通算第25回(1998年11月号)

 アマチュア楽団ではエエカゲンに扱われる傾向が強かった著作権ですが、このような状況は改めようという動きが最近になって出てきているようです。 NCEでも著作権をきちんとクリアしていくことを目標に据えていますが、そのためにも著作権についての正しい理解を深めていく必要があるでしょう。

第7講:著作権を理解しよう(第1回)

 著作権とは著作物に関する権利のことです。 「著作物」なんて難しそうな言葉ですが、要するに「作品」と呼べるもののことだと言っても大間違いではないでしょう。

 著作権というと、作品の使用を制限する厄介なものだというイメージを持っている人が多いかもしれません。 でも、実はこの著作権保護という考え方は、「作品」を作者の手に留めること無く、人類の文化財産として広く共有していくことを目的に出てきたという側面もあります。

 逆じゃないのかと思う人があるかもしれませんが、以下のようなことなのです。 古くは、作品が勝手に使われたりすることを嫌って、門外不出にしてしまうということが行われました。 そこで、作品が世に出れば作者にとって良いことがある(例えば経済的利益がある)ような状況を法的に保証することによって、世に出ることを促進しようということが考えられました。 このことも、著作権保護というものが出てきた背景の1つなのです(これが全てというわけではありません)。

 著作権に対する誤解の1つに「お金を払わなければ使えない」というのがあります。 別にそうと決まっているわけではありません。 ただ、現実問題として、著作物を作ることで生計を立てている人が作る作品が多いということもあり、お金を払うことを許諾条件にしていることが多いので、そのように思われやすいのです。

 著作権の基本原理としては、「お金を払って使うようにする」というのは、数ある選択肢の中の1つに過ぎません。 そういう選択肢を選ぶか、別の選択肢を選ぶか、それは作者が決めることです。

 ですから、著作権というものを、普通のイメージとは逆に、「著作物を使いやすくする方向」に行使することも可能です。 ある人がある著作物を使おうとしたら、別の人が「勝手に使ってはいけない」と言って、無理矢理やめさせるなんてのはよくある話です。 ところが、もし著作権者が「この著作物は、広く自由に使ってもらうべきもので、使用を妨害するような行為は困る」と考えて、そのことを明確に表明していたとしましょう。 この場合、使うのをやめさせた人が、著作権を侵害していることになってしまいます。

 何だか、余計にわからなくなってしまったかもしれませんが、次回以降、なるべく具体的な話を通して、順を追って論を進めて行きたいと思いますので、おつきあいのほど、よろしくお願いします。



通算第26回(1998年12月号)

 前回は導入ということで漠然とした一般論を進めましたが、これから具体的な話へ進めて行きたいと思います。 普通ならここで、堅苦しい一般論をするところなんですが、この講座はそういうのは後回し……というか、必要に応じて「その都度解説」というスタイルで進めて行きたいと思います。

第7講:著作権を理解しよう(第2回)

 音楽を演奏する場合には「演奏権」が直接に問題になってきます。 著作権法の原則としては、著作権者の許可なく演奏することはできません。 許可の代償として何を求めるかは著作権法には規定されていませんが、演奏料金を求められるのが普通です。

 とはいっても、どんな演奏でも著作権者の許可が要求されるわけではありません。 例えば「私的利用」は自由です。この「私的利用」の考え方にはいろいろ厄介な問題があるのですが、その話は後日にしましょう。 ここでは、小人数の仲間うちに聞かせるのは問題無いという程度に理解しておいてください。

 そうなると、問題は演奏会を行う場合ですね。 この場合、一般論としては演奏料の支払が必要になってきます。 相場はどのくらいなんでしょうか? JASRAC管理曲(この意味は次々回あたりで説明します)の場合、入場料500円以下、観客定員1000名以下という条件で、5分以内のクラシック曲1曲あたり1350円ということになっています。

 ところがアマチュア楽団の演奏会の場合、演奏料を支払う必要が無いことがあります。 それは、次の3条件を満たす場合です(著作権法第38条)。

問題になりそうなのは第3条件ですね。 エキストラや客演指揮者に謝礼を支払ったら、この条件は崩れるんでしょうか? 裁判所の判例などの確実な判断基準は無さそうですが、私はこの「実演家」は「演奏会の主体である実演家」と解するべきで、「補助的な実演家」を含めるべきではないと思います。 この規定の趣旨は「アマチュアの細々とした活動を不当に阻害しない」ということだと考えられ、「支払能力のある奴は支払え」という基準で規定を決めていると思われます。 となると、エキストラにわずかな謝礼を支払っただけで条件が崩れると考えるのは、整合性を欠くことになります。

 ちなみに、アマチュア楽団が企業の販売促進活動で依頼演奏を行うことがよくありますが、「営利」に該当し、演奏料を支払う必要が生じます。 但し、依頼された楽団ではなく、主催した企業が支払うというのが筋ですけどね。



通算第27回(1999年1月号)

 前回は楽曲の「演奏権」について簡単に述べました。 アマチュアの場合には著作権者から演奏権を得なくても自由に演奏できる場合、つまり演奏権料を支払う必要が無い場合もありますが、そのためには3つの条件がありました。 まあ、条件を満たさない場合でも、普通に出版されている楽曲なら演奏権料を支払えば演奏できます。 ところがこれで話が終わるわけではなく、もう1つ、演奏会を開く場合によく問題になることがあります。

第7講:著作権を理解しよう(第3回)

