通算第195回(2013年1月号)

 今年は春コン、公サ連、秋コンで各々の客層も意識して異なるジャンルの曲を採り上げる方針が提案されています。 そのうち公サ連で予定されている時代劇の音楽に関わる話題を見てみましょう。

第34講:時代劇の周辺(第1回)

 時代劇の代表格とも言える「水戸黄門」は、主人公は実在の人物ですが、内容は全くの作り話であるということは御存知の方も多いでしょう。 あまりにも有名な話なので、どのような経緯で形成されたかを調べた研究書(講談社学術文庫)も出ているようです。

 「水戸黄門」という呼び名は水戸徳川家の藩主で中納言にまで昇進した人を指すもので、歴代のうち7人が該当しますが、この場合は第2代藩主の光圀のことを指します。 史実としては、光圀は藩主になる前に鎌倉へ行ったことがある程度で、江戸や水戸から遠く離れる旅に出たことは無いようです。 ただ、水戸家の領内はくまなく巡っているようなので、この事実が漫遊伝説の元になっている可能性も指摘されています。

 光圀の現実の代表的な業績は、「大日本史」の編纂に着手し「水戸学」の基礎を作ったことです。 「水戸学」は幕末の尊皇攘夷運動に大きく影響し、明治以降の皇国史観の基礎にもなりました。 この「大日本史」、基幹部分も光圀の存命中には完成せず、付属資料集まで含めた全体の完成は大正時代という大事業でした。 そのために専任の組織「彰考館」を作り、家臣を組織的に全国各地に派遣して調査活動を進めました。 この活動を光圀本人の活動に替えてしまったのが漫遊伝説の元々の形だと考えられています。

 ちなみに、おなじみの「助さん格さん」は、実際に大日本史編纂に関わった中心人物(共に「彰考館」の総裁職を務めた経歴がある)の名前を少し変えて作ったキャラクタと考えられています。 助さんこと佐々木助三郎のモデルとされる佐々介三郎(宗淳・十竹)は禅僧から儒学者に転じた人物で、その経歴から各地に知己があったため、史料収集のために全国を巡ったようです。 その途上で、大日本史の史観で顕賞するべきと考えられる人物(楠木正成など)の碑を建てる活動も進めていたようです。

 一方の、格さんこと渥美格之進のモデルとされる安積覚兵衛(澹泊)は水戸藩士の家に生まれた儒学者です。 長命で、少し後の世代の学者(新井白石、荻生徂徠、室鳩巣など)とも親交があり、水戸学の形成に多大な貢献があったようです。

参考資料

Wikipedia「水戸黄門



通算第196回(2013年2月号)

 史実の「徳川光圀」が漫遊記の「水戸黄門」になった経緯について少し見てみましょう。

第34講:時代劇の周辺(第2回)

 実在の徳川光圀が自身では旅らしい旅をほとんどしていないが、「大日本史」編纂のために多数の家臣を全国各地へ派遣したということは、前回見た通りです。 これが水戸黄門自身の旅物語になっていった経緯は、特に江戸時代から明治初期に至るまでについては、ほとんど判らないようです。

 はっきりしているのは、現存最古の漫遊物語が明治26年(1893年)の講釈本だということです。 そして、それ以降の発展については資料がいろいろ残っていて、東京と大阪を中心に広まった2系統の講談ネタがあったことが判っています。 そしてそのうち、旅先で出会った状況に応じて自由に活躍できる設定になっていた大阪型のパターンが発展し、小説や映画を経て、おなじみのテレビドラマで定着したようです。

 それ以前の経緯については、前回紹介した研究書でも、様々な資料に基づいて推論を進めていますが、その要因の1つに、幕末における水戸藩の立ち位置というものがありそうです。 御承知の通り、水戸藩は幕末動乱の初期において徳川斉昭を中心に尊皇攘夷運動の中核となり、その思想的影響は明治維新後の政策にも引き継がれています。

 明治維新のキャッチフレーズは(実態がどうだったかは別として)「世直し」です。 その思想的背景となる学問体系の始祖である徳川光圀が勧善懲悪の実践をして回るという話は、明治維新に対する期待感と結びついて受入れられていった可能性があります。 明治5年(1872年)から15年間にわたって行われた明治天皇の全国巡幸に際しても、天皇への期待感が直訴の多発という形で現れており、それと同じ意識なのでしょう。 前述した明治後期の講談ネタには、明治天皇に御前講釈を行った講談師が関わっていることも判っています。 こういう人たちの影響もあったかもしれません。

