する場合と大きく異なる特徴であろう。
しかし、冷静に考えればリンクは決して「複製」ではなく「参照」である。 少なくとも現状の著作権制度では著作者が権利行使できる対象ではないし、将来的にも対象にするべきではない。権利の対象とすれば「有機的に構成されたハイパーテキスト」の形成を確実に阻害するし、現状でも著作者の権益確保は充分である。 参照されて困るような情報は公開しなければよいし、公開を取り消すことも自由にできるからである。
さて、リンクには「著作権処理」と同様の承諾が必要と考える誤解が「お役所的」に発展すると、どういう事態を招くかという実例に、2000年度後半に2件ほど遭遇した。このことが、「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」をまとめた直接の動機である。
琵琶湖博物館は滋賀県博物館協議会の事務局を担当している。 この協議会が公開している加盟館住所録からは、当初は各加盟館からの要望に応じて各館へのリンクを設定していたが、2000年12月ごろに、この設定を事務局で積極的に進めようということになった。
しかし、住所録からのリンクでは、リンク先の性格を説明するスペースが確保できない。 加盟組織のページから説明なくリンクがあれば、リンクされたページの内容に関してその館が直接に責任を負っていると、利用者が判断してしまう可能性がある。 例えば町立博物館の情報が町役場のページの中にある場合などは、それでよいかどうか微妙な場合があるだろう。 そこで、この問題について当該ページ管理者の了解を事前に得ることにした。
ところが、それに対して、某町の担当者から以下のような趣旨のメールが返ってきた。
リンクすることについて承認する。但し、下記の条件をつけ、リンクした場合はこの条件を了解したものと考える。この全く見当外れの回答に対して、「トップページへのリンクでは目的が達成されず、双方にとって不利益となるので、“必ずトップページ”という条件は再考して欲しい」と要請するメールを送った。 このとき、同時に「公開されたページへのリンクに対して許可や禁止を行う権限や権利は、どのような法理からも導かれない」ことを説明して、「承認」という行為に対する基本的な態度を改めることを暗に促した。
1.必ずトップページにリンクすること。
2.リンクの説明文等に表現上の問題が見出された場合や、 リンク元ページに公序良俗や公共の福祉に反する内容等が掲載されたときには、表現の訂正やリンクの削除を求めること。
ところが、それに対して担当者は「リンクに対して運営者が許可を与える性質のものでないことは理解している」と言明しながら、その続きで相変わらず「承認の条件を変更するつもりはない」などと述べ、それが自己矛盾を起こしている(“許可を与える性質でない”ものに“承認の条件”が存在するわけがない)ことに全く気付かない様子であった。 このことを指摘する返信を送ったが、これに対して回答は無かった。
結局、問題の町立博物館のページへは、滋賀県博物館協議会の住所録からのリンクは設定していない。 しかし、それとは別に「リンク先の性格を説明するスペースが確保できるリンク」を承諾手続き無く行うことは件の担当者に予告してあり、2001年3月に実際にその設定を行った。
2001年1月に、某市の教育研究所から、研究紀要に名称とURLを掲載したいとの依頼があったが、その中で「公の性質上、同意が得られないと掲載できない」ので許可が欲しいという説明があった。
活字メディアへのURLの掲載は、参照が自動化されていないだけで、本質的にはリンクと同じである。 「公の機関だから云々」という論理は全く理解できなかったのであるが、事を荒立てる必要も無かろうと考えて単純に許可する旨の回答をした。
しかし、後になって、この対応はよくなかったと考えるようになった。 どこかの機関が「URL集を作るのに逐一同意を得た」という事例ができると、別の機関が前例調査でその事例を見つけて見倣ってしまう可能性があり、ひいては誤った前例が定着してしまう事態につながる。
従って、この場合は「URLを掲載するのは組織名や住所を掲載するのと同じで、許可なんか必要ありませんよ。勝手にやってください」と回答し、可能ならば何故「同意が必要」と判断したかを聞き出して誤解を解消するべきであった。
上述のような「役所の対応」以外にも、「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」の各部分を記述するに際して念頭に置いた「事件」がある。
1999年3月に県内の某観光関係業者から「リンク許可のお願いの件」という表題のメールが来た。 当初、この表題を見て、先方がリンクを設定することについて許諾を求めていると思った。 しかし、メール本文には「わたくしどものホームページリニューアルに伴い、リンクを希望しております」とあり、逆に当館からのリンクを設定して欲しいという意味にも読める。
とりあえず、どちらの意味かを尋ねると共に、一般論として「当方からは困難、そちらからは自由」ということを説明する回答を送ったが、再回答は無かった。 ちなみに、この業者は、結局当館へのリンクを設定していない。
「相互リンク」という考え方が琵琶湖博物館へのリンク依頼に初めて現れたのは1999年6月である。 このときの文面は「リンクを張りたい、できれば相互リンクにして欲しい」という趣旨であった。
しかし、2000年1月には、最初から「相互リンクを申込む」というスタンスの依頼が現れている。 先方のページを見てみても「一方的リンクは既に(連絡無く)している」というわけでは無いようで、「相手が相互リンクに応じるならリンクする」という考え方であるらしい。 「リンクは須く相互リンクであるべき」とでも考えているのだろうか?
