「くるみ割り人形」はチャイコフスキーの「3大バレエ」に数えられます。 ちなみに他の2つは「白鳥の湖」と「眠れる森の美女」です。 いずれも演奏会用組曲でも有名ですが、「くるみ割り人形」のみは作曲者自身が作成したものであるため、組曲に種々の流儀が存在するということが無いようです。
「くるみ割り人形」というもの、というか「くるみ割り」というもの自体、日本ではそれほど馴染みがあるものではないかもしれません。 名前の通り、胡桃などの堅い殻を割って中身を食べられるようにするための道具で、単純にペンチのような形をしているものも当然あるわけですが、それを人形の形にしたものが「くるみ割り人形」です。 ドイツあたりで遅くとも16世紀には伝統工芸品として確立していたようで、人形が顎で胡桃を砕く形になっているのが多いようです。
バレエに出てくる「くるみ割り人形」は兵士ですが、この「兵士」というのは定番になっているようです。 他に王様や憲兵などのパターンもあるようですが、いずれにしても、このような普段なら頭が上がらない存在にくるみ割りの労働をさせるという「うさ晴らし」であるというのが定説になっているようです。 19世紀ごろの風刺画でも、悪役は「くるみ割り人形」というのが多かったようです。
ちなみにバレエ「くるみ割り人形」の原題は「Щелкунчик(shelkunchik)」英訳は「The Nutcrucker」で、いずれも単に「くるみ割り」という意味で「人形」という言葉は含まれていません。 元になった童話「くるみ割り人形とねずみの王様」も原題(ドイツ語)は「Nußknacker und MauseKönig」で、やはり「人形」という言葉はありません。 単に「くるみ割り」と呼ぶだけで人形をすぐに連想できるほどヨーロッパでは普及しているということなのかもしれません。
Wikipedia「くるみ割り」「くるみ割り人形とねずみの王様」
通常、バレエやオペラの音楽は多数の曲目の集合体ですが、その中から何曲か選び出して演奏会向けの「組曲」の形にまとめられることがあります。組曲化が行われる経緯も様々です。例えば人気の出たバレエやオペラの音楽が、後で組曲化される場合があります。この場合には、作曲者の死後に別人の手で組曲化される場合も少なくなく、同じ演目に対して何種類ものバージョンの組曲が存在したり、別の演目のために同じ作曲者が作った音楽が入ったりすることもあります。一方、バレエやオペラの公開前に発表される組曲もあります。これは例えば事前宣伝のためなのですが、中にはバレエやオペラの上演にトラブルがあったり作曲者の意に反する改変が加えられたりして、業を煮やした作曲者が先に音楽だけ発表してしまうというキナ臭い事情の場合もあるようです。
「くるみ割り人形」については、バレエ音楽の準備で手一杯の作曲者の元に新曲の依頼が来て、手が回らないので制作中のバレエ音楽で間に合わせたという事情があったようです。もちろん、事前宣伝も兼ねていたのでしょう。そういうわけなので、組曲とバレエ音楽との間に構成や編成などの大きな齟齬が見られない作品の1つです。
とはいえ、バレエと演奏会とでは、曲目や曲順の選択に関わる都合の違いがありますから、どうしても齟齬が生じます。「くるみ割り人形」の組曲では、演奏会向きの曲目を選択するということを徹底した結果、バレエの背景にある「物語」を全く追えない選曲になってしまっているという問題があります。これは「物語」自体の構成の結果でもあるのですが、そのことは次回以降で詳しく見てみることにしたいと思います。なお、今回の演奏会では、組曲に選定されていない曲目からも何曲か選んで、「物語」をある程度追える構成にする予定になっています。
「くるみ割り人形」のバレエは2幕で構成されています。ところが「物語」として展開するのは主に第1幕のみです。その一方で、組曲に選定されている有名な曲は、第1幕冒頭の「物語」が始まったばかりの部分と第2幕とで使われるもののみです。つまり、組曲には「物語」を進めない曲ばかり選定されているのです。