 もう1つの問題、それは「楽譜そのものも著作物である」ことに由来するものです。 つまり、楽譜の「複製権」を正しく処理できているかどうかという問題です。 実は、著作権に相当する英語“copyright”を直訳すると「複製権」になります。 複製というのは著作権の基本なんですね。 絵画のように物理的実体そのものが作品である場合や、文学のように誰が複製しても作品としての価値が不変な場合には、まさに“copyright”が著作権の本質です。 でも、音楽や演劇のような「実演芸術」では、作品を実演することで別の価値が産み出されるために、ちょっと話が違ってくるんですね。 このような言葉の問題以外にも、著作権には実演芸術特有の問題がいろいろありますが、それは追って順に解説して行きたいと思います。

 それはさておき、原則論としては、作品を複製する毎に著作権者の許諾を得て、許諾条件(普通は対価の支払)に従って複製することになるのですが、それでは非効率で非現実的です。そこで、通常は出版という形態を取ります。 つまり「正当な複製物」をたくさん作っておいて販売することで、複製に対する対価に充てるわけです。

 時々混乱する人が居るんですが、「きちんと購入した楽譜だから自由に演奏できる」わけではありません。 楽譜の正当な購入によって処理できるのは複製権だけです。 演奏権はまた別に処理せねばなりません。

 NCEでも民音から楽譜を借りて演奏するということをしていますが、これは「正当な複製物それ自体を複製せずに貸し借りする」ことで成立しています。 貸し借りをしても、複製さえ作っていなければ、複製権の問題は発生しません。

 では、出版されている楽譜をコンビニでコピーすることは、全て著作権侵害になるんでしょうか? 実はそういうわけでもありません。 演奏権のところでも述べましたが、著作物の「私的利用」は自由にできるというのが原則です。 問題はどこまで「私的利用」になるかということですが、実は一筋縄では行かない問題です。 「私的利用」という概念そのものにも色々と批判があるくらいのものですから、とりあえずは、次回までのお楽しみとしたいと思います。 (多分この話であと2回くらい続くと思います……)



通算第28回(1999年2月号)

 前回は、演奏会での演奏には、楽曲の「演奏権」の他に楽譜の「複製権」も必要だという話でした。 そこで、「私的利用」の範囲の複製は自由にできるということを述べましたが、そもそも「私的利用」とはどこまで入るのかが大問題です。 これについて考えて行きましょう。

第7講:著作権を理解しよう(第4回)

 例えば、著作物の正当な所有者が自分だけのために複製するのは完全に「私的利用」です。 研究目的で書込むために所有楽譜をコピーするなどというのが該当します。

 この「自分だけ」をどこまで拡張できるかが、1つのポイントになります。 一般論として、日常的に一体的に活動している団体などの「内輪」は良いとされています。 従って、楽団が正規に入手した(つまり、きちんと対価を支払って購入し、所有している)楽譜を団内で利用するために人数分コピーするなどというのは問題ありません。

 それを使ってその楽団が演奏会で演奏するのはどうでしょう? コピー譜を舞台上に持込んだらダメという解釈もできるかもしれませんが、極論に過ぎる解釈だと思います。 楽団としては正規に入手しているのですから、問題無いと考えるべきでしょう。

 他の楽団が正規に入手した楽譜を借りて、楽団内でコピーするのはどうでしょう? これもコピーすること自体は問題ありません。 また、返却するまでなら、自分が所有する楽譜と同様、コピー譜を使って演奏会で演奏しても良いと考えるべきでしょう。

 では、コピー譜をさらに他の楽団に貸したら? この問題には、著作物の「事前評価」の問題が絡んできます。 一般に著作物を正規に入手するには対価を支払います。 これには「著作物の価値に見合う値段」という意味もあるのですが、「本当にそれだけの価値があるかわかる前に支払えるか!」という意見もあります。 そこで、パソコンソフトなどでは、「評価版」を出したり「評価期間」を設けたりしている場合があります。

 楽曲でも同じことが言えるでしょう。 その評価を容易に行う意味でも、試奏・練習・研究など完全に「私的利用」の目的で用いるために楽団同志でコピー譜を融通しあうのは、認められるべきではないかと思います。 その結果、演奏会で使うだけの価値があると評価できたら、その時点で正規に入手し直すというのは、当然の前提です。

 絶対に間違い無い見解とも言い難いのですが、複製権って何というような現実の風潮よりは何歩も前進であること、著作物の評価を容易にして優良著作物の販売を促進する方法であること、アマチュアの限られた財力を著作物への対価に有効に用いる方法であること などの点は、著作権者側を充分に納得させ得る論理ではないかと思っています。

 著作権者さえ納得させられたら何でもできるのです。 これは大事なことですが、少々誤解されそうな言回しなので、次回で補足します。

インターネット向け補記(2017年2月)

 ここで述べたような「事前評価」などの利用に関連して、2013(平成25)年頭に施行された法改正で無断複製が認められる場合が個別に明記されました。 「著作権者の許諾を得て利用することの事前検討」「技術開発のための試験」の2つの場合です。 合理的な法改正が為されたと言えなくもない状況ですが、これらは従来「私的利用」の概念を拡大解釈するような形で認められてきたような部分がありました。 この法改正は、このような拡大解釈を認めないという姿勢を打ち出した見ることもできます。 拡大解釈に替わる明文規定が漏れなく整備されたのであれば良い傾向なのですが、上述の2つの場合では尽くされていないと思います。 例えば、上述の「試奏・練習・研究」のうち「試奏」は上述の「事前検討」に該当しますが、「練習・研究」に無断複製が認められない状況が生じる可能性が高くなります。 音楽以外の場面も含めて一般化すると、これは「上演に伴う磨耗や汚損を防止するために必要な複製」と表現することができると思います。 「私的利用」の考え方を厳格化するのなら、このような場合の無断複製を認める規定を整備する必要があるでしょう。

