作曲者が「こうしたい」という意図は楽譜上でしか表現できません。 そして、この意図は個々のパート譜だけからでは見えにくいもので、他のパートと比較して初めて読み取れることが多いのです。 つまり、パート譜よりもスコアを見る方が、遥かに読み取りやすいということになります。 「スコアを読む」というのは、そういうことです。
作曲者は無理をしてでも何とかして自分の意図を楽譜で伝えようとしますから、時々妙な現象が起こります。 例えば、楽譜の書き方から作曲者の意図は明白に解るけれども、楽譜通りに演奏しても、その意図は実現不可能だろうという事例も多いのです。 あるいは、楽譜に書いていないことを演奏者が無意識にするだろうと見越した上で、それを打ち消すために、一見矛盾した指示を楽譜中に施すこともあります。 こうなってくると、作曲者が本気なのかどうかさえ微妙になってきますから、意図して書いたのか単なる書き誤り(誤植)なのかという判断に迷うことも珍しくありません。
アルメニアンダンスも、スコアに作曲者の意図が見える部分が多い曲の1つです。 簡単な例としては、PART Iの最後の曲「行け、行け」の冒頭の「打込み1発」(小節番号224)があります。 この部分、直前からの続きをそこで終えるパートを別にすると、本当に音が1つだけか、装飾音が付いているか、どちらかです。 これを全員での「打込み1発」に聞こえさせねばならないところですが、2種類のパートで適度に異なる演奏をせなばならないという難しさがあります。 作曲者は、この2種類のパートに異なる強弱記号を指示しています。 本当に1つだけのパートは、装飾音付きのパートはです。 作曲者が何を考えているのかは大体想像がつくところですが、指示通りに演奏すれば本当に巧く行くかといえば、大いに疑問ですね。
先へ進んで小節番号272からの部分では、→→→と盛り上がって行って、その間に逐一cresc.の指示があります。 その直後の小節番号268からの似たような部分では、最初はcresc.の指示が無く、最後にcresc. moltoで一気に盛り上げよという指示になっています。 ところが、不思議なことに、最初から演奏しているパートはから始まっているのに、cresc. moltoのところで入ってくるパートは、いきなりなんですね。 これを、cresc.が無くても自然に強奏になってしまうことを見越した指示と見るか、後から入るパートだけを強奏にさせて音色の変化を強調する意図と見るか、単なる作曲者の勘違いと見るか、難しいところですね。