 そして、江戸時代後期に「お伊勢参り」などの形で発達し、明治期の鉄道網発達の背景にもなった「旅行ブーム」が、「漫遊物語」という形を普及させる背景になったと考えられます。 「旅は楽しい」というのは、やはり基本なのでしょう。

参考資料

水戸黄門諸国漫遊物語はどのように生まれたのか? http://kousyoublog.jp/?eid=2709



通算第197回(2013年3月号)

 「水戸黄門」以外で実在の人物を主人公にした娯楽時代劇として「暴れん坊将軍」を採り上げてみましょう。

第34講:時代劇の周辺(第3回)

 「暴れん坊将軍」の主人公である徳川吉宗は、小学校(6年生)での歴史の授業にも登場する実在の重要人物です。 人物像や行動パターンの中にも史実に沿ったと思われる部分が多々ありますが、重要な部分で史実とはかなり異なっていたりします。

 例えば、ドラマでは吉宗が身分を隠して市中で行動する際に「徳田新之助」を名乗りますが、「徳田」はともかく「新之助」は実際に吉宗が若い頃に名乗っていた名前です。 吉宗は紀州藩主の子として生まれましたが、生母の身分が低かったため、庶子としても全うな扱いを受けず、「隠し子」として家臣に預けられ、その家の子として育ったようです。 その後、召し出されて藩主の庶子として生活するようになりますが、元服に際しても当初は武士の子としての「名乗り」を与えられず、「新之助」という「通称」で呼ばれていたようです。 その後、将軍(綱吉)への拝閲に際して「頼方(よりかたorよりまさ)」と名乗り、さらにその後、兄たちの急逝で藩主となる際に、当時の将軍綱吉の偏諱(へんきorかたいみな)を与えられて「吉宗」と改名したわけです。

 吉宗自身の人物像において、最も史実と異なる設定になっているのは、女性に対して初心(うぶ)なことでしょう。 ドラマ中では吉宗は独身という設定になっていて、嫁選びを強いられそうになって慌てて逃げ出すという設定の回もありました。 吉宗の結婚がシリーズ全体のテーマになっていたこともありました。相手の姫君も身分を隠して市中を出歩いていて、紆余曲折の末ゴールインということになったのですが、次のシリーズでは、その話を無かったことにして独身に戻ってしまいました。

 史実の吉宗は、女性関係が派手だったことで知られています。 有名な「天一坊事件」は、いろいろ脚色されて伝えられていますが、吉宗の御落胤と称する人物が現れたこと自体は史実です。 このとき、本当に御落胤だったら大変だということで、将軍になっていた吉宗に「お伺い」を立てたところ、「身に覚えがある」という回答だったという記録が残っています。 ところが、年齢から計算してみると、天一坊は吉宗が満15歳のときに生まれていることになります。 本物の御落胤だったかどうかはさておくとしても、「身に覚え」があった以上は、早熟な子だったことは確かなようです。

 「天一坊事件」というのは、吉宗の御落胤であると称する「天一坊改行(源氏坊天一)」という人物が現れたというものです。 講談などでは、幕府転覆の大陰謀として描かれていたりしますが、確実な記録で見る限りでは単純な詐欺事件だったようです。 つまり、御落胤であることが認められて取り立てられる予定であると主張することによって、今のうちに取り入って将来の利益を図ろうとする人々を集め、経済的利益を得たわけです。



通算第198回(2013年4月号)

 「暴れん坊将軍」の名脇役である「爺(じい)」について見てみましょう。

第34講:時代劇の周辺(第4回)

 「暴れん坊将軍」が徳川吉宗という実在の人物を主人公にしている以上、周囲にも実在の重要人物が多数登場します。 お馴染みの南町奉行大岡越前守忠相のほか、ドラマ中で吉宗に「爺(じい)」と呼ばれている側近も、最初は実在人物でした。