 さらに一般化すると、これは「著作物自体の性格上、それを利用するために不可欠な複製」と表現できます。 これは、既に無断複製が認められている「プログラムの著作物を利用するために不可欠な複製」を包含すると考えられます。 併せて考えるべき問題かもしれませんね。



通算第29回(1999年3月号)

 前回「著作権」というものを考える上での1つの「勘どころ」が出てきました。 そこで、少し横道にそれますが、この問題について押さえておきたいと思います。

第7講:著作権を理解しよう(第5回)

 一般に著作権は著作物(作品)を使いにくくするものと思われている傾向があります。 しかし、第1講でも触れたように、これは正確な理解ではありません。 むしろ、著作権者には著作物の利用法を自由に決める権利があると考えれた方が良いのです。 言い換えると、「著作権者さえ認めれば何をしても良い」のです。

 そうなると、重要なことは「著作権者の意思」を確認することですね。 でも、一般には逐一確認するのは現実的ではありません。 そこで、JASRAC(日本音楽著作権協会)なんていう団体が著作権処理の「標準的なやりかた」を決め、著作権者が「うん、それで行きましょう」と言えばその標準で処理されるなどという手法が使われるわけです。

 しかし、著作権者が標準に従いたくない場合もありますし、そもそも標準が無い分野もあります。 JASRACの標準も「私的利用でない場合」を前提にしたものなので、前講で述べた「私的利用の範囲に入るかどうか」の問題などは明確になっていません。 もちろん、これは著作権法でも詳細には規定されていない問題です。 著作権者の明確な意思表示があれば良いのですが、そうでない場合はどう考えれば良いのでしょうか?

 著作権法は「私法」の一種です。 私法とは「私人」同志の問題についての法のことで、私人とは公の組織(国や地方自治体など)以外の一般の人や団体のことです。 私法の一般論は「民法」などで定められていて、基本的には「当事者全員が納得するように進める」のが原則です。 法律が明示的に禁止しない限り、皆が納得しているならそれで話は終りです。 皆が納得するわけに行かない事態が起これば、裁判などの形で公の組織の出番となり、特にどうしようもない場合には裁判所の判決という形で判断が下されます。 ひとたび判決が下されれば、似たような事例について判断する上での基準になり、一々裁判所が出る必要が無くなります。 このような過去の判決を「判例」と呼びます。

 つまり、法律に明示されていないことは、判例があればそれが基準になり、判例も無ければ「一般に認められている習慣的基準」が一応の基準になります。 つまり「常識」ですね。この考えから行くと「常識的に許されるだろう」という判断に基づいて行動して良いことになります。 ただ、これにはリスクが伴います。 「許されるだろう」という判断が甘かった場合は、自分自身が損害賠償などの責任を負わねばなりません。 要するに「自己責任」なわけです。著作権にはそういう側面もあるわけです。



通算第30回(1999年4月号)

 前回まで3回にわたって、楽曲の「複製権」の問題から「私的利用」の問題へ、さらに「私法の一般論」なんていうちょっと難しい話へと発展させてきましたが、少し話を簡単な方へ戻してみましょう。

第7講:著作権を理解しよう(第6回)

 「手書きならいくら複製しても良い」という話をよく聞くんですが、本当でしょうか? 実は、これは1971(昭和46)年の著作権法抜本改正以前の話です。 しかも「手書きなら何でもあり」だったわけではなく、手書きでなければ「私的利用とは認め」なかったのです。 旧著作権法はゼロックスコピーなんか無い時代のものですから、手書きでない複製と言えば活字を組むこと、つまり出版することだと考えられていたんですね。

 ところで、この「私的利用」というのも、何にも優先する原理ではありません。

などの理由から「自由にできる」と定められているのです。 ところが、最近になって、この3つの理由のうちの最後の3つめが怪しくなってきました。 特に複製権に絡む問題で顕著です。 それは、安価で正確な複製が容易に行えるようになってきたからです。

 最も典型的なのが、デジタル録音の普及です。 何度ダビングしても音質が劣化しない状況が実現されるようになりました。 文書などのコピーでも、そこらへんのコンビニで安くできるようになっています。 カラーコピーの普及により質も向上しました。

 複製しても質が悪くならない、しかもそれが簡単にできるとなれば、オリジナルを買おうと思わなくなります。 つまり、著作権者の実害が大きくなってしまうのです。

 1984(昭和59)年の著作権法改正で「公衆用自動複製機器」を使う複製は私的利用と認めないことになりました。 但し、「文書図画専用の自動複製機器」は当分の間お構いなしということなっています。 主なターゲットはCDやビデオのダビングなわけです。

 さらに、1993(平成5)年の改正では、デジタル録音の補償金制度が追加されました。 上述の3つの理由のうち最初の2つは今でも変わりませんから、普通に著作権者の自由な権利を認めるのは現実的ではありません。 そこで、自由な私的利用を認める代わりに、その分の損失を推定して補償金を支払う方法を採ったわけです。 文書のコピー等にもこの方式が今後広まって行くのではないかとも言われています。



通算第31回(1999年5月号)

 演奏権を得るにはJASRAC(日本音楽著作権協会)に著作権料を払うのが一般的です。 でも、ちょっと待ってください。 何故、JASRACにそんなことができるんでしょう?