このようなことになってしまう理由は、突き詰めれば「物語」の内容自体にあります。主人公の少女クララ(原作ではマリー)がクリスマスプレゼントにもらった「くるみ割り人形」が、実は呪いをかけられた王子だったというのが基本設定です。その人形は兄(弟とする映像化等も多い)が乱暴に扱って壊してしまい、クララは修理してもらって人形用のベットに寝かせてあげました。クララが夜中に起き出して様子を見に行くと、人形の軍隊とネズミの大群が戦っていました。クララの助力で勝利することができた人形は王子の姿となり、クララを雪の国とお菓子の国へ招待します。そして、お菓子の国でお菓子の精たちが歓迎の踊りを繰り広げます。
このストーリーを「バレエ」として構成する立場から考えてみましょう。冒頭のクリスマスパーティーは素直に舞踊で表現できますが、ネズミとの戦いという「物語」として最も魅力的と思える部分は、舞踊には表現しにくく面白くないものになってしまいそうです。実際、初演時にも子供たちがワラワラ出てくる演出(現在でもこの演出は普通に行われているようです)で、「高尚」なバレエを期待していた人たちに不評となり、初演が酷評された理由の1つになったようです。
一方の「お菓子の国」の場面は、多様な登場人物が次々登場して主人公をもてなすわけですから、バレエとしていくらでも膨らませることができます。そして、それは当然のこととして、バレエ音楽としても多様に展開させることができることになります。しかし「物語」としては「次に誰々が出てきて踊りました」というだけです。
そういうわけで、「くるみ割り人形」は「物語」として面白い部分と「バレエ」として面白い部分が見事にズレる作品になったのです。
バレエ後半の第2幕では、くるみ割り人形が自分が王子である国へクララを連れて行きます。原作では「人形の国」と表現されていますが、バレエでは「お菓子の国」です。実際、原作でも、途上の野原が氷砂糖でてきていたり、道がビスタチオとマカロンでできていたり、オレンジエードとレモネードの川がアーモンドミルクの湖に注いでいたり、構成要素がお菓子ばかりです。しかも、巨大な少年に齧られて損傷した建物を修復していて、その修復工事の足場がシナモン棒だったりするなど、お菓子で表現された世界が現実に動いているような様子の描写になっています。人形たち自身もお菓子でできていることを示唆する描写も多々あります。
いずれにしても、原作に登場する人形たちが、そのまま出てきてバレエで踊るわけではありません。バレエではチョコレート・コーヒー・お茶の各々の精が出てきて、その後には踊りの内容で特徴づけられる踊り手たちが登場します。これらを原作の登場人物に強引に対応付けることもできなくはありませんが、素直な対応は無理です。
ただ、お菓子の国の女王が「金平糖の精」であるというのは、原作(ドイツ語版)でくるみ割り人形が自らの国を「konfektburg(コンフェクトブルグ=砂糖菓子の街)」と呼んでいるのに対応しているかもしれません。日本で「金平糖」との訳が定着していますが、元のフランス語は「dragée(ドラジェ)」で砂糖菓子一般を指します。ドイツ語でKonfekt、イタリア語でconfetti、ポルトガル語でconfeitoとなって、これが「金平糖」の語源とされています。女王なら街そのものだというわけですね。
原作の日本語訳は下記が出版されています。出版社が倒産しているものもあります。
《ドイツ語版》
『くるみ割り人形とねずみの王様』 種村季弘訳、河出文庫、1995年 ISBN 4-309-46145-X
『クルミわりとネズミの王さま』 上田真而子訳、岩波少年文庫、2000年 ISBN 4-00-114075-6
《フランス語版》
『くるみ割り人形』 小倉重夫訳、東京音楽社、1991年 ISBN 4-88564-205-1
組曲は「花のワルツ」で終わっています。今回の演奏会でも最後とする予定です。音楽的には最後にふさわしい曲です。しかし、バレエはその後もずっと続きます。
バレエでは、一般論として「主役級の男女の踊り手による踊り」がメインです。これを「pas de deux(パ・ド・ドゥ)」(直訳すると「step of two」つまり「2人のステップ」)と呼びます。その中でも特に形式を整えたものを「grand pas de deux(グラン・パ・ド・ドゥ)」と呼び、まず2人揃ってゆっくりした踊りを披露し、そのあと男性のソロ、女性のソロと続いて、最後に再び2人が揃ってテンポの速い踊りで高度なテクニックを披露することになっています。