 有島一郎が演じた初代の「爺」は、ドラマでは「加納五郎左衛門」と名乗っていましたが、「五郎左衛門」という通称はドラマでの役柄に合わせた創作のようで、歴史の教科書に出てくる名前では「加納久通」となります。 有島一郎の演技が好評であったため、死後に同じ役を別の俳優で続けることができず、以後の「爺」は架空の人物(但し、4代目の「有馬彦右衛門」(名古屋章)は実在の「有馬氏倫」がモデル)としたようです。

 ドラマで「爺」と呼ばれているということは、吉宗の「育ての親」にあたる、一般に「傅役(もりやく)」「乳父(めのと)」などと呼ばれる人物ということになります。 しかし史実の加納久通は傅役の息子にあたる人物で、「親」というより「兄」にあたります。 この立場ゆえに、吉宗が紀州藩主の庶子であったころからの気心の知れた側近であり、将軍就任に際しても同行させ「御用取次」としています。 有馬氏倫も同じく紀州時代の側近から御用取次になっています。

 吉宗は第8代将軍として江戸城に乗り込む際、身分の高い家臣を紀州藩に残すことによって「乗っ取り」感を払拭し、以前からの幕臣たちの反発を避けようとしたようです。 その代わりに身分の低い側近を連れてきて自分の周囲を固め、将軍専制体制を作っていきました。 吉宗以前に傍系から将軍を継承した第5代綱吉や第6代家宣は、就任前の自分の藩を廃止し、家臣を基本的に全員連れて来ました。 そして、自分の側近を「側用人」として地位も権力も与えたわけです。 吉宗は同じ方法は採らないという意思表示のために、紀州藩は従兄に継承させて家臣の多くを残しました。 そして敢えて「側用人」という呼称を避けて「御用取次」とし、身分も低く据え置くことによって、旧体制を味方に取り込もうとしたわけです。



通算第199回(2013年5月号)

 「暴れん坊将軍」こと徳川吉宗の実像について、もう少し見てみましょう。

第34講:時代劇の周辺(第5回)

 徳川吉宗は、教科書的には「享保の改革」を行った人物として知られています。 そのようなことができた背景には、彼が「合理的思考」に基づいて行動する人物であったことがあり、それは吉宗という人物の出自によるものである可能性が高そうです。

 吉宗のことを同時代の学者が「文盲」であると記録しています。 この「文盲」というのは、文字の読み書きができないという意味ではなく、当時の上流階級では当然であった古典文学に関する教養が無いという意味のようです。 生母の身分が低く、市井で育った吉宗は、上流階級の教養には縁遠かったのですが、庶民的な生活に直接役立つ「実学」の分野には精通していました。 そして、そのような知識を基礎に、紀州藩主時代に藩の財政改革をやってのけ、その実績に基づいて幕政改革も進めて行ったわけです。

 吉宗の合理的思考の一例として有名なのが、将軍になってスグに行った大奥のリストラです。 将軍の継嗣養育機関である大奥は、側室たちが将軍の寵愛を競う場でもあり、必然的に華奢になって財政を圧迫する要因になりました。 しかし一方で、大奥には将軍の意向を動かす力があったので、簡単にはリストラできなかったのです。

 吉宗は将軍になって間もなく、大奥中から選り優りの美女を集めよとの命令を出しました。 当然、将軍が自分のお気に入りを選ぶのが目的と考えて、いそいそと集まってきます。 ところが、吉宗は集まった美女たちに対して、全員解雇すると告げます。 それだけの器量良しなら、いくらでも引き取り手があるだろう、だからクビだという理屈です。 確かに合理的ですが、そこまで思い切れるものかと思わせる話ですね。

 尤も、その背景には吉宗の女性に対する好みがあったかもしれません。 紀州藩主時代に、巡察先で見掛けた、真っ黒に日焼けした力持ちの女性が気に入り、夜伽に召し出したという逸話が残っています。 裏返せば、吉宗は貴族的な美人が好みでは無かったのです。 それゆえ、大奥の美女たちには、それほどの思い入れが無かったとも考えられます。



通算第200回(2013年6月号)

 「時代劇絵巻」には出てきませんが、実在の人物を主人公にした娯楽時代劇である「遠山の金さん」を採り上げてみましょう。

第34講:時代劇の周辺(第6回)