第7講:著作権を理解しよう(第7回)

 突然ですが、「著作者」と「著作権者」の違いってわかりますか? まあ、言葉の意味からして「著作者」は著作物(作品)を作った人で「著作権者」は著作権という「権利」を持っている人だということは想像がつくと思います。 そして、著作物が創作された時には「著作者」が「著作権者」です(映画の場合などで一部例外あり)。 この意味で、「著作者」は「原著作権者」であるとも言うことができます。

 しかし、「著作権」というのは、他人に売り飛ばすことができることになっています。 第1回でも述べたように、作品が世に出れば作者にとって良いことがある(例えば経済的利益がある)状況を法的に保証することによって、世に出ることを促進することが著作権の目的の1つです。 経済的利益を得るためには、使用料の支払を利用許諾条件にする方法もありますが、権利そのものを売って金銭に替えることもできるわけです。
(「許諾」というのは「限定的な権利譲渡」とも解釈できるのですが、その話には深くは突っ込まないことにします)

 ちなみに、売り方としては、対価をその場で支払って終りという方法(いわゆる「買取」)の他に、「買い手がその作品を使って得た利益の何%を将来にわたって支払う」契約もあります。 この種の契約で支払われる対価のことを「印税」と呼びます。

 売り飛ばしてしまわないまでも、預ける(信託する)ことも可能です。 実はJASRACは著作権者と「著作権信託契約」を結んでいます。 これにより、著作物を利用したい人は各々の著作権者を逐一調べて個別に連絡する手間が省け、利用が容易になります。 権利者側としても、使用料徴収の手間が省けるという利便があります。

 外国作品を利用したい場合でも、JASRACに相当する各国の組織とJASRACとの協定により、JASRACのみへの連絡で済む場合が多いのですが、そもそも著作権者がJASRACなどと信託契約していない場合には「JASRAC管理外」となり、著作権者に許諾を直接得る必要が生じます。 ただ、その場合でも「管理していない」こと自体はJASRACに調べてもらえますから、「とりあえずJASRACに連絡」すれば良いことには変わりありません。



通算第32回(1999年6月号)

 よく「誰々の著作権が切れたから」ということで、その人の作品を演奏するのがブームになることがあります。 著作権が切れるというのは一体どういうことなのか、検証してみましょう。

第7講:著作権を理解しよう(第8回)

 著作権には期限(保護期間)があり、これが過ぎれば自由に利用できるようになります。 日本の著作権法では、作者の死後50年です。 著作者が複数の場合は最後に死んだ人を基準に死後50年、団体名義の場合や、無記名あるいは個人を特定不能な変名の著作物の場合は公表後50年です。 外国では50年が70年だったり25年だったりしますが、国際条約で利用国と著作国の短い方を取ることになっています。 また、1970(昭和45)年の著作権法全面改正以前の著作物については驚異的に複雑ですし、外国作品については第二次世界大戦の敗戦国に対する懲罰としての「戦時加算」があったりするので、ちょっとここには書ききれません。 詳しくは適当な参考書等で調べてください。

 このような期限にはどういう意味があるのでしょうか? また50年という長さの根拠は何でしょうか? 各種の参考書等でいろいろに解説されていますが、ここでは第1回でも述べた著作権の目的の1つ、つまり「作品が世に出れば作者にとって良いことがある(例えば経済的利益がある)状況を法的に保証することによって、世に出ることを促進すること」に基づいた側面から考えてみましょう。 そうすると「あんまり昔の人の著作権を保護しても仕方が無い」ということは明らかでしょう。 そもそも、誰に利用許諾権があるんでしょうか? 誰が遺族だかわからなくなっている場合も多いですよね。

 逆に「今の著作者」の立場、特に経済的利益の側面から考えてみましょう。 すると興味の対象は「今の経済的利益」でしょう。先を見たとしても、自分が死ぬまで、あるいは遺族が自立できるようになるまでですよね。

 「経済的利益」を得るには「買い手がつく」必要があります。 従って、著作権を買取る側の立場も考えねばなりません。 作者が死んだら即無効になるなんていう危険なものでは買取る気にはなれません。 死後しばらくは有効である必要があります。

 こういうふうに考えて行くと「作者と直接関わりのあった人の多くが死んでしまった時点」で無効にするのが妥当だという結論になると思います。 そうすると50年というのは、まあ妥当な数字ではないでしょうか?



通算第35回(1999年9月号)

 久々に著作権講座に戻りたいと思います。 前回までは、演奏会を実施する側が許諾を受けねばならない問題について専ら考えてきましたが、逆に実施側が許諾する権利を持っているものもあります。

第7講:著作権を理解しよう(第9回)

 すいぶん以前(第3回)に、「copyright」という言葉の問題にからんで、“音楽や演劇のような「実演芸術」では、作品を実演することで別の価値が産み出されるために、ちょっと話が違ってくる”ということを述べました。 その一つが、「実演者の権利」が発生するということです。 音楽などを実演するという活動は、著作物を作る活動に似ています。 似てはいますが、実体のある「著作物」が作られるわけではありません。

 そこで、著作権と似た権利が著作権法の別の条文で定められています。 実演家の権利の他にもいろいろ規定されているのですが、まとめて「著作隣接権」と呼びます。

 実演家の権利としては、録画録音権が代表的です。 生演奏で興行収入を得るのは、会場の入退場管理をすれば保証できます。 録音物もマスターの管理ができていれば、その複製物を販売することで収入になります。 しかし、勝手に録音されてそれが広まれば、録音物の売上げが減ってしまうかもしれません。 それを防ぐには「勝手に録音するのは不法行為だ」ということにしておく必要があるわけです。

 プロの演奏は勝手に録音できないのが普通です。 吹奏楽コンクールも録音禁止ですね。 録音権は元々出場者にあるのですが、参加申込のときに「録音禁止」を謳った参加規定を承諾することによって、録音権を主催者(吹奏楽連盟)に譲渡したと考えられます。 主催者はこの録音権を業者に再譲渡し、業者は録音物を販売して収入を得ます。 そして、その一部が連盟に支払われて運営費に充てられるので、その分だけ参加費が安くなっているハズですね。 この安くなった分が、録音権を連盟に譲渡した対価というわけです。

