通算第210回(2014年4月号)

 秋の演奏会でアルプス交響曲を採り上げます。 そこで、アルプスについて見てみましょう。 交響曲の内容にはこだわらずに、いろんな側面から見ていこうと思います。

第36講:アルプスをめぐって(第1回)

 まず、そもそも「アルプス」とは何でしょうか? そういえば「アルプス」と似たような言葉に「アルペン」というのがあります。 どう違うのでしょうか?

 答えを言ってしまえば、「アルプス(Alps)」というのはフランス語で、「アルペン(Alpen)」というのはドイツ語です。 英語でも「アルプス(Alps)」です。 イタリア語では「アルピ(Alpi)」ラテン語やスペイン語では「アルペス(Alpes)」です。

 以上に共通するのは、「アルプ(Alp)」なり「アルペ(Alpe)」なりといった言葉の複数形だということです。 では、単数形の「アルプ」や「アルペ」はどういう意味かというと、実はハッキリしないのです。 有力な説は2つあるようで、1つは山腹に夏季放牧場「アルプ/アルペ」が沢山あるから、それを山自体の名前に転用したという説、もう1つはケルト語で「岩山」を意味する「アルプ」が語源だという説です。

 高山地帯であるアルプス山脈は人々の移動の障壁となりますから、周囲の各文化圏が各々から山脈に少し入ったところまでを領域とすることになります。 その結果、アルプス山脈は現在7ヶ国に跨がっています。 そのうちスイスとリヒテンシュタインはアルプスの中にあるというべき国なので、残る5ヶ国、つまりフランス・ドイツ・オーストリア・スロベニア・イタリアがアルプス山脈を取り囲んでいるわけです。 尤も、このうちオーストリアは国土の半分以上がアルプスなのですが、取り囲む側に入れないとスキ間が開いてしまいます。

 そういうわけで、アルプスというのはヨーロッパ世界の中で「行き着ける遠景」であり、「境界」「要衝」でもあったのです。 その位置付けや意味付けについて、少しずつ見ていければと思っています。

参考文献

Wikipedia「アルプス山脈



通算第211回(2014年5月号)

 アルプスをめぐる歴史ということで「アルプス越え」を見てみましょう。

第36講:アルプスをめぐって(第2回)

 前回も説明したように、アルプスはヨーロッパ世界の「境界」「要衝」でした。 ですから、アルプスを越えることが歴史的に決定的な意義を有することだったということも多いのです。 有名なところではナポレオンのアルプス越えがありますが、この作戦の参考にもなったとされる、古代のハンニバルのアルプス越えを今回は見てみましょう。

 ハンニバルのアルプス越えは象を伴っていたことで有名です。 実のところ約30頭居た象が山越えで3頭にまで減ったようなのですが、それでも象の実物を見たことが無かった現地の人々には脅威であり、相当な威圧感があったようです。 しかし、この作戦が戦争の中でどういう意味があったのかは、あまり知られていないかもしれません。

 ハンニバルが活躍したのは「第2次ポエニ戦争」です。 「ポエニ」は「フェニキア」を意味するラテン語に由来します。 フェニキアは現在のレバノンあたりなのですが、当時はフェニキア本国は周囲の勢力に圧倒されていて、元々は植民地であったカルタゴがフェニキア人の根拠地になっていました。 地中海を挟んでイタリアの対岸です。

 主に航海による交易で栄えていたカルタゴと新興勢力のローマが、イタリア半島の先にあるシチリア島で対立したのが第1次ポエニ戦争で、ローマが勝利しました。 再起を期したカルタゴは当時未開地だったイベリア半島(現在のスペイン)の開発を進めました。 そして現在のフランスとの国境付近で第2次ポエニ戦争が始まりました。