 「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉金四郎景元は、前回までで採り上げた徳川吉宗と同様、江戸三大改革の断行を担った人物です……というと意外に思う人もあるかもしれませんね。 「享保・寛政・天保」の三大改革というと、財政難に陥った幕府を再建するために「贅沢禁止・倹約」を旨として庶民に犠牲を強いる経済政策を進めたものというイメージがあり、「金さん」のイメージとは合わないと思うでしょう。 しかしながら、実はこの立場が、逆に「金さん」のイメージの元になったと考えられています。

 遠山金四郎が関わったのは三大改革の最後にあたる天保の改革で、中心になったのは幕府老中首座の水野忠邦です。 当時は、幕府の財政状況もいよいよ危機的になり、大塩平八郎の乱など幕藩体制の経済的矛盾が噴出するような事件も起るような時期で、さらに加えて鎖国体制を脅やかす外国船の来航事件も起っていました。 そのような情勢の中で水野忠邦は幕政での立場を着実に固め、第11代将軍徳川家斉の逝去を機に反対派を粛清し、多数の法令を次々と制定して急進的に改革を進めて行きました。

 従って、天保の改革には、無理のある極端な政策が多々含まれていました。 遠山金四郎は、北町奉行という立場から改革政策を遂行していったのですが、市民生活にダメージを与えるような極端な内容に対しては、逆効果だと主張して撤回や緩和を求めました。 有名なのが、寄席・芝居・歌舞伎などの娯楽興行を全廃しようとしたのに抵抗して、郊外移転や演目制限などに留めたことです。 この経緯が「北町奉行遠山景元=善、南町奉行鳥居耀蔵=悪」というイメージの元になったと考えられています。

 遠山金四郎は、天保の改革の途中で閑職に転じています。 形の上では昇任となる人事で、鳥居耀蔵の策略で遠ざけられたと考えられています。 そして、天保の改革が失敗に終った後、今度は南町奉行になっています。 時代劇では町奉行というのは裁判ばかりしているようなイメージがありますが、実際は民政の全般を担う役職で、高度な行政手腕が要求される職務でした。 それを全うできる能吏と評価されていたようです。



通算第201回(2013年7月号)

 「遠山の金さん」といえば「桜吹雪の入れ墨」を連想する人が多いでしょう。 その史実性について見てみましょう。 それらの人々について少し見てみましょう。

第34講:時代劇の周辺(第7回)

 遠山金四郎が若い頃に放蕩生活を送っていたというのは確かな史実のようです。 金四郎の父親は元々遠山家に養子に入った人物でした。 ところが、養子に入った後に実子が生まれたのです。 そのため、父親はその実子を自分の養子とし、さらに金四郎をその養子の養子としたのです。 つまり自分の実父が家督継承の上では祖父扱いということになったわけです。 この複雑な家庭環境ゆえに、家の中での自分の居場所を失いがちだったことが放蕩生活の背景にあったと考えられています。

 入れ墨の有無については、確実な証拠は何も無いようです。 歴史学者の中には、入れ墨があるような人物が幕府の役職に就けるわけがないという一般論で遠山金四郎の入れ墨を否定する人も居るようですが、論拠薄弱でしょう。 信憑性は不明ですが、袖がまくれあがるのを気にして、スグに下ろすクセがあったという証言もあるようです。 時代劇での見事な桜吹雪は論外としても、何か見られたくないモノがあったのかもしれません。

 天保の改革で、遠山金四郎は、上からの命令に反対を主張しても簡単には罷免されませんでした(改革当初に相方の南町奉行として共に反対を主張した人物は、早々に罷免のうえ改易されるという憂き目に遭っています)。 これは、行政官僚としての力量を認められていたからであると考えられています。 当時、各奉行が裁判を行う様子を将軍が上覧するという行事が定期的にあり、その際に第12代将軍徳川家慶から絶賛されたという記録も残されています。 若い頃の放蕩生活も、市井の状況を現実的に判断するための基礎になり、それが町奉行としての職務に活かされたのかもしれません。

 ちなみに、悪役の南町奉行鳥居耀蔵は、天保の改革の失敗が確実になると、アッサリと水野忠邦を裏切って自分の地位を確保するという行動に走り、後に水野忠邦が復帰したときに処罰されて、幕末の動乱期を通じて幽閉生活を送っています。 このような行動から陰険な人物というイメージがあるのですが、幽閉中には漢方薬の知識を活かして近辺の領民から慕われていたという記録もあります。 立場や信念を全うするためであれば冷徹になれる人物だったのかもしれませんね。



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