 一般のアマチュアの演奏会はどうなんでしょうか? よく「マイクを立てての録音はお断りします」というアナウンスをしますね。 これは、裏返せば「マイクを立てなければ録音して良い」と言っているに等しいことになります。 とすれば、このアナウンスは録音権を無条件許諾する意思表示と看做されると考えて良いでしょう。



通算第41回(2000年3月号)

 またまた中断していた著作権講座ですが、録画録音権に関する話を続けてみましょう。

第7講:著作権を理解しよう(第10回)

 前回、実演家の権利として「録画録音権」があり、演奏者の意思に反して録音することは演奏者の「著作隣接権」を侵害することになるということを説明しました。

 では、演奏者の許諾があれば自由に録音して良いのでしょうか? 実はそうではありません。 演奏を録音することは、楽曲をテープなどに複製したことになり、作曲者などの「複製権」の範疇に入ってしまうのです。

 録音のどこか「複製」だという意見もあると思いますが、著作権法では「印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再生すること」と規定しています。 「有形的に」ですから、演奏することや演奏結果の「音」を、残らない形で別の場所に伝達することは「複製」ではありません(だから「上演権(演奏権など)」や「公衆送信権(放送権など)」が別に定められています)。 しかし、録音すれば「録音物」という有形物ができるので、「複製」に該当すると看做されるのです。

 もちろん、「複製」の一種である以上は「私的利用」の原理が働きます。 つまり、自分で聞くためだけに録音するのは全く問題ありません。 しかし、業者に頼んで演奏会の記録VTRを作るとなると、問題が出てきますね。

 JASRACは「演奏料」と並んで「録音料」を設定しています。 この録音料の金額は基本的に録音物の売上に比例するように決められていて、売り物にしない場合には「一定の安い価格で売った場合」と同じ計算をすることになっています。 まあ、この場合の料金設定はわりと妥当なものだと言えるでしょう。

 ところが、JASRACの料金設定で問題なのは、録画してVTRなど(「ビデオグラム」と呼んでいます)を作る場合に異様な高額を規定していることです。 こういうものは商売として多数製作して利潤を上げるものと考えていて、自費出版的に自分たちの内輪の記録として作るという状況を想定していないのかもしれません。 この現状は、声を挙げて変えさせて行かねばならないものなのかもしれません。



通算第42回(2000年4月号)

 吹奏楽という演奏形態では、他の形態のための曲を編曲して演奏することがよくあります。 この場合の権利関係について考えてみましょう。

第7講:著作権を理解しよう(第11回)

 ある作品を元に新たな作品(法律用語では「二次的著作物」)を作り出すことを「翻案」と言います。 管弦楽用の作品を吹奏楽用に編曲してしまうのは「翻案」に該当します。 でも、吹奏楽用の作品が自分たちの実情に合っていないから微修正するなどというのは、新たな作品を産み出しているとは言えませんから、「翻案」には該当しないでしょう。「改変」は施していますが、元の作品を用いていると言うべきです。微修正の問題は後回しにして、今回は専ら根本的に編曲してしまう場合を考えます。

 さて、複製権や上演権などの著作権の一種として「翻案権」というものが規定されています。 「二次的著作物」を単に作るだけでも、著作権者の意に反して行うことはできず、許諾が必要になるわけです。 原理的には対価を要求することもできるわけですが、現実問題として、翻案すること自体だけに対して対価を要求することは珍しく、むしろ、翻案結果を出版したり上演したりすることまで含めた 全体に対して包括的に対価を求めるのがが多いように見受けられます。

 これは合理的な考え方だと思います。 著作物の対価はその利用価値に応じたものであるべきですが、「翻案」という行為はそれ自身では利用価値を産み出しません。 できあがった「二次的著作物」を利用して初めて価値が生じます。 従って、その「二次的著作物」を営利利用するのかどうか、営利利用ならどの程度の収益が見込まれるのかということに応じて、「翻案」の対価も変化するべきだとも言えます。 そうなると、どこまでが「翻案」の対価でどこからが「二次利用」の対価なのかという区別をするのが無意味になってきます。

 なお、翻案に関しては、原作の著作者が「変な二次的著作物を作らないで欲しい」という意味で、対価に関わらず翻案を許可しない場合も珍しくないということを知っておいてください。 この意思は「翻案権」とは別の「同一性保持権」に基づいて語られることの方が多いと思われますが、そのあたりの区別は回を改めて説明して行きます。 とりあえずは、原作者側が許諾しない場合があるということだけ理解しておいてください。



通算第48回(2000年10月号)

 半年ぶりの著作権講座です。前回は編曲する場合に原曲の著作者の許諾が必要だということを述べました。 このあたりの権利関係について、もう少し整理してみたいと思います。

第7講:著作権を理解しよう(第12回)

 編曲された作品には「原作曲者」と「編曲者」という2段階の「作者」が存在します。これを演奏するには、どの作者の許諾が必要なのでしょうか? 実は、どちらの作者の著作権も期限(保護期間)が満了していないとすれば、両方の許諾が必要になります。 法律用語で言い直せば、このような「二次的著作物」には、「原作者」と「翻案者」の各々の権利が二重に関与するということになります。

 一方で、「編曲者」は編曲を行うこと自体に「原作曲者」の許諾が必要になるということは、前回にも述べた通りです。 つまり、

「演奏者」が「原作曲者」に得なければならない許諾
「編曲者」が「原作曲者」に得なければならない許諾
「演奏者」が「編曲者」に得なければならない許諾
の3つが絡んでくるので、話が少々ややこしくなります。 特に「編曲者」は許諾する側とされる側の両方の立場に立つことになるので厄介ですね。