そもそも「ハイパーテキストの中のリンク」は「各構成テキストの論述の流れの中で他のテキストを参照する」ものであるから、「須く相互リンクであるべき」ということにはならない。 また、現実的な問題として、琵琶湖博物館では「如何にして精選するか」という発想でリンク集を運営してきたので、根本的な方針転換をしない限り、気軽にリンク要望に応じることができない。
「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」の中で相互リンクに対する考え方に敢えて1節を割き、さらにリンク整備方針について詳しく説明する1節を設けたのは、以上のような事情に基づくものである。
WWWサイトの中には、他のサイトからリンクする場合のURLを特定のページに限定しようとするものが見られる。 その当否について考えてみよう。
先に述べた町立博物館ページを管理する町担当者の回答では、トップページへのリンクを条件とする理由として、「今後の階層構造変更に際して、逐一変更通知を出せない」ことを挙げていた。
担当者は、そんな通知を出す義務があるなどと何故考えたのだろうか? おそらく「許認可を出した者は、その“出した”という行為に対して責任を負う」という行政の一般論に基づく発想ではないかと思われる。 しかし、そもそもWWWサイト運営者にはリンクを許諾する権限が無いのだから、それに伴う責任も発生するわけが無い。 責任の発生を回避したいのであれば、無意味な「許諾条件」などには頼らず、「(権限が無い以上は)一切責任を負わない」という免責の宣言によるべきである。
「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」の中にあるリンク対象URLの指定に関する1節は、この経緯を念頭に置いて起草したものである。
公共機関でない一般の発信者によるページで、リンクの連絡をもらえばURL変更時に通知することを約束したものを見掛けたことがある。 ただ、さすがにそのページでは、通知を「義務」ではなく「任意的なサービス」とする立場で記述していた。 自分のページへの注目度を知る手段として、リンクしたことの連絡を歓迎する人は多い。 その連絡を誘導するための「エサ」として、このようなサービスを約束したのかもしれない。
トップページ以外への直接リンクの排除を、ページ内での宣言や「リンク許可」の際の条件設定などの強制力の無い手段ではなく、技術的手段によって強制的に行おうとするサイトも存在する。 博物館業界では「Let's Go Museum」が有名であろう。
一体どのような動機で直接リンクを排除しようと考えるのであろうか? アンケートを採ったわけではないので推測するしかないが、基本的には「“順番通りに”あるいは“サイトの構成に従って”読んで欲しいという欲求」であろうと思われる。 「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」の中にも、そのような欲求を持つ理由として考えられる具体的な弊害を列挙してみた。
しかし、「順番通り」というような考え方は「ハイパーテキスト」の基本発想に真っ向から逆らうものである。 実際問題として、現実のインターネットWWWにおける「全文検索ロボットによる情報検索」は、順番を無視して目的の情報へ直接到達できるからこそ、 有益な利用が可能になっている。 この事実は無視できない。
そもそも、ハイパーテキストでない普通のテキストでさえも、「順番通り」にしか利用できなければ価値が激減する。 それは、書庫に籠って多数の書籍を参照するという行動について考えてみれば明らかであろう。
もちろん、サイト内での情報の配列や構成を通じて表現したい内容というのも当然存在するだろう。 しかし、その表現を広く伝えるために行うべきことは、ロボット検索で下位ページを捜し当てた利用者が引続いてトップページも見たくなるように「誘導」することであろう。 「強制」は得策ではない。 特に技術的手段による強制は、折角捜し当てた情報の所在を解らなくする効果しかもたらさず、結果的にそのサイトを「役に立たない」ものにしてしまう。
敢えて名指しはしないが、指定外URLへのリンクは有料であるという無茶な宣言をしている金融情報のサイトが実在する。 しかも、各エンドユーザのブックマーク登録を制限する気はないらしい。 本気でそんなことが技術的に可能だと思っているのだろうか?
