通算第159回(2010年1月号)

 次のスプリングコンサートで採り上げる曲に関連する話題を見ていきたいと思います。まず「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌である「残酷な天使のテーゼ」を見てみましょう。

第27講:アニメの背景哲学(第1回)

 「新世紀エヴァンゲリオン」は背景となる世界観が難解なことで有名な作品です。ただ、主題歌の製作に際しては、作詞家・作曲家・歌手に各々自由な発想で表現してもらうために、作品に関する情報を意図的に最小限しか伝えず、また完成した作品を通してしか相互に接触させないようにしたと伝えられています。そういうわけですから、主題歌を採り上げるに際して、映像作品についての詳細な情報は不要かもしれません。

 とりあえず最小限必要な情報として、「天使」として伝承されているものが、過去に実在した、人類の発祥に関わる存在である、という基本設定だということがあるでしょう。この設定自体は中世以来の伝承とも共通するもので特に目新しいものではありませんが、そこから発展させていった独自の世界観があるわけです。

 もう1つの必要な情報として、武器の性格を挙げることができます。「エヴァンゲリオン」というのは、一応は「戦闘ロボット」に分類することができる存在ですが、単なる無機的な機械ではなく、操縦者の心理状態や精神状態、つまり「こころ」の状態に直接影響されるという設定になっています。その自然な帰結として、操縦される側が操縦者を選ぶ、つまり操縦者が限定されることになります。

 そしてこの限定ですが、まず前提条件として「思春期の少年少女」、つまり人生で最も悩み傷つく多感な時期でなければならないことにしてしまいました。当然のこととして、作品内容は主人公たちが悩み苦しむドラマになります。

 このような作品の主題歌として作られた「残酷な天使のテーゼ」には、ことさらに哲学用語やキリスト教用語が登場する結果になります。このような用語については、次回 でさらに詳しく見てみたいと思います。



通算第160回(2010年2月号)

 「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌「残酷な天使のテーゼ」の「テーゼ」とは何か見てみましょう。

第27講:アニメの背景哲学(第2回)

 「テーゼ(These)」というのは、本来は単に「主張」という程度の意味の言葉です。英語のTheorem(定理)と同語源で、何らかの事実や真理を言葉で表現したもののことです。ただ、あえてこのドイツ語を使う場合には、哲学的に意味付けられた用法、特に18世紀末から19世紀にかけて活躍したヘーゲルが定式化した「弁証法」での用法を指すことが多いと思われます。

 「弁証法(Dialektik)」という用語は元々は問答によって真理を探究する方法論を指し、古代ギリシャのソクラテスが得意としたとも言われています。ヘーゲルより半世紀先行したカントは、弁証法的な議論が「理性の自己矛盾」を引き起こすことを指摘して否定したのですが、ヘーゲルは逆に、この自己矛盾を克服していくことで真理に迫ることができると主張しました。

 極端に解りやすくした例として「リンゴは赤い」という主張を考えてみましょう。これは、ある意味で真理だとも言えますが、実際には青いリンゴもあります。この場合、元の「リンゴは赤い」というテーゼに対して、「リンゴは青い」という主張が「アンチテーゼ(Antithese)」になっていると表現します。そして、この互いに矛盾するテーゼを総合して「赤いリンゴと青いリンゴがある」という新たな真理が得られるというわけです。この手順を「アウフヘーベン(aufheben)/止揚(しよう)」と呼び、得られた真理を元のテーゼに対する「ジュンテーゼ(Synthese)」と呼びます。

 ヘーゲルは弁証法を単なる論理展開ではなく世の中の真理の在り方であると考えました。そして、これを人間社会(特に経済)の在り方に適用したのがマルクスやエンゲルスです。彼らは封建主義社会の矛盾が市民革命によって止揚されて自由主義社会に代わると説明し、自由主義社会の矛盾は次の革命で止揚されて共産主義社会に代わると予言したわけです。



通算第161回(2010年3月号)

 「もののけ姫」の背景哲学について見てみましょう。

第27講:アニメの背景哲学(第3回)

 「もののけ姫」はジブリのアニメ作品の中でも環境問題に関わる政治的主張を正面から表現した作品として知られています。そして、先行作品である「風の谷のナウシカ」との対比で語られることが多いようです。

 「風の谷のナウシカ」は公開当初から「政治的メッセージが込められたアニメ」として話題になりましたが、作者としては力不足で描きたいことを充分に描き切れなかったという思いがあるようです。例えば、映画の原作にあたる漫画作品が監督自身の手により雑誌連載されているのですが、冒頭部分(全体の約4分の1)を手直しして映画化した後も書き続けられ、映画より遥かに複雑なストーリーが展開していく作品になっています。このことを裏返せば、「風の谷のナウシカ」の映画は、単純な善悪二者対立に基づく、あまりにも単純明快なストーリーになってしまっているとも言えるわけです。

 それに対して「もののけ姫」は確かに単純な善悪二者対立では語れない内容を多々含んでいます。自然破壊を進めるのは利益に目がくらんだ権力者たちだけではなく、虐げられる立場にある民たちもタタラ製鉄を基盤とする生活を維持するために森を壊しています。自然の守り神の立場にある者たちも、時には暴走し、そして互いに対立します。「もののけ姫」のメッセージには、このような「深み」があるとも言えます。

