通算第129回(2007年7月号)

 秋の演奏会で採り上げるヒンデミットの「画家マティス」に関する話題を展開してみたいと思います。

第21講:画家マティスをめぐって(第1回)

 画家の「マティス」というと、近代フランスで「野獣派」のリーダー的存在だったとされるアンリ・マティス(Henri Matisse:1869-1954)を連想するのが普通でしょうが、ヒンデミットの曲で描かれているのは全くの別人です。 そもそもアンリの「マティス」が苗字(姓)であるのに対して、こちらの「マティス」はファーストネームです。

 ヒンデミットが描いたマティスは16世紀初期に活躍したドイツの画家で、美術史では「マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grunewald)」という名で知られています。 ただし、この名前は17世紀の美術史家が誤認して記録した名前らしく、最近の研究では「マティス・ゴートハルト・ナイトハルト(Mathis Gothart Neithart)」という名が本名という説が最有力となっているようです。

 ヒンデミットの「画家マティス」はマティスの代表作とされている「イーゼンハイム祭壇画(Isenheim Alter)」に基づいています。 現在、祭壇から取り外された形で美術館に展示されているようですが、元々は聖アントニウスの木像を納めた祭壇の扉を飾るものでした。 絵が長方形に納まっていないのは、扉の形に合わせているからです。

 扉は二重になっていて、普段は第1の扉に描かれた、キリストの受難(十字架刑)を描いた絵が見えるようになっていました。 これが「第1面(平日面)」と呼ばれており、マティスの作品としてよく紹介される、最も有名な絵です。 普通の日曜日(礼拝日)には扉を1枚だけ開き、第2の扉の両側に第1の扉の裏が並んだ形とします。 これが「第2面(日曜面)」と呼ばれており、キリストの生誕や死後の復活が描かれています。 そして、聖アントニウスの祭日には第2の扉も開き、木像の両側に聖アントニウス自身に関する伝承を描いた絵(第2の扉の裏)が並んだ形とします。 これが「第3面」です。

 ヒンデミットの曲は、第1楽章と第3楽章が、各々第2面と第3面の中の絵を元にしているようです。 第2楽章は第1面と関係が深いのですが、むしろキリストと十二使徒の木像が安置されていた祭壇下部(台座)の扉に描かれている埋葬の場面(第1面や第2面を見せるときには併せて見えていた)の方が直接的に対応するでしょう。



通算第130回(2007年8月号)

 「画家マティス」終楽章の題名にもなっている「聖アントニウス」についてみてみましょう。

第21講:画家マティスをめぐって(第2回)

 終楽章の題名「聖アントニウスの誘惑」は、アントニウスが誰かを誘惑しているように聞こえますが、実際には悪魔に誘惑されている場面を指します。 アントニウスという名の聖人は歴史上何人も居るのですが、ここでは「大アントニウス」(251-356)とも呼ばれる、最も古い時代の人のことを指しています。

 アントニウスはエジプトの人でした。 両親を亡くした後、信仰に目覚め、私財を全て隣人や貧者に分け与えてしまい、自分は人里離れたところで苦行生活に入りました。 そこへ悪魔が邪魔をしにやってきました。 最初は金銭欲・名誉欲・食欲などの現世の欲を囁き、そのうち女性に化けて現れて誘惑します。 アントニウスがそれを乗り切ると、悪魔はアントニウスに危害と苦痛を与えることによって修行を断念させようとします。 そして猛獣の群れに姿を変えた悪魔に襲われて重傷を負って倒れたとき、天から神の光が差し込み、アントニウスは救われたと伝えられています。

 その後、山奥に篭って修行をしている聖者が居るという噂が広がり、その徳を慕って多くの人が集まるようになりました。 そして集まった人々が集団生活をしながら修行を積む場ができるようになり、それが修道院の始まりだとされています。 そのため、アントニウスは「修道院の祖」と考えられているようです。 また、晩年のアントニウスは病気治療に関わる奇跡を多々起こしたと伝えられ、後世の修道院で行われた伝染病対応の守護として信仰されていたようです。

 アントニウスの死後、遺骨は人知れず埋葬されたのですが、561年に発見され、アレキサンドリアやコンスタンティノポリスの教会に保管されて信仰の対象になりました。 11世紀になってから、それが何故か南フランスに移動し、病気治癒の奇跡などを機に「聖アントニウス施療教団」として発展します。 「画家マティス」の元になった祭壇画は、ドイツとの国境に近いフランス・アルザス地方のイーゼンハイムの修道院にあったものですが、やはりこの教団の流れを組む修道院です。