 商売で編曲して成果を頒布しようとする場合には、普通は「翻案権」と共に、編曲した成果を複製する権利も原作曲者から買い取ってしまいます。 ですから、このような楽譜を購入する場合には、原作曲者のことは考えなくて構いません。

 しかし、第3回(昨年1月)でも注意したように、「楽譜の購入」と「演奏」は別問題です。演奏するには、非営利無料演奏などの場合を除いて、原作曲者と編曲者と両方の許諾が必要です。 尤も、編曲成果がJASRAC登録曲であれば、1回の手続きで両方処理されてしまいますが……

 昨年の第10回オータムコンサートでは、当団の団員が新たに編曲を行って演奏した曲がありました。 この場合、編曲者は元々当団で演奏するために編曲しているわけですから、編曲者から演奏者への許諾は当然になされていることになります。 その代わりに、編曲者として原作曲者の許諾を得るという手続きが別途必要になったわけです。 そして、それとは別に「演奏」に関する原作曲者の権利を処理する必要は残っています。

 この場合、「原作曲者の権利」を2種類処理することになるのですが、その手続きは随分違ったものになります。 これについては次回以降に説明したいと思います。



通算第49回(2000年11月号)

 編曲の許諾を得るための具体的な手続き、そして許諾を得た後の手続きについてもう少し考えてみましょう。

第7講:著作権を理解しよう(第13回)

 第7回(昨年5月)に、 JASRACが著作権者と「著作権信託契約」を結んでいるので、音楽著作物を利用したい人は個別に著作権者に連絡を取らなくとも、JASRACに連絡して使用料等を支払えば良いということを述べました。 ところが、音楽著作物を編曲して利用しようとする場合は、JASRACとの連絡では済みません。

 何故かというと、前回までに説明した「翻案権」や「同一性保持権」はJASRACに信託されていないからです。 これは、信託契約の契約書にそのように書いてあるわけではなく、著作権法の条文解釈との絡みで得られる結論なので、ちょっと話が面倒になります。 とりあえず今は、そういう結論なんだということで先へ進みます。

 JASRACが頼りにならないとなると、どうすれば良いのでしょう? 実際、昨年の第10回オータムコンサートで当団の団員が編曲して演奏した曲についてはどうしたかというと、実は「まずJASRACに連絡」したのです。

 「編曲して演奏する」場合、「編曲」「演奏」の各々について原作曲者の許諾が必要になります。 そして、後半の「演奏」の方については、原作曲者からJASRACに著作権が信託されています。 ですから、いずれJASRACに連絡する必要があったため、その件も含めて手続きについて相談に行ったわけです。 すると、JASRACは当然ながら原作曲者の連絡先を知っていますから、そこへ連絡して編曲許諾を得るようにアドバイスされます。 そして原作曲者に連絡を取り、許諾を得たわけです。

 ちなみに、第10回オータムコンサートでは、特に問題も無くスンナリ許諾が得られました。 これは、非営利目的であって有償頒布の予定が無いことが考慮されたことや、編曲結果を演奏する際のJASRACへの支払によって原作曲者の経済的利益が相応に確保されること、あるいは、各種の演奏形態のために多様な編曲が既に流布していた作品であり、特にオリジナルを神経質に守る必要が無かったことなどによるものと推測されます。



通算第50回(2000年12月号)

 編曲に絡んで、いろいろな名前の「権利」が出てきて複雑になってきました。 実は、普通の著作権講座なら最初にする「堅い話」を、この講座では意識的に避けて来たのですが、この機会に片付けてしまいたいと思います。 今回の話は、複雑な話を整理するために必要な「予備知識」と思って、読んで文字通りに理解しておいてください。

第7講:著作権を理解しよう(第14回)

 「著作権」という言葉には広義と狭義があります。 著作権法における正確な用法は狭義だけですが、著作権法ではこれも含めて3種類の権利について定められていて、それを総称して「著作権」と広義に呼んでしまうことが多いようです。 ただ、厳密には誤った用法なので、以下では正しい狭義にしか使わないことにします。

著作者人格権

 著作物に関する権利のうち、財産権ではない(つまり、他人に譲渡できない)とされているもので、編曲に絡んで出てきた「同一性保持権」の他に「公表権」「氏名表示権」があります。 「公表権」と「氏名表示権」の内容は「行うかどうかを決める権利」+「どうやって行うかを決める権利」です。 「公表しない」「表示しない」という選択も認められるわけで、他の人が勝手に公表や表示をしたら権利侵害になります。

著作権

 人格権以外の「複製権」「貸与権」「上演権(演奏権・口述権)」「放送権」「展示権」「翻案権」などです。 他人に譲渡することもできますし、「私的利用」などの場合には、制限され(つまり、著作権者がやめさせたりすることができなくなり)ます。

著作隣接権

 実演・レコード製作・放送を行った者に与えられる権利です。 これらの行為は著作物を作るのに似ていますが、厳密に考えると「著作物を作る行為」ではありません。 そこで、別の条文で権利が規定されています。 基本的には著作権によく似た内容です。

 例えば、レコードには著作物と同様に「複製権」があります。 放送についても、録音や録画という形で固定して再利用する行為を「複製」という言葉で表現して「複製権」が規定されています。 でも、実演を「複製」するというのは、いくら何でも変なので、「録音録画権」という表現になっています。

 アマチュアの吹奏楽演奏会を行う場合に隣接権の処理が必要になるのは、企画モノで効果音を用いる場合などに限られるでしょう。 むしろ、第9回でも述べた「楽団が許諾する側に立つ問題」が主になってきます。



通算第54回(2001年4月号)