 前回、共産主義運動が弁証法的な世界発展論の流れの中に理論づけられていたことを述べました。その共産主義運動が、確かに理想社会を目指し、理論に基づいた実践を展開していったにも関わらず、結局実現できなかった大きな要因として、世界を単純な善悪二者対立で図式化する形で弁証法を適用したことを挙げる人も居るようです。

 環境問題というのは、単純な善悪対立で片付かないものの典型例だとも言えます。最近は「環境に優しい」という表現が流行っていますが、「優しい」つもりで行った行動が、実は思いがけない経路を経てダメージを与えているなどということが、ごく普通に起ってしまうのが環境問題です。このような「複雑系の奥深さ」という「テーゼ」も、「もののけ姫」の世界観から読み取ることができなくもありません。



通算第162回(2010年4月号)

 「新世紀エヴァンゲリオン」に戻って、主題歌「残酷な天使のテーゼ」間奏のコーラスについて見てみましょう。

第27講:アニメの背景哲学(第4回)

 このコーラスについては、ネット上でも「聞き取れないので教えてほしい」という質問が大量に飛び交っています。その回答情報によると、発音を強引にカタカナで書けば

「ファリィア/セタメッソ/ファリィア/トゥスェ」
となり、意味は「不明」とのことです。死海文書に登場する言葉を解読した結果、読み方は判明したものの、意味は解明できなかったのだそうです。そういう設定の創作なのか、それとも本当に存在するのか、というところまでは確認できませんでした。

 「死海文書」は「新世紀エヴァンゲリオン」にも登場する謎の文書で、これをさらに上回る謎の存在である「裏死海文書」まで登場します。実在する「死海文書」は、1947〜1956年に死海の北西岸に近いパレスチナ地域(ヨルダン川西岸域)内の洞窟内で発見された、主として紀元前2〜1世紀ごろのものとされる古文書です。

 文書の内容は、旧約聖書(=ユダヤ教の聖書)の古い写本や、関連する宗教上の文書などであり、現存する聖書とは異なる古い形が確認できるなど、聖書の成立過程を知る上での重要な手がかりとして注目されています。現行の聖書正典には含まれない外典(参考程度という扱いで一部の宗派で使われている文書)や偽典(宗教的には全く無視されている文書)なども含まれ、今まで知られていなかった文書も多々あるようです。また、新約聖書の古い形であるという説が唱えられている文書もあるようです。

 いずれにしても、キリスト教成立前後の時期に書かれた宗教文書なので、キリスト教の本来の教義は、4世紀ごろに固まった現行の教義とは違っていたという結論になってしまう可能性が考えられます。そして、おそらくこの種の煽情的結論の氾濫を防ぐためと思われるのですが、一部文書の公開を制限したことが、逆に「バチカン(カトリック教会)の圧力で不都合な文書が隠されている」との疑惑を招くなど、いろいろと物議を醸しています。さらにこれに尾鰭がついて「死海文書の作者は地球外生命体」などとする俗説もあるようです。「新世紀エヴァンゲリオン」では、こういう状況に基づいて死海文書を登場させているものと思われます。

出典に関する情報

 この問題についてネットで検索すると、

http://www.mars.dti.ne.jp/~yato/eva/ura.htm
を情報源とする二次情報が大量に出てきます。そして、このページでは出典を「Newtype」(角川書店が出しているアニメに関する月刊誌)の1996年1月号としているのですが、この雑誌の内容は確認できていません。



通算第163回(2010年5月号)

 「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌「残酷な天使のテーゼ」に登場する、「テーゼ」以外の哲学用語について見てみましょう。

第27講:アニメの背景哲学(第5回)

 「残酷な天使のテーゼ」の何度もリフレインされる部分に「ほとばしる熱いパトス」という表現が出てきます。パトス(pathos:παθοσ)というギリシャ語は、アリストテレスがエートス(ethos:εθοσ)と対置したことから、主要な哲学用語の1つとして扱われるようになったようです。

 哲学で古くから主要課題と考えられているのが「美とは何か」「善とは何か」という問題です。このうち「善とは何か」は「道徳とは何か」という問題とも深く関わるわけですが、善悪や道徳は社会集団(民族など)によって少し違ってきます。そうすると、どういうものが各々の社会の中で「善」とされるのかが問題になってきます。これにはいくつもの考え方があるのですが、古くから有力な考え方として、終局的な最高の目的に役立つものが「善」であるとするものがあります。

 いずれにしても、善悪というものは社会集団の中で長い期間に渡って持続的に維持されている考え方であり、それは社会に属する各個人の持続的な生活習慣や性格に関わってきます。そこで、これを人間の習慣的持続的な性格を意味する「エートス」(元々は「いつもの場所」という意味)という言葉で表現したようです。ちなみに「エートス」という言葉は「倫理学」を意味する「ethics」の語源になっています。

 この「エートス」に対して、持続性の無い一時的な状態のことを「パトス」と呼びます。言葉の本来の意味は「受動」なのですが、その場の状況に依存する感情の状態を指す用語として用いたようです。本来は高ぶったり収まったり色々と変わる感情のことを指す語彙なのですが、そのうち専ら高ぶった激しい状態、特に哀感・悲哀・哀愁に属する感情のことを指すようになりました。この転じた意味に用いる場合は、英語圏での発音に基づいて「ペーソス」と表記するのが普通です。



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