琵琶湖の「水位ゼロ」はどうやって決められたか?

 渇水や洪水の度に近畿一円の注目を浴びる「琵琶湖の水位」ですが、そもそも、どういう基準で「水位ゼロ」(正式にはB.S.L.「琵琶湖基準水位」と呼びます)を決めたんだろうって思ったことはありませんか?

 実は、私自身、琵琶湖博物館の職員になって以来ずっと疑問だったんですが、どの文献を見ても「B.S.L.を基準に表現している」と言うだけで、「B.S.L.自体の意味」について解説している文献には全く行き当たることがありませんでした。

 そんなある日、同僚の土木技師(琵琶湖博物館には、県庁の土木部河港課で県が発注する土木工事に関する事務を担当している技術職員が概ね3年交替で派遣されてきて、治水利水に関する専門分野を担当しています)と別件で話をしていてフト思いつき、この疑問をブツけてみました。

 その結果、判明したことは、なんとB.S.L.は1874(明治7)年に鳥居川の観測点に

適当に打った目盛り位置
に過ぎないという、驚くべき事実でした^_^;

 考えてみれば、当時はまだ日本全国の正確な標高なんて測定されていないわけですし、「琵琶湖の水位を管理する」という目的を達成するには、

一度決めた基準を決して動かさないことさえ守れば
充分で、どのように基準を決めても支障は無いのです。 他の基準に基づく標高と比較する必要が生じた場合には、基準同志の比較測量を行って換算すれば良いのです。

 ちなみに、国土地理院のページにある年表によると、全国統一規格で「一等水準測量」を始めたのが1883(明治16)年で、それに先立って近代水準測量を東京―塩釜間で実施したのが1876(明治9)年ということですから、いずれにしてもB.S.L.決定以後の話ですね。

 なお、いわゆる「地形図に記載されている標高」の基準である「T.P.」(東京湾中等潮位)を定める根拠となった東京湾霊岸島での潮位観測が終ったのは1879(明治12)年12月31日ですし、それに基づいてT.P.を決定したのが1884(明治17)年、「日本水準原点」が設置されたのは1891(明治24)年です。

 もちろん、それ以前にも 各地で暫定的な基準に基づいた水準測量が行われていました。 近畿地方では「O.P.」(大阪湾平均干潮位)が使われました。 T.P.決定以降も、しばらくは各地の暫定基準が使われていたようですが、順次そのT.P.に基づく標高に置き換えられていきました。 暫定基準とT.P.とを比較測量した結果を利用して換算した場合と、改めて測量し直した場合とがあったようです。

 現在では、

B.S.L.=O.P. + 85.614m
=T.P. + 84.371m
と“定義”されています。 元々は「既に決まっていた」B.S.L.をO.P.やT.P.と比較測量してみたら、それだけの差があったということです。 しかし、一旦この観測結果に基づいて“定義”したからには、こちらの“定義”が優先されます。 例えば後になって比較測量に誤差があったことが明らかになったり、もっと精度の細かい測定に成功したりした場合には、現場のB.S.L.の目盛を、上の“定義”に合うよう修正することになります。 (現在O.P.はマトモに管理されていないので、現実的に有効な“定義”はT.P.に基づくものです。 T.P.とO.P.の差が1.243mというのも、B.S.L.との比較測量結果が偶々そうだっただけで、一般的にこの値に確定しているわけではありません。 例えば大阪市内の地下街の防災計画では1.0455mという差で“O.P.を定義”しているようです。 なお、どうしても不都合な理由があれば、現場のB.S.L.の目盛に合うよう“定義”を修正することも可能ですが、手順が厄介なことになります。)




 「適当に打った目盛」とはいえ、一応の根拠はあったようで、どうやら1874(明治7)年の段階で

「これ以上水位が下がることは無いだろう」と判断したあたり
に設定したようです。 しかし、琵琶湖の水位は当時よりも低下しています。 それでも測定基準であるB.S.L.は、もちろん不変ですから、最初にB.S.L.を決めたときの心積もりが無効になってしまったわけです。

 水位が下がり始めた最初の理由は、瀬田川の改修が進んだことです。 南郷洗堰(現在の瀬田川洗堰の先代)が完成した1904(明治37)年ごろに並行して瀬田川の浚渫が行われ、瀬田川の疎通力が一気に4倍に増加しました。 出る量が増えれば琵琶湖の水位が下がるのは当然で、それまで水位がマイナスになることは全く無かったのに、年間最低水位がマイナスというのが珍しくなくなってしまったのです。

 さらに、水位を下げてもっと水を利用したいとか、干潟を