通算第136回(2008年2月号)

 久々にイタリア語文法の話を書こうと思ったのですが、あまり文法的な話では無くなってしまったので、第19講の続きではなく別シリーズとして書いてみたいと思います。

第22講:soliって何?(第1回)

 「soli」というのは冷静に考えてみると理屈の合わない言葉です。 これは「solo」の複数形なのですが、「独奏・独演」を意味する言葉の複数って一体何なのでしょうか?

 そこで、まず、「solo」という言葉の使い方について見て行ってみましょう。

 例えば、管弦楽の楽譜について考えてみます。 管弦楽では管楽器は1パート1奏者が原則ですから、独奏なのは当たり前です。にも関わらず、わざわざ「solo」と表記することがあります。 どういう場合に使うかは作曲者によって違うのですが、弦楽器など他のパートからは独立した旋律を奏する部分で、その部分の音楽を主導する主旋律であって他のパートを伴奏として従える場合に使うのが基本と考えれば良さそうです。

 つまり、この場合の「solo」というのは、一人で奏するという「演奏形態」の指定ではなく、むしろ「主旋律として目立つように、楽団全体を主導するように演奏せよ」という「表情」の指定というべきものです。 espressivoとかdolceとか指定するのと、ある意味では対等な表記と考えるべきかもしれません。 ですから、「solo」という指定の有効範囲が終ったところに、わざわざ「終りだよ」と表記することも、普通はしません。 それは奏者が表情をつけるに際して考えるべきことなのです。

 吹奏楽の楽譜でも、1パート1奏者のつもりで書かれていると考えるべきものがあります。 そのような楽譜を使って演奏する場合に、「solo」という指定を単に演奏形態として1人で奏する意味に考えてしまい、指定の有効範囲が終ったと考えるべきところに何も書いていないことを理由に、それ以降の部分も1人で奏している事例をよく見掛けますが(ホルスト第1組曲第1楽章の中間部など)、適切な解釈とは言えません。

 吹奏楽では1パート複数奏者を前提に書かれているものが多く、その場合には「solo」という指定の有効範囲の終りには「tutti」の指定がキチンと施されます。 しかし、このような楽譜でも「solo」という表記と「one player」などという表記を使い分けている事例が多々見られます。 この場合、「solo」という表記は全体を主導する主旋律であることの指定であり、「one player」などの表記は、単に演奏効果の実現手段として奏者数を1人にせよとの指定に過ぎないわけです。 もちろん、このような区別なく、1人で奏する指定を全て「solo」で済ましている曲もあるので、そこは全体の書き方から個々に見分けることが必要です。



通算第137回(2008年3月号)

 前回は「solo」という言葉の使い方を見てみましたが、これを前提に複数形の「soli」について考えてみましょう。

第22講:soliって何?(第2回)

 「soli」の意味としては、文字通り「1人で奏する」意味の「solo」が何人か集まったものという理解と、「主旋律として全体を主導するような演奏」を求める表情指定の「solo」を複数奏者に適用しているという理解とが可能でしょう。

 後者の考え方が前面に出た流儀の表記法が、ポップス系のバンドの楽譜で頻繁に使われているようです。 この分野では「non soli」という、他の分野ではあまり見かけない表記が使われることがあります。 これは「soliとしての表情をつけるな」という意味です。 つまり、一見主旋律として目立たせて良さそうなパートが書かれているが、実は目立つべきパートが他に居るから、その邪魔をするなという意味なのです。

 吹奏楽では、Alfred Reedが「soli」という表記を多用することで有名です。 ところが、この人の場合、「soli」指定に対して具体的にどのような演奏方法で対応するべきかが一定しないという難しさがあります。 例えば、金管のファンファーレ的な部分を複数の同一楽器のみに割り当てているところで「soli」を指定してある場合があります。 この場合「主旋律として全体を主導するような」演奏効果を求めるには、1パート1奏者で対応するのが効果的でしょう。 つまり、この場合には文字通り「1人で奏する」意味のsoloが集まって「soli」になっているという理解が可能です。

 ところが、この人が木管(Cornetが含まれる場合あり)の唄うような旋律に「soli」を指定している場合、これを「1パート1奏者」と解するとナンセンスになってしまう例が多いようです。 この場合は「1奏者によるsoloの音色ではなく、複数奏者の音が混ざり合った音色によって」主旋律として目立たせろという意味に解するのが良さそうです。 特定の1つの楽器に「soli」を指定している場合もありますが、事例数としては複数種の楽器に同じ旋律を書いて「soli」を指定する方が多く、これは「異なる楽器の音が混ざり合った音色」を求めていると解するべきだと思われます。

 このように、対応方法の異なる「soli」が、同じ曲の時間的に近接した部分に続けて出てきたりするので解釈が厄介ですが、「複数奏者で主旋律として目立つ」という基本を確保しておけば個々に理解が可能だと思います。



通算第138回(2008年4月号)

 solo/soliに対応する概念として、対旋律を意味する「オブリガート」を見てみたいと思います。

第22講:soliって何?(第3回)

 Obbligato(略して「Obbl.」)は楽曲を分析解釈する際の用語としてはよく使われますが、楽譜上の指示という形では、そうそう頻繁には見掛けません。 とはいえ、珍しいとも言い難い程度には使われるようです。主旋律を喰ってしまわない程度に目立たせろという微妙な指示ということになるわけですね。

 ところで、この「オブリガート」という言葉の語源を調べてみると、何故これが「対旋律」の意味に変わってしまったのかというようなものであることが判ります。

obbligato:obbligare(余儀なくする、義務を負わせる)の過去分詞
つまり「余儀なくされた存在、義務付けられたもの」という意味なのです。

 「オブリガート」の古い用例を調べてみると、元々は「不可欠な声部」という意味で使われていたようです。 演奏する際の都合によっては省略可能となる声部というものが楽曲によっては存在するわけですが、そうではないということを言い表わす言葉です。

 この表現には主に2種類の用法があったようです。 1つは主旋律に対する対旋律が省略不能という場合、もう1つは主旋律に音色を添える声部という意味です。 古い西洋音楽では、器楽というのは「声楽の伴奏」という位置付けしか与えられていなかったようです。 この考え方を前提に、器楽がアリアとユニゾンになる形で使われる場合に、それは伴奏ではなく主旋律だという意味で「obbligato」と呼んだらしいのです。

 そして、前者の用法が「対旋律」という意味に変化したようです。 わざわざ「省略不能」と言及するということは、それが主旋律ではないということになるわけですが、その意味のみが抽出されたわけですね。

 現代の楽譜での「Obbl.」という指示も、後者の「音色を添える声部」という意味で主旋律と同じ動きのパートに書かれる場合が見受けられます。 しかし、「subtone(サブトーン:直訳すると「下に潜んだ音」)」という表現を使うことの方が多いでしょう。

 ちなみに、本来の意味の「obbligato」の音楽用語としての対義語は「ad libitum(アド・リビトゥム)」つまり「アドリブ」になります。 現在では演奏内容を自由にという意味に用いられることが多い用語ですが、演奏するかどうかが自由という意味に用いる方が用法としては古いわけです。



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