 前回(年末)には著作権に関連する種々の権利の整理をしました。 そもそもこんな堅い話へ進んだ理由は「編曲」について考えるうえで「同一性保持権」という厄介な代物を避けて通れなくなったからです。 そこで、しばらくこの厄介な代物の話を進めて行きたいと思います。

第7講:著作権を理解しよう(第15回)

 「同一性保持権」とは「勝手に改変されない」権利です。 但し「利用の目的および態様に照らしやむを得ない」改変は認められています。 真剣に考えて行くと、厄介な問題を数多く含む権利概念なのですが、著作権に関する世の中の解説では、あっさり通り過ぎてしまっているものが多いようです。

 まず、法律上の規定を確認しておきましょう。 著作権法第20条では、以下の場合には「同一性保持権が及ばない」と定めています。

  1. 教科用図書や放送における、学校教育上やむを得ない改変
  2. 建築物の増改築・修繕・模様替えによる改変
  3. 計算機ソフトウェアを特定機種で動作させるための改変
  4. その他、著作物の性質並びに利用の目的及び態様に照らしやむを得ない改変
最初の3つはともかく、最後の(4)がとんでもなく曖昧ですね。 一体どこまでが「やむを得ない改変」に入るのでしょうか? 非常に重要な問題なんですが、まともに論じている解説は、かなり探したのですが見つかりませんでした。

 同一性保持権などの「著作者人格権」は、売買できる権利ではないこともあって商業的なルールも確立されていません。 現実的には「名誉毀損」などと同様に、余程ヒドい場合に裁判沙汰になって問題化するというような状況になっています。

 というわけで、一筋縄では行かない問題なのですが、何とか頑張ってしばらく進めて行きたいと思います。



通算第55回(2001年5月号)

 「同一性保持権」という最も厄介な問題に入っていますが、もう少し一般論的に見て行きましょう。

第7講:著作権を理解しよう(第16回)

 「同一性保持権」とは「勝手に改変されない」権利ですが、これは著作物そのものだけでなく「題号」にも及びます。 著作者の許諾を得ずに勝手にタイトルを変えたら権利侵害になる可能性があります。

 とはいえ、作品リストを作る時にスペースの都合で省略する必要なども出てきますよね。 このあたりは“常識的な範囲”であれば問題にならないと考えられます。 前回にも述べた「著作物の性質並びに利用の目的及び態様に照らしやむを得ない改変」に該当すると考えられるからです。 このあたり、判断基準が“常識”に依存していて極めて曖昧ですし、人によって考え方が違うことも当然に考えられます。 利用者と権利者の“常識的な考え”に違いがあれば、必然的にトラブルの元になりますね。

 トラブルを防ぐには、権利者の意向を確認しておくのが一番確実でしょう。 それに次ぐ確実な状況は「業界の共通認識」が確立されていることです。 音楽なら音楽、絵画芸術なら絵画芸術という分野毎で良いのですが、どこまでなら「やむを得ない改変」かという共通理解が確立していれば、それに従って判断することができます。 この共通理解は、実はトラブルを繰り返すことによって確立して行くと考えられます。 トラブルに対して様々な交渉や仲裁が入り、最終的にどうしようも無ければ裁判で決着をつけるというような手続きを積み重ねていく中で、その結論が前例となって共通理解ができていくわけです。

 ずいぶん曖昧模糊とした話になってしまいましたが、次回以降はもう少し具体的な事例を見ながら考えて行きたいと思います。



通算第84回(2003年10月号)

 他に話題が沢山あったため2年以上にわたって中断した「著作権講座」ですが、中途半端に終らせるのもイヤなので、ケリをつけておきたいと思います。 久々なので、とりあえずは、ざっと復習から……

第7講:著作権を理解しよう(第17回)

 「著作権」って作品の利用を阻害するものだと思っている人が多いと思います。 この講座は、その考えを少しでも払拭しようというところから始めました。 作品が世に出れば作者に良いこと(例えば経済的利益)がある状況を法的に保証することによって、作品が世に出ることを促進しようというのが、著作権の目的の1つです。

 「商売にしなければ自由に使える」という誤解もあります。 当人に儲けが無くても、払うべき対価を払わなかったら作者の収入が減ってしまいますよ。 但し、「私的利用」「非営利無償上演」の場合は、支払などが法的に免除されます。 これにはかなり厳しい条件があるのですが、そのあたりが世間ではきちんと理解されていない傾向があります。 NCEではプロの指揮者を呼んだ時期があるのですが、この間、指揮者に謝礼を支払ったために「無償上演」ではなくなり、演奏料の支払義務が生じました。

 楽譜の複製と楽曲の上演は別問題ということも、誤解の多いところです。 違法コピーの楽譜で適法な上演、適法なコピーの楽譜で違法な上演、どちらも有りがちな話です。 楽譜をちゃんと買ったからといって自由に演奏できるわけではないのです。

 このような問題を扱った後、第11回からは、吹奏楽にとっては重要な、しかし非常に厄介な問題である「編曲」に絡む問題に入りました。 法的には、編曲は「翻案」の一種に分類されています。 そして、翻案によってできる作品を「二次的著作物」と呼びます。 これには「原作者」「翻案者」の2段階の「作者」が存在し、例えば利用に際しては両方の許諾が必要になります。 当事者が1人増えることで話がややこしくなるわけです。

 そして、「原作者」と「翻案者」との間で問題になる、著作権関係で最も厄介な概念である「同一性保持権」の問題を第15回からの2回で扱ったところで、中断してしまったわけです。 簡単に復習しておくと、「同一性保持権」とは「勝手に改変されない」権利です。 但し「利用の目的および態様に照らしやむを得ない」改変は認められています。 ずいぶん曖昧模糊とした話ですね。 実際、著作権絡みで裁判沙汰になって新聞を賑わすのは、 この「同一性保持権」に関連する話題が比較的多いのです。