 イタリアは北側の陸地がアルプス山脈で囲まれています。 そのため、ローマ軍は海からの襲撃に備えていました。 その裏をかいてハンニバルはイベリアから進撃し、アルプス越えの襲撃でローマを混乱に陥れました。 そこまでは成功だったのですが、混乱に乗じてローマ側の結束を乱す作戦は中途半端になり、逆に持久戦に持ち込まれて撤退を余儀なくされます。 そしてカルタゴ本土近くでの野戦に敗れてしまいました。  その後もカルタゴは経済的底力を発揮して復興を果すのですが、それを警戒したローマが第3次ポエニ戦争を起こし、完全に滅亡させてしまいます。 逆にローマは、この戦争を通じて強い軍事力を身につけ、地中海全体を支配する帝国を作り上げたわけです。



通算第212回(2014年6月号)

 歴史上最も有名なアルプス越えである、ナポレオンのものを見てみましょう。

第36講:アルプスをめぐって(第3回)

 ナポレオンのアルプス越えというと「余の辞書に不可能の文字は無い」という科白で有名です。 尤も、このときのナポレオンはまだ皇帝ではなく一介の方面指令官から政権の代表に出世した直後ですので、一人称を「余」と訳すのは勇み足かもしれません。

 フランス革命の後、自国への波及を恐れた周辺各国は軍事介入で革命を潰そうとしました。 このときの周辺各国の同盟関係を「対仏大同盟」と呼びます。 フランス側に撃破されて同盟関係が壊滅し、しばらくしてまた結成されてという繰り返しだったので、ナポレオンが最終的に没落するまで全部で7回の対仏大同盟があります。

 有名なアルプス越えは第2次対仏大同盟のときです。 対仏側ではフランスと陸続きでなく、かつ強い海軍力を有するイギリスが軍事的に最も優勢な立場にありました。 それに対抗するため、ナポレオンが当時イギリス領だったエジプトに遠征します。 その隙をついて各国が攻めてきました。 大軍を連れて帰れないナポレオンは少人数でフランスへ戻り、クーデターで政権を掌握したあと、本国の軍隊を再編成して反攻に出ます。

 このとき、フランス中部に居たナポレオンは、アルプスの最高峰の間を抜ける山越えルートでイタリア北部へ抜けました。 地中海沿いにアルプスの西南端を越えてフランス南部へ進もうとしているオーストリア軍の背後を突こうとしたわけです。

 実際のところ、アルプス越えを敢行したこと自体が勝敗に決定的な影響を与えたわけではないようです。 元々はイタリア側で戦っていたフランス軍と協力して挟み撃ちにする作戦だったようなのですが、巧く行かないままイタリア側に居たフランス軍は降伏してしまいました。 しかし、アルプス越えでフランス軍がやってきたためにオーストリア軍が退路を絶たれて不利になったことは確かで、結局イタリアのオーストリア軍はナポレオンに敗れました。アルプスの北側の戦線でもフランスが勝利し、戦争は終結します。

 このあと、ナポレオンは政治の実権を握り、4年後に皇帝になります。 そして、この動きに脅威を感じた周辺各国の挑戦を打ち負かしながらヨーロッパの覇権を握って行くわけです。



通算第213回(2014年7月号)

 戦争の作戦以外の「アルプス越え」も見てみたいと思います。

第36講:アルプスをめぐって(第4回)

 アルプスを越える話にも色々ありますが、有名どころとしては映画「サウンド・オブ・ミュージック」のラストシーンを挙げることができます。 実話(ヒロインの自叙伝)を元にしたミュージカルをさらに映画化したものですが、映画は元の実話の舞台であるオーストラリアのザルツブルグの実際の風景を使っています。 有名なオープニングシーンも、実際にザルツブルグの街を見降ろす丘の上で空撮したものです。

 時代はオーストリアの隣国ドイツでナチスが台頭し、「同じドイツ民族の国」であるという理由でドイツがオーストリアを併合してしまった直後です。 修道院のハミ出し者であったヒロインは、妻を亡くして7人の子供を抱えた退役軍人の屋敷に住み込みの家庭教師として赴きます。 そして、紆余曲折の末、赴任先の主と結婚するに至るというのが前半のストーリーです。 その過程で「音楽」が重要な役割を果します。 最終的に家族で合唱団として活動するようになったというのも実話の通りです。