参考文献

北嶋廣敏(1984)「聖アントニウスの誘惑」雪華社、ISBN4-7928-0208-3



通算第131回(2007年9月号)

 「画家マティス」という曲の成立には、政治的事情も含めた種々の背景があります。

第21講:画家マティスをめぐって(第3回)

 ヒンデミットが「画家マティス」を着想したのは1932年だそうです。 当時のドイツは、ヒトラー率いるナチスが勢力を拡大し、翌年には独裁権を獲得したという時期です。 この時すでに、ヒンデミットはナチスから危険視されていたようです。 そのそもそもの理由はよく解らないのですが、実験的に種々の分野を取り入れていく彼の手法が、アーリア人至上主義を否定しユダヤ人文化を容認するという側面で捉えられたということもあるようです。 また、妻がユダヤ人だったことも、後年の攻撃のネタになっています。

 「画家マティス」は当初は歌劇として作られたのですが、完成前にナチスによってヒンデミット作品の上演が禁止されてしまいました。 ところが、この時にナチス内部での主導権争いがあった関係で禁止が中途半端になってしまい、結果的には歌劇の上演だけが禁止された形になったようです。 そして、「画家マティス」は交響曲の形にまとめ直され、1934年3月にフルトヴェングラーの指揮で初演されています。

 この初演は大成功だったのですが、逆にナチスを刺激する結果になってしまい、ヒンデミットに対する攻撃が強まったようです。 フルトヴェンクラーは、これに対抗して、1934年11月にヒンデミット擁護の論文を新聞発表しました。 すると、それに賛同する人々が聴衆として大集合し、その日の公開練習が喚声で20分間始められなかったという事件にまで発展しました。 ナチス政権は更に態度を硬化させてフルトヴェングラーの職を奪い、4年後にはヒンデミットをスイス亡命に追込みます。

 ヒンデミット自身、このような逆境を予感しながら「画家マティス」を製作したとも言われています。 この曲が歌劇として作られていた段階では、現在の第3楽章に相当する部分は無く、別の2つの楽章が構想されていたようです。 それを現在の形に差し替えたのは、「救い」を求める作曲者の叫びだったのかもしれません。

参考文献

Ian Kemp(1984)「画家マティス」ミニスコア解説、Eulenburg



通算第132回(2007年10月号)

 「画家マティス」は作曲者のヒンデミットが画家マティスの生涯を自分の境遇に重ねて構想したという説があります。 そのあたりを見てみましょう。

第21:画家マティスをめぐって(第4回)

 画家マティス・ゴートハルト・ナイトハルト(マティアス・グリューネヴァルト)は永らく歴史から忘れられた存在でした。 代表作のイーゼンハイム祭壇画も、同時代の画家デューラーの作と考えられていました。 そんなわけで、マティスの生涯については断片的にしか解っていません。

 イーゼンハイム祭壇画は1513年前後の作で、その当時40歳前後だったという説が有力なようです。 当時は画家と建築家が職業として分離しておらず、マインツ大司教の宮廷画家だったマティスも城の再建監督を命じられた経歴があります。

 教会関係者として活躍していたマティスですが、1524年に解職されています。 これは、プロテスタントとカトリックの対立に巻き込まれた結果だと考えられています。 当時はルターによる宗教改革が始まったばかりでカルヴァン派の活動もまだ始まっていない時期ですが、改革運動が初めて本格的な武力対立に至った「ドイツ農民戦争」が始まったのが、この年です。 このような状況の中で、マティスはカトリックの教会に身を置きながらも、ルターの考えに共感していたらしいのです。 そして、解職されたマティスは、4年後の1528年にペストで死去するまで筆を全く取らなかったようです。

 当初は歌劇として構想された「画家マティス」は、イーゼンハイム祭壇画の描写という側面が強くなった交響曲とは違って、上述したようなマティス晩年の生涯を描写するものだったようです。 そして、その生涯を、権力者に干渉されて思い通りに創作活動ができなかった過程と捉えて作曲者自身に投影していたのではないかとも考えられているのです。

参考文献

Ian Kemp(1984)「画家マティス」ミニスコア解説、Eulenburg
Wikipedia「マティアス・グリューネヴァルト」
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/aria/isenheim.htm
http://www7.plala.or.jp/hiro-kit/KSB/oomagari/Mathis/Grunewald.html



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