そもそも、問題のページ群は無料開放しているトップページから無料でたどれるわけだし、直接入ることによってバナー広告の見え方が変わるわけでもない。 にもかからわず直接リンクなら有料というのは、理念的にも整合性がとれていない。
確かに「有料の情報」はこれからの時代に不可欠なものである。 しかし、それを技術的に無理な、理念的にも整合しない手段で実現しようとするべきではない。 有料化(もっと一般的に言えばアクセス制限)をしたければ、それ相応の技術手段や課金方針などを設定するべきであろう。
以上のような経験に基づいて、「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」を公開したが、この文書は利用者に向かっての宣言であり、WWWページの運営者自身の行動指針には、直接にはならない。 そこで、運営者が「リンク許可依頼」にどう対応するべきかについての考え方をまとめてみた。
さすがに最近は減ってきているであろうが、一応、リンク「したい」のと「して欲しい」のとの区別がついていないかもしれないという可能性を念頭に置いて依頼文を熟読し、誤解しないように努めるべきである。 「相互リンク」について言及している場合も、先方がどのような考え方に基づいているか慎重に読み取るのが望ましい。
回答中で「許可する」「承諾する」という表現を使わないよう、慎重に配慮するべきであろう。 自由文で回答するなら、例えば
当ページは一般に公開されているので、自由にリンクしていただいて構いません。というような言回しで、「特に本件に限定して許可を与えたわけではない」ということが自然に読み取れる表現にするのが望ましい。 状況に応じて
トップページ以外のURLは予告無く変更することがあります。などという形の「免責の宣言」を行う必要もあるかもしれない。
先方が公共機関等で、官僚的な形式で「承諾」を求めてきている(しかも、手続き上「承諾」が必須であると思い込んでいる形跡がある)場合には、下記のような「意図的に官僚的に作文した」回答も有効かもしれない。 これは、2001年6月に琵琶湖博物館から某国立教育機関へ向けて実際に回答したメールの文面である。
「リンク許可」の承認ということですが、 館のページは公開されているので、当然に何人も自由にリンクすることができ、当館はリンクを「許可」したり「承認」したりする権限を、そもそも有しません。 貴職の判断において自由にリンク情報の提供を進めていただければ幸いです。
先方が、承諾書の様式を指定してきている場合にも、「承諾」という表現を訂正したうえで回答するのが望ましい。 例えば、「設定することを承諾します」とあれば、「設定することについて、当館では差し支え無いことを確認します」などと訂正して回答し、必要に応じて
本回答は「差し支えない」という事実の確認であって何らの許認可行為でもなく、従って許認可に伴う責任も一切生じないことを御確認ください。などという形で「免責」を宣言するのがよいだろう。
実際には、リンク許可や承認の依頼という形を採りながら、実はリンクの分類や説明あるいは対象URLの選択が“妥当であるかどうかについての確認”をとりたいというのが真意という例も多いだろう。 法的に見ても、この部分に関しては、名誉毀損問題や著作者人格権の観点から情報提供者が口をさしはさむ余地がある。 琵琶湖博物館でも、説明文やURL選択が不適切である事実をこの段階で発見し、訂正を依頼したことがある。
従って、そのような形跡が見られる場合には、「妥当性の確認」をしっかり行って、その確認結果を強調する回答とすることも得策であろう。 例えば、
当ページは一般に公開されているので、自由にリンクしていただいて構いません。 なお、問題のリンク集ページを拝見したところ、その趣旨からすれば○○○ではなく△△△へのリンクとされた方が、また□□ではなく◇◇に分類されたほうが適切ではないかと思われますので、御一考いただければ幸いです。というような形で修正を促するのがよいであろう。 修正するかどうかを決定するのはあくまで先方であるという態度を崩さないことも重要である。
インターネット利用は一過性のブームを過ぎて定着しつつあると言ってよいであろう。とはいえ、まだ10年の歴史も無い若い世界である。 特に、役所など「責任問題」に敏感な発信者の参加は、まだまだ始まったばかりである。 このような状況の中で、更なる発展に向けて望ましい利用習慣を普及定着させていく活動は、まだまだ必要であろう。 本論が、このような活動の一助となれば幸いである。