 ところで、この退役軍人はナチスに対して否定的でした。 しかし、世の趨勢は彼自身に対しても家族合唱団に対してもナチスへの協力を要求するようになってきたため、亡命を決意します。 出身修道院の協力も得ながら官憲から逃げ回る緊迫の展開を経て、アルプス越えのルートで脱出に成功するというのが有名なラストシーンです。

 このシーン、「全ての山に登れ」の歌詞にも通じる重要なものですが、残念ながら事実ではありません。 それは地図を見れば明らかです。 ザルツブルグからアルプスの山越えをすると、ナチスから逃げるどころか、逆に南ドイツへ抜けてしまうのです。 実際には鉄道と自動車を乗り継いでイタリアへ向かったようなのですが、それでは「絵にならない」ので話を変えてしまったということのようです。



通算第214回(2014年8月号)

 戦争に直結するアルプス越えが続いたので、戦闘から少し離れたのを採り上げてみましょう。

第36講:アルプスをめぐって(第5回)

 「カノッサの屈辱」は世界史の教科書にも普通に出てくる有名な事件です。 中世ヨーロッパにおいて、世俗権力が教会に対してまだ弱かった時期を象徴する事件という文脈で捉えられることが多いのですが、話はそう単純では無いようです。

 事件は1077年に起りました。 当時、ヨーロッパ全体で「聖職叙任権闘争」という流れがありました。 当時、各地域の教会の聖職者は地元で影響力の強い領主の意向で決まるのが通例で、儀礼的な形式としても任命権者の立場にあったようです。 カトリック教会の総本山を仕切るローマ教皇(法王)としては、小さな教会であればそれほど気にはならないのですが、広い地域に影響力がある大きな教会の人事となるとローマとしての意思を通す必要があります。 そのため、広い地域を支配する強い世俗領主が現れるようになると、世俗領主と教会との対立が起こるようになりました。

 カノッサ事件で対立したのは教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝(ドイツ王)ハインリッヒ4世です。 教皇が皇帝を「破門」するという行動に出たところ、国内の小領主たちの多くが教皇を支持して皇帝に逆らってしまったため、困った皇帝が教皇の滞在地であったカノッサを訪問し、降雪中の門前で3日間祈り続けて許しを乞うたのです。

 このときの皇帝の行動には「アルプス越え」のイメージがあります。 確かに雪のアルプスを越えたのですが、山越えの後、山麓の寒村で雪空に身を晒したことが重要なので、少しイメージがズレているかもしれません。 ちなみに、カノッサは大きな地図帳にも出てこないような小さな村で、偶々教皇の有力な支持者の領地だったようです。

 この事件は教皇と皇帝の力関係という文脈で語られることが多いのですが、実は皇帝が国内を掌握できていなかったことが本質です。 神聖ローマ帝国というのは歴史的経緯から国内小領主の独立性が強く、元々皇帝に反感を持っていた小領主たちが、偶々皇帝と対立した教皇を支持したのです。 しかし、この事件は当時最大の世俗権力であった皇帝が屈伏したという部分だけを強調して教会側の宣伝材料として使われました。 後には、16世紀の宗教改革では教皇の横暴の事例として、19世紀以降のドイツ統一運動では「過去の屈辱」として政治的に利用され、ますます有名になったようです。



通算第215回(2014年9月号)

 山越えの話が続きましたが、そろそろ山へ登ってみたいと思います。

第36講:アルプスをめぐって(第6回)

 アルプスの高峰への登頂の試みは18世紀に始まったようです。 最高峰モンブランへの初登頂は1786年でした。 このころは高山地帯の自然環境を探究する学術目的が大きかったようですが、19世紀中ごろから登山自体をスポーツとして楽しむようになりました。 そして、1865年にマッターホルンの初登頂が成し遂げられます。 地面から突出したような、秀麗とも異様ともいえる山の形から想像できるように、容易な登頂を許さない急傾斜で、初登頂の際にも下山時に多数が転落死する事故があったようです。

 19世紀には山岳観光も始まりました。 ヨーロッパ最初の登山鉄道であるリギ鉄道の最初の部分が開通したのは1871年です。 スイス国土の中央よりやや東寄り、チューリッヒの南方、ユングフラウやアイガーの北東という位置にあり、早くから山岳リゾートとして開けていたリギ山の山頂を3方向から目指す鉄道です。 その後も多数の登山鉄道が整備され、世界最高標高の鉄道駅(ユングフラウ鉄道のユングフラウヨッホ)やケーブル等を使わない自走式鉄道の最峻急勾配(ピラトゥス鉄道)もアルプスにあります。