「くるみ割り人形」で踊りの主役になるのは、くるみ割り人形であった王子とお菓子の国の女王です。女王は「金平糖の精」ですから、実は「金平糖の踊り」というのは「grand pas de deux」の3曲目である女性ソロなんですね。バレエの進行としては、多様な登場人物が次々と踊りを披露し、そのあと全員登場して「花のワルツ」となった後に、メインとしての「grand pas de deux」が来ます。
ということで、組曲を構成する曲をバレエの順序に並べると、「花のワルツ」の後に「金平糖の踊り」が来るという、何とも締まりの無い形になってしまいます。もちろん、これは組曲に含まれない曲を演奏しないから変なことになってしまうということなのですが、「踊り」を重視するか「ストーリー」を重視するかという選択の問題だとも言えるでしょう。「くるみ割り人形」は3大バレエの他の2作品と違って「主役級の男女が結ばれて解決」というストーリーではないので、「踊り」としてのメインとストーリー上の締めくくりが巧く対応しないということでもあります。
第3回で述べたように「くるみ割り人形」の組曲は専らバレエの第2幕で使われる曲目から構成されており、最初の2曲のみが全体の冒頭あたりで使われる曲です。つまり、第1幕の主な部分で使われる曲は採用されていません。しかも「物語」が展開するのは専らこの部分です。つまり、組曲には「物語」として重要な部分が含まれていません。
今回の演奏会では、この第1幕の「物語」が特に緊迫する重要な部分の曲も演奏します。物語として緊迫する場面ということは音楽的にも緊迫する場面で面白いからです。
とはいえ、バレエ第1幕の「物語」は原作やフランス語訳に比べてかなり簡略化されています。そこでとりあえず、バレエの方の物語を簡単に見ておきましょう。
少女クララはクリスマスプレゼントに胡桃割り人形をもらいますが、兄弟(原作では兄だが弟としている映像作品も多い)との取り合い(原作では兄による酷使)で壊してしまいます。クララは人形用のベッドに壊れた人形を寝かしてあげます。
夜中になって心配で眠れないクララが様子を見に行くと、胡桃割り人形が率いる人形の兵隊がハツカネズミの大群と戦っていました。戦争は人形軍の不利に推移し、ネズミの王様と胡桃割り人形との一騎討ちになります。クララが思わずスリッパを投げつけて人形に加勢した結果、人形側の勝利となります。そして、胡桃割り人形は美しい王子の姿に変わり、クララを「お菓子の国」(原作では「人形の国」)に招待します。
バレエの第1幕第1場の後半は、以上のような単純なストーリーです。しかし、原作はもっと複雑で、クララの加勢でネズミの攻勢が収まるわけではなく、さらにネズミとの駆け引きが続きます。また、その背景にはさらに因縁話がありました。そのあたりについては、次回に見てみたいと思います。
前回も述べたように、バレエでは戦いを簡単に終わらせていますが、原作では随分と紆余曲折があります。 最初の戦いでマリー(バレエのクララ)が履物を投げつけて人形に加勢するのは同じですが、それで人形軍の勝利確定ではなく、単に撃退に成功しただけです。 そして、その時点では「一騎討ち」ではありませんでした。
最初の戦いのとき、マリーは棚の扉に倒れ込んでしまい、ガラスで怪我をして、自室のベッドで1週間ほど療養していました。 その間にマリーは周囲の大人たちに戦いの様子を語りますが、夢を見たんだろうと相手にされません。
起き上がれるようになり人形の様子を見に行ったマリーに、ネズミの王が脅迫する声が聞こえてきます。 くるみ割り人形を喰い殺されたくなければ、金平糖とケーキを寄越せというのです。 そしてその次には砂糖人形とビスケット人形を要求されます。
ネズミに喰い荒らされる被害は大人たちの目にも明らかだったので、ベーコンを使ったネズミ捕りを仕掛けます。 しかし、ネズミの王は罠を見破り、絵本やドレスを要求します。 困り果てたマリーに、くるみ割り人形の声が聞こえてきました。 ネズミの王と戦うための立派な剣があれば、自分が何とかするというのです。
人形軍の中心である軽騎兵は、以前から兄のフリッツが「練兵」をして遊んでいました。 マリーに経緯を聞いたフリッツは改めて兵たちを訓示し、退役した老小佐から剣を提出させて、くるみ割り人形に与えることにしました。