 NCEでは、「無償上演」ではなかった第10回オータムコンサートに際して、原作曲者に連絡を取って正式な編曲許諾を得た経験があります。 対外的な大きな上演に際しては、このようにきちんと手続きを踏めば何の問題も無いのですが、 細かい部分はどうなのでしょうか? そのあたりの話を、次回以降進めて行きたいと思います。



通算第85回(2003年11月号)

 「著作権講座」で最も厄介な「翻案」に関わる話を続けます。

第7講:著作権を理解しよう(第18回)

 中断直前に述べてきたように、 「翻案」に関わるトラブルは、法律上の規定が漠然としていて、どこまで許されるのか、どこから原作者の許諾が必要なのか、というところが明確に決められないことが根本的な原因になっています。

 法律では「著作物の性質並びに利用の目的及び態様に照らしやむを得ない改変」に原作者の許諾は不要と規定されています。 では「やむを得ない」ってどこまで含まれるんでしょうね。 結局そのあたりは“常識”で判断せざるを得ない部分があります。

 例えば、“明らかに常識的に”やむを得ないと判断できる範囲があると思います。 例えば、作品を紹介するために一部分を引用するというのがあります。 以前に「引用」は自由にできるという話がありました。 実は、引用そのものが自由にできるからといって、引用のために作品の一部を抽出するという“改変”が必然的に許されるということにはなりません。 しかし、引用という行為が著作物の適正利用のために不可欠な行為だという“常識”を前提にすれば、「他にもっと適切な抽出の仕方がある」という場合を除けば、抽出行為自体は「やむを得ない改変」であると考えるべきではないでしょうか。

 楽曲の場合はどうでしょうか? 例えば「奏者の技倆が作編曲者の想定に達しない」「編成が作編曲者の想定と微妙に異なっている」などの問題に対応するための必要最小限の改変は、基本的には「やむを得ない改変」であると考えるのが妥当だと思います。

 もちろん、作曲者によっては、そういう改変も我慢がならないという人もあるかもしれません。 しかし、個人的には、そのような考えは、単なる「傲慢」に過ぎないと思います。 音楽というのは、作曲者と演奏者の双方の芸術性が複合して成立するものであり、一方が他方を完全に支配しようとするのは、音楽という芸術には相容れない考えです。

 こうなってくると、楽曲の「解釈」の問題と本質的に同じになってきますね。 楽譜上の指定に一見反するような「解釈」が許されるかどうかという問題です。 ある著名な作曲家が、楽譜に指定した演奏時間の通りに演奏しなかったという理由で、演奏を差し止めようとしたという有名な噂があります。 この作曲者の行為は、許し難い傲慢であると、個人的には考えます。 音楽とはそういうものではないでしょう。

 ちなみに、普通の作曲者は、商売上の理由で、こういう馬鹿な行為には及びません。 自分の作品が演奏される機会が減って、演奏料収入が減ってしまいますもの。



通算第86回(2003年12月号)

 「著作権講座」で最も厄介な「翻案」に関わる話に、何とかケリをつけたいと思います。

第7講:著作権を理解しよう(第19回)

 「翻案」が裁判沙汰になって新聞などを賑わす場合の典型的なパターンの1つとして、「パロディ」の是非が論点になっているケースがあります。 裁判沙汰になっているということは、権利者つまり原作者が「許せない」と感じているということになります。 裏返せば、原作者が「許せる」と考える翻案行為はできることになります。 このあたりは最初の方の回で述べた一般論と同じで「権利者の気持ち次第」なんですね。

 しかし、そんな曖昧な話では不安だという人も多いでしょう。 実際問題として、各々の業界で「誰もが認める常識」の範囲でなら、翻案は許されると考えるしかない状況が普通です。 実は、この「誰もが認める」というのがクセモノで、そう思い込んで翻案したら、原作者とは認識が一致していなかった なんていうトラブルが起こり得ます。 そのあたりは、個別の事例に応じて注意するべきとしか言えないのですが、要点は「原作者がどう考えているか」が重要だということです。

 軽音楽の分野だと、他人の作品を「フューチャー」という形で編曲利用するのが当たり前のような感覚があるようで、しかも編曲行為自体に対して逐一原作者の許可を求めたりはしない習慣があるそうです。 このような場合、原作者も同じ習慣の世界の中に居ることが確実なのであれば、それを前提に行動することができます。 但し、「確実」だと「思い込まない」ことは重要ですけどね。

 さて、一般原則としては、原作者が許さない翻案は違法行為なのですが、この話を機械的に推し進めると、誰も聞いていないところで一人で勝手に演奏しているような場合でも、無許可で編曲したら違法だということになってしまいます。 もっと極論すれば、演奏もせず、ただ編曲した結果を楽譜に書いただけでも違法ということになります。

 常識論としては、誰にも見せたり聞かせたりしないようなものはもちろん、ごく限られた少人数にしか聞かせないような場での編曲行為を違法であると規定するのは、全く理に叶わない話でしょう。 しかし、少なくとも日本の著作権法には、こういう行為が合法であるとする規定は無く、規定が無い以上は原作者の権利が働くという一般論が適用されて、違法だという結論になってしまうのです。

 このあたり、きちんとルール化しておくのが理想なんでしょうね。 しかし、現実問題として翻案権が経済的権利として行使されることは滅多に無く、専ら人格権(同一性保持権)に基づいて論じられるわけで、「お金が直接に絡む話」では無いのです。 このようなこともあって、労力を掛けて細かくルール化されることもなく、常識的に「黙認」されるような状況に留っているのではないかと思います。



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