 山の上まで登ってしまう鉄道以外で有名なのが「氷河特急」です。 原語を直訳すると「氷河急行」になるのですが、日本語の観光案内では「特急」と呼ぶことになっているようです。 山の中を抜けていくルートなのでスピードを上げることはできず、「世界一遅い急行(特急)」とも呼ばれているようです。 スイスと南隣のイタリアとの国境のうち比較的西側にあるマッターホルン山麓のツェルマットと、同じく国境地帯の東側にあるサンモリッツという、代表的な山岳リゾート地を8時間かけて結ぶというものです。

 アルプスの観光地としての価値は、高地の空気の清浄感にも負っているので、スイスは内燃機関で動く交通手段の導入に対して神経質です。 次々と建設されるアルプス越えの自動車トンネルも、交通容量を高めるという目的も勿論あるのですが、それよりも高地に自動車を乗り入れさせないという目的の方が重視されているようです。 従って、スイスの山岳観光における交通手段は、基本的には電気で動く鉄道です。 これには、豊富な雪融け水と大きな落差を利用した水力発電が潤沢に使えるという背景もあります。

参考文献

Wikipedia「アルプス山脈
スイス政府観光局日本語サイト



通算第216回(2014年10月号)

 アルプスの高峰について概観してみたいと思います。

第36講:アルプスをめぐって(第7回)

 アルプスは南側の北イタリア平野部に向かって急勾配で降りる形になっていて、北側は山岳地帯が広く続きます。 従って、スイスやオーストリアの国土もアルプスの高峰地帯を含んで北側に展開する形になります。 言い換えると、高峰は南隣のイタリアとの国境付近に並んでいます。

 最高峰モンブラン(4811m)やモンテローザ(4634m)マッターホルン(4478m)ブライトホルン(4164m)ヴェルト針峰(4122m)などは、スイスとイタリアとの国境の西半分(一部フランスとイタリアの国境)に東西に細長く並んでおり、ペニンアルプス(アルピ・ペンニネ)と呼ばれています。 その北側に平行してユングフラウ(4156m)メンヒ(4099m)アイガー(3970m)に代表されるベルナー・オーバーランドがあります。 双方の間の渓谷部分は、そのまんま「ヴァレー」と名乗る州になっており、主要交通路として機能しています。 渓谷の西側は北へ屈曲してレマン湖(湖畔にローザンヌやジュネーブがある)を経てフランス中部へつながり、東端あたりから峠越えでイタリア方面へ抜けるルートです。 代表的なのがシンプロン峠で、ここには世界最長だったこともあるシンプロン・トンネルがあります。

 スイスとイタリアとの国境の東半分にはビッツ・ベルニナ(4049m)などがあり、ベルニナアルプスと呼ばれています。 最高峰群のような派手さはありませんが、世界文化遺産になっているレーティシュ鉄道があるなど山岳観光が盛んです。 さらに東側のオーストラリアとイタリアとの国境地帯(チロル地方など)には4000m級の高峰はありませんが、もちろん「アルプスの山々」は続いていますし、こちらの方がアルプスの高原地帯の典型的なイメージになっているかもしれませんね。

 ちなみに山脈はモンブランの西側には伸びておらず、南へ屈曲しています。 イタリアとフランスの国境地帯に4000m級の高峰もいくつかありますが、ペニンアルプスほどの派手さは無く、徐々に低くなってモナコやニースのあたりで地中海に達しています。



通算第217回(2014年11月号)

 「本家」以外のアルプスについても少し見てみましょう。

第36講:アルプスをめぐって(第8回)

 「アルプス」はヨーロッパを代表する高山です。 近現代の国際社会はヨーロッパ人が世界に進出しながら作られて行ったものですから、高山を指す「アルプス」という言葉も世界に広がることになります。 また、世界とまで行かなくても、ヨーロッパの中にも「○○アルプス」と呼ばれる山岳地帯が存在します。