次の夜、マリーは決闘が行われる物音を聞き、その後くるみ割り人形からネズミの王との一騎討ちで見事に討ち果したとの報告を聞きます。 そして、立派な王子の姿となってマリーを「人形の国(お菓子の国)」へ連れて行く展開になるわけです。
ところでこの戦いの背景にはさらに因縁話があって、それはマリーが療養している間に語られるのですが、それは次回以降に見て行きたいと思います。
ホフマンの文章は、例えば登場人物が普通の人間だと思っていたら実は違ったというような形で、読んでいるうちに意味不明になってしまうものが多いのですが、この因縁話はその典型です。 その内容は以下のようなものです。
ピルリパータ王女は生まれつき歯が揃っていました(後の描写で王女自身が胡桃割人形として描写される)。 王女が生まれる前、王が祝賀のためにソーセージを作らせていたところ、ネズミの女王が材料の脂肉を少し分けてくれとやって来て、結局一族で大半を食べてしまいました。 怒った王は大規模なネズミ退治を行い、逃れた女王は復讐を予告して去りました。 母の王妃は復讐を警戒し、乳母たちに猫を抱いて見張らせていたのですが、女王は隙をついて王女に噛み付き、醜い姿にしてしまいました。
ネズミ捕りを作った職人ドロッセルマイヤーは王に責任を押し付けられ、城の天文学者と協力して星を読んで王女を元に戻す方法を見出しました。 そして、そのために必要な「とんでもなく堅い胡桃」と「その胡桃を割ることができる、一度も髭を剃ったことがなく常に長靴を履いている若者」を見つけるために世界中を旅して回ったのですが、見つけられないまま期限(王女の15歳の誕生日)の3日前に戻ってきました。
その後、故郷へ戻って弟を訪ねたところ問題の胡桃があり、その弟の息子(つまり甥)が「若者」の条件を満たしていました。 彼は「王女の目前で胡桃を割り、目を閉じたままよろけずに7歩下がる」という条件を達成しますが、そのとき足元に顔を出したネズミの女王を踏み殺してしまい、同時に醜い姿の胡桃割人形になってしまいました。
天文学者は再び星を読み、元に戻るには軍の指揮官として女王の息子である7つの頭を持つネズミの王を倒し、さらに美女が彼に恋をする必要があると結論しました。
以上の話を聞いたマリーは、ネズミ軍と戦っていた人形こそがドロッセルマイヤーの甥だと信じ、彼を助けねばならないと考えます。
「くるみ割り人形」の物語は「子供が見た夢のような話」ですから、結末の持っていき方についても「夢のような話のまま終わる」方法と「夢から醒めて終わる」方法とが考えられます。 実際、バレエではいずれの演出が採用された例も存在するようです。
実のところ、ホフマンの原作は「夢だったのか現実だったのか結局よく判らない」結末なので、どちらでも構わないのかもしれません。 元々ホフマンの文章は「客観的記述なのか比喩表現なのか判らない」表現が続いて、読んでいるうちに訳が解らなくなってしまい、そのまま終わってしまうようなところがあります。
原作では、王子の姿になったくるみ割り人形に連れられて人形の国(お菓子の国)へ行ったマリー(バレエのクララに相当)は、急に「墜落するような」感覚に襲われ、気がつくと自分の普段のベッドで目覚めていました。 この展開からすると、マリーの人形の国での体験は単なる夢に過ぎないということになるのが自然です。
ところがその後、人形に関わる因縁話を聞かせてくれた伯父のドロッセルマイヤーが「甥」を連れてきます。 しかもこの甥は、因縁話やマリーの夢のような体験に符合する話を語りかけたうえマリーに求婚し、結婚するという結末なのです。
原作ではマリーは7歳という設定なので、結婚の約束ではなく結婚してしまうというのも変な話です。 また、この「甥」についても、本当にくるみ割り人形だったとも解釈できますし、単にドロッセルマイヤーと口裏を合わせただけという解釈も成り立ちます。
また、因縁話に出てくる王女とマリーの関係についても種々の解釈が可能です。 人形の国でマリーは王女と対話しているので、一応は別人です。 しかし、因縁話の中で「甥」は醜い姿になったため王女との結婚の約束を王に反故にされているので、「マリー=王女」でないと因果が合いません。 というわけで、映像作品には「マリーそっくりの王女」という設定にしているものもあるようです。
というわけで、色々な解釈が可能な物語です。 所詮は「夢物語」だと言ってしまえばそれまでですが、それで済ましてしまうのもどうかと思いますし、難しいところですね。