一般に「こども向け」と認識され、実際に低年齢の視聴者が多いようなドラマにも、社会世相への批判など深い思想が込められていることがあります。 その代表例と言えるのが、1967〜1968年に放映された「ウルトラセブン」でしょう。
「ウルトラセブン」は番組としては「ウルトラQ」「ウルトラマン」「キャプテンウルトラ」に続くものですが、ストーリーの設定としては続きではありません。 後にウルトラマンと同じ組織に所属する宇宙人ということになりましたが、これは「帰ってきたウルトラマン」のときの追加設定のようです。
「ウルトラQ」では生身の人間が怪奇事件に立ち向かい、「ウルトラマン」では映像が映える赤い巨大ヒーロー(シリーズ最初のカラー作品であることに注意)の超人的な活躍を堪能し、「キャプテンウルトラ」では宇宙に進出した人類が遭遇する敵対者に立ち向かいました。 「ウルトラセブン」は、ある意味でその全ての要素を取り入れながら、独自の世界観を作って行ったと言えます。
例えば、「ウルトラマン」では敵対者は明白に「怪獣」であり、最初から名前が付けられていてキャラクターが確立していました。 これは「帰ってきたウルトラマン」以来の新しいシリーズでも同じです。 それに対して「ウルトラセブン」では侵略者が科学兵器を用いたりするなどSF色が強く、等身大の敵のみで巨大な「怪獣」が登場しない場合や、相手の正体が最後まで明瞭でなかったり名前が付けられない場合もありました。
その一方で、ウルトラセブンの超人的能力は多彩で、それに合わせて戦いの舞台も他の惑星からミクロの世界あるいは幻想的な世界まで、多様な場面が設定されました。 そして、主人公たちが立ち向かう「問題」も多種多様で、世相批判を込めたと思われるような内容も多々あったのです。
Wikipedia 「ウルトラセブン」
ウルトラセブンの社会問題というと、第12話の欠番問題を連想する人があるかもしれません。 しかし、これは作品の内容に問題があったわけではないようです。 自らの核兵器で汚染された宇宙人が地球人の血液を得ようとするという設定なのですが、凡庸な作品との評価が支配的です。 それが、関連商品展開での表現で被爆者への配慮が不足していたと問題にされて、欠番扱いにまで至ってしまったようです。
社会風刺において秀逸との評価が高い作品を、いくつか見て行ってみましょう。
正面攻撃をせずに地球人を薬物で操り、互いに争わせることによって侵略しようとする宇宙人が登場する。 人々の信頼関係の重要性を訴えかけている。
侵略宇宙人に対抗するために開発した兵器の実験台に選んだ惑星に、実は住人が居て復讐を受ける。 核抑止論に基づく軍拡競争への痛烈な批判になっている。
海底開発のための基地や艦船が攻撃を受ける。 そのことを直前に警告した少年は2年前に海辺で死んだ霊(?)だった。 その少年は、攻撃者は海底に住む地球の先住民で、今の地球人は侵略者の末裔だと主張する。 ウルトラのヒーローたちが守ろうとする「正義」の価値観を、その根底から揺さぶる作品。
長距離ロケットのテスト飛行でウルトラ警備隊員がパイロットを務めるが、軌道を逸れて地球そっくりの惑星に誘導される。 そこでは、二千年前にロボットを開発して怠惰になった人間が、逆にロボットに支配されていた。 彼らは人間をロボットのエネルギー源として利用し、その補充のために地球を侵略しようとしていた。 高度経済成長に伴って蔓延した科学万能主義への批判。
「アンパンマンのマーチ」の歌詞を読んで、まず感じることは、妙に哲学的(説教臭い?)なことです。 いきなり「人生観」で始まる童謡の歌詞って一体何なんでしょうか?
ひとつには、アンパンマンの作者が、現在でも詩を多数発表しているような人だということがあるでしょう。 つまり、歌詞にはマンガ作者の想いが込められているのです。
アンパンマンの初期バージョンは、短身のアニメキャラではなく、顔もパンではなく普通の人間でした。 そして、敵役の「バイキンマン」も、かなり後になってから登場したようです。 しかし、空腹を訴える人々を助けるという部分は、当初から一貫しているようです。 つまり、この部分がアンパンマンという作品の根本だと言えるのです。
空腹を訴える人に自分の顔を分け与えて食べさせるという設定には、グロテスクだという批判もあるようです。 このような設定の背景には作者の戦争体験(従軍体験・飢餓体験)があると言われています。 理念的で現実離れした「正義」を振りかざすよりも、目前の困難を解決して行くのが本当のヒーローだという考えです。
アンパンマンは顔が濡れたり、欠けたり、歪んだり、カビが生えたりするとパワーが失われるという設定になっています。 つまり、自分の顔を食べさせるというのは、目前の人を助けるためにヒーローとしての力を犠牲にする行為だと言えます。 これは、目前の人々を犠牲にして「正義」を行おうとした従軍体験に対するアンチテーゼではないかと言われているわけです。
アンパンマンが絵本化された当初、低年齢児には難解だとして酷評されたようです。 しかし、それにも関わらず徐々に人気が出て、それに合わせて造形もアニメキャラに修正されていきました。 「芯になる哲学」がある作品というのは、観念的に理解できなくても直観的に訴えるものがあるのかもしれません。
Wikipedia 「アンパンマン」
「ハイジ」は主人公の成長物語として人気を博している作品ですが、冷静に考えてみると、精神的に成長して行くために乗り越えねばならない試練が「おあつらえ向き」に登場する、ちょっと「できすぎた」作品だとも言えます。
実は、この作品は「教養小説(形成小説:Bildungsroman)」と呼ばれる作品の1つに分類されます。 これは、後づけの分類ではなく、作者のヨハンナ・スピリ(シュピリ)が最初からそのように意識して書いているようです。 この分類に属する小説は、19世紀以降ドイツを中心に盛んに書かれたもので、スイスのドイツ語圏の住人である作者も、当然のごとく影響を受けたと考えられます。 教養小説はゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(歌劇「ミニヨン」の原作)と続編の「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」が起源だと考えられているのですが、「ハイジ」の原題はこれを直接に意識したもので、フルに訳すと「ハイジの修業および遍歴時代」となります。
ハイジの設定年齢は8〜9歳で、それを考えると相当に苛酷な境遇に置かれる設定だと言えるでしょう。 その背景として、原作では信仰の重要性をことさらに強調していることがあるかもしれません。 この点は映像作品では薄められていることが多く、日本で人気になったアニメではほとんど感じられません。
例えば、クララの車椅子が壊された経緯についてみてみると、映像作品ではハイジやクララが自ら関わって壊した設定が少なくないのですが、原作ではピーターがクララの存在に嫉妬して壊してしまったことになっています。 それが結果的にクララの回復につながるのですから、予定調和的な発想が感じられます。
いずれにしても、「教養小説」としての性格を意識して書かれている作品である以上は、計算づくの設定であることは已むを得ないことなのかもしれません。
Wikipedia 「アルプスの少女ハイジ」 「アルプスの少女ハイジ(アニメ)」 「教養小説」