 ヨーロッパの中では「ディナルアルプス」と「トランシルバニアアルプス」を挙げることができます。 「ディナルアルプス」はイタリア半島の東側、アドリア海を隔てた対岸から50kmほどのあたりに海岸にほぼ平行して存在する山脈と、それにつながる山岳地帯との総称です。 海岸と山脈の間の地域はクロアチアに属し、山脈を越えた先はボスニア・ヘルツェゴビナとなります。 ボスニア・ヘルツェゴビナの国土の半分ほどはディナルアルプスに属する山岳地帯で、モンテネグロ・セルビア・コソボ・マケドニアにまで及びます。 本家アルプスの続きと言っても良いような位置にありますが、間に比較的標高が低い地域を挟むためか、本家アルプスの一部とは看做されていないようです。

 「トランシルバニアアルプス」はトランシルバニア(ルーマニア北西部)の南限を区切る山脈です。 トランシルバニアは第一次世界大戦までオーストリアハンガリー領だったので、それまではトランシルバニアアルプスが国境だったわけです。

 ヨーロッパの外に目を向けると、オーストラリア大陸の東端に北から南まで伸びる大分水嶺山脈の南端、オーストラリア最高峰のあるあたりを「オーストラリアアルプス」と呼ぶようです。 また、ニュージーランド南島の山岳地帯を「南アルプス山脈」と呼びます。 そしてもちろん「日本アルプス」もあります。

 あと、面白いところでは、月にも「アルプス山脈」があります。

参考文献

Wikipedia「アルプス山脈



通算第218回(2014年12月号)

 少し趣向を変えて「アルプス一万尺」について見てみましょう。

第36講:アルプスをめぐって(第9回)

アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを 踊りましょ

「アルプス一万尺」作詞者不詳

 この歌、「踊りましょ」の前に「さあ」を挿入し「わざわざ字余りにして」歌う人が多いという不思議もあるのですが、それはさておき、この歌の「アルプス」は本家アルプスではなく日本アルプス限定だということを御存知でしょうか?

 そもそも一万尺というのは、日本アルプス最高峰群の標高が3200m弱で、近代日本の尺貫法で換算すると「一万尺強」になることに基づいています。

 では「小槍」とは何かというと、北アルプスに実在する山の名前です。 日本第5位の高峰である槍ヶ岳には、頂上の近くに「小槍」と呼ばれる副峰があります。 確かに遠景では先端が平らになっていて、何となく踊れそうな気がします。 実際には到達するのにロッククライミングの技術が必要な場所で、頂上もデコボコしていて踊れるような状態ではないそうで、踊りましょというのは全くのジョークですね。 小槍の標高は3030mで「一万尺ピッタリ」であることに基づいているという説もあります。

 「作詞者不詳」となっていることからも判るように、この歌は山岳愛好家の間で自然発生的に産まれた替え歌で、歌詞の内容は元歌と全く無関係です。 元歌は「ヤンキー・ドゥードゥル(Yankee Doodle)」で、アメリカ独立戦争の時に「愛国歌」となって定着したということはハッキリしているのですが、発祥が不詳な歌です。

 「Yankee」は、日本では1980年代ごろの不良少年やそのスタイルを指す用語に転用されましたが、元々はアメリカ人(特に北部の白人)を指す俗語です。 そして、この歌は元々イギリス軍が植民地(後のアメリカ合衆国)の兵士を見下して侮蔑する歌だったのです。 それを当の兵士たちが無数の替え歌を作って愛唱し、最終的に「反英愛国歌」にしてしまったというのは面白いところです。

参考文献

Wikipedia「日本の山一覧 (高さ順) 」「槍ヶ岳」「ヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle)



通算第219回(2015年1月号)

 前回も話が出た「日本アルプス」について見てみましょう。

第36講:アルプスをめぐって(第10回)

