「人魚姫」はハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen:デンマーク語の本来の発音では「nd」が併せて「n」音になり「アナスン」と聞こえる)の童話として有名です。 人魚に関する伝説は世界各地にあるようですが、童話のストーリーはアンデルセンのオリジナルで、元ネタといえるものは無いようです。 ただ、人魚が人と結婚することにより「不死の魂」を獲得できるというアイディアには元ネタがあることを本人が証言しています。
原題「Den lille Havfrue」は英語に逐語訳すると「The little Mermaid」となります。 ただし、定冠詞「the」に当たるものは名詞単独の場合には語尾についていて、形容詞で修飾されると前に出てくるようです。 「havfrue」や「marmaid」は「hav+frue」や「mer+maid」と分解できる言葉で「海+女」という意味です。 ところが、ドイツ語訳の「Die Seejungfrau」だと「lille」が「jung」(英語のyoung)になっていて、しかも「see(海)」と「frau(女)」の間に挟まっている形で、少々説明的な印象があります。 ドイツ語らしいと言えば言えるかもしれません。
「havfrue」や「mermaid」には男性形「havmand」や「merman」があります。 一方の「人魚」という日本語は男女を問わない語彙ですから「姫」をつける必要があるわけです。 日本の古い伝説では「人魚」は「人面魚」の形態であることが多かったようですが、江戸時代後期にはヨーロッパと同様に上半身全体が人の形をしている描写が多くなったようで、それには蘭学者たちによる西洋文化の受容が影響しているという説もあります。 その背景には、人魚には薬効があるという考えが古くからあり、蘭学というものが主に医学として受容されていたということがあるかもしれません。
前回も述べたように「人魚姫」のストーリーは直接の元ネタが無いアンデルセンのオリジナルと考えられています。 そして、その元になったのはアンデルセン自身の失恋体験であるというのが定説になっているようです。
アンデルセンは70歳で病死していますが、生涯独身でした。 その一方で生涯にわたって「恋多き男」であったとされています。 初恋とされているのが24歳のときで、ずいぶん遅咲きの初恋ということになります。 相手は同級生の姉、とはいっても1歳年下の女性です。 11歳で父親を亡くして苦労の末に後援者を得たアンデルセンは、少し年を喰ってから大学に進学しているのです。 熱心に詩やラブレターを送っていたことが知られていますが、積極的にあからさまな求愛はしなかったようです。 相手の女性も、まんざらではない様子だったとされていますが、結局彼女は現実的な結婚をしてしまいました。
そのあと、大学進学も援助してくれた後援者の娘に恋をします。 しかし、この身分違いの恋が周囲に認められないまま彼女は婚約、傷心のアンデルセンは後援者の勧めで、フランス、スイス、イタリアなどヨーロッパ各地を巡る旅をします。 この旅の経験はアンデルセン自身のその後に重要な意味があったと考えられており、この直後に発表した作品は実際に彼の出世作になっています。 そして「人魚姫」の成立にも、以上の2つの失恋が重要であったと考えられているようです。
人魚姫の「人魚」という形態、つまり脚を開けない形であるということは、処女の暗喩であるという説があります。 さらに進んで、脚を得た人魚姫が歩くたびに痛みを感じるのは処女喪失を意味しているという説もあります。 その是非はともかくとして、叶わない恋、しかも「伝えられない」恋というモチーフが作者自身の失恋体験に基づくという理解は、それなりの説得力があるものと言えるかもしれません。
Wikipedia「人魚姫」「人魚」
https://ameblo.jp/fouche1792/entry-10004594456.html
https://zatsugaku-company.com/andersen/
「人魚」というと上半身が人間の女性で下半身が魚という「人魚姫」をイメージすることが多いと思います。 もちろん、これは近代以降の西欧で確立したイメージで、世界各地の「人魚」に相当する存在のイメージは様々です。 「魚」というものの形態的特徴を考えると、やはり尾鰭が特徴的ですから、ほとんどが下半身が魚という形態になっています。 しかし、上半身全体ではなく顔だけが人間という「人面魚」の形態であることが、特に東洋では多いようです。
西欧での人魚のイメージの源流と位置付けることができるのはギリシャ神話の「セイレーン」(サイレンの語源)でしょう。 美しい歌声で航行者を惑わせ遭難させる魔者で、古くは下半身が鳥だったのが魚に変わっていったようです。 中欧の「ローレライ」などもその流れを組むと考えられます。 16世紀の大航海時代以降、世界各地の動植物や鉱物を探索していた博物学者たちは、多数の人魚を遠望し、あるいは伝承を聞き取って記述しました。 その正体をジュゴンやマナティとする説が有名ですが、全ての人魚をこれで説明するのは無理があるようです。
人魚は異類婚姻譚(「鶴の恩返し」のような、人間が人間ではない存在と結婚する説話)に登場する事例も多いようです。 禁を犯して姿を見ると下半身が魚に戻っていた、生まれた子供に鱗や水掻きがある、男の人魚に拉致されて妻とされた人間の女性が小島にいるところを目撃される、などのパターンがみられます。
人魚の体には薬効(主に「不老長寿」)があると考えられることも多いようです。 例えば、八百比丘尼(やおびくに・はっぴゃくびくに)伝説は、人魚の肉を食したことで不老長寿になったとするものが代表的です。 江戸時代の日本では、人魚の骨と称するものが止血などに効く薬「へいしむれる」(「婦人魚」を意味するスペイン語が語源とされる)として長崎貿易などで実際に取り引きされていたようです。
Wikipedia「人魚」