 「日本アルプス」は明治時代に所謂「お雇い外国人」つまり西洋の科学技術を導入するために招聘した欧米人による命名とされています。 1881年に刊行された「日本案内」の中で信州地方の執筆を担当した、造幣局で鋳貨を指導していたウィリアム・ゴーランド(ガウランド)が呼んだのが発端で、登山家として有名な宣教師のウォルター・ウェストンの著書群で広まったようです。 つまり、当初は英語の文献での呼び名だったのですが、日本人の登山家にも自然に受け入れられ、現在に至っています。

 明治以前の日本には「スポーツとしての登山」はありませんでした。 もちろん、山岳信仰の伝統はありますし、境界としての山岳地帯の状況把握を職務とする「見廻り役」も居ました。 明治初期には測量のために山頂を目指した事例も多々あります。 しかし、いずれも「山登りそのもの」が目的ではありません。 登山自体をスポーツとして楽しむというのは明治期に西洋から入ってきた文化なのです。

 日本でスポーツ登山を始めたのは外交官たちで、これには外国人の行動範囲を制限しようとする幕府や明治政府に対抗するために、山岳信仰の聖域に立ち入る実績を作る目的もあったようです。 「お雇い外国人」たちも当初は職務上の名目で登山したようで、ゴーランドが北アルプスへ登ったのも「鋳貨のための鉱山調査」が名目だったようです。

 どの山までを「日本アルプス」に含めるかは、当初は一定していなかったようですが、飛騨山脈を「北アルプス」木曽山脈を「中央アルプス」赤石山脈を「南アルプス」と呼ぶ呼び方が定着してからは、この3つを総称して「日本アルプス」と呼ぶ用法が一般的になっています。 この「北/中央/南」の呼び方は、日本山岳会(1905年設立)の初代会長である小島烏水の命名とされています。

参考文献

Wikipedia「アルプス山脈」「ウィリアム・ゴーランド



通算第220回(2015年2月号)

 少し変わったところで「湖南アルプス」について見てみましょう。

第36講:アルプスをめぐって(第11回)

 石山駅前から「アルプス登山口」行きのバスが出ています。 終点まで30分以内に着いてしまいます。 この「アルプス」というのは、大津市田上(たなかみ)地区と甲賀市信楽(しがらき)町の間にある「湖南アルプス」のことです。 最高峰の標高が700mにも満たない山々が「アルプス」を名乗るとは何事だという声もあるのですが、この場合の「アルプス」は「高い山」ではなく「岩山」という意味なのです。

 この山が「岩山」つまり木があまり生えていない「禿山」になったのは人為的な原因であると考えられています。 そして元々の原因は奈良時代にあるという説が有力です。 84年間に及ぶ「奈良時代」は基本的に平城京が都であったという理由でそのように呼ばれていますが、実は頻繁に都が移転していました。 そして、信楽に都があった時期もあります。 現在は奈良に「大仏」がありますが、元々は信楽で作り始めたもので、途中で奈良に都を戻すことになり、作りかけの大仏の資材を持ち運んで作り直したのです。

 この大仏を始めとする奈良時代の建築ラッシュで、信楽に近い田上の山々から材木を過剰に切出した結果「禿山」になったと言われていました。 しかし、最近の研究では、奈良時代の切出しは「きっかけ」に過ぎず、むしろそれ以降に薪炭を無節操に採取し続けたことが、明治に至るまで「禿山」であり続けた理由と考えられているようです。

 明治に入って「お雇い外国人」の指導の元で治水治山事業が進められました。 「砂防ダム」を築き、植林を進めて山の保水力を高めるなどの対策によって、大雨の際の土砂流出を抑えて土石流の発生を防ぎ、さらに下流への雨水の流出も緩慢に起こるようにして洪水被害を防ぐという対策は、現在でも同じ発想で続けられています。

 田上の山々も、もちろん明治の治水事業の対象になりました。 花崗岩質の崩れやすい岩山も100年以上をかけて、何とか「山林」っぽくなってきています。

 砂防ダムというのは、土砂が崩れにくい地形に変えていくという役割を果しながら地面の下に埋まって行ってしまうのですが、明治時代に田上に作られた砂防ダムの一部は地上に残っています。 コンクリート製でない石積みのダムは「オランダ堰堤」と呼ばれてハイキングコースの目標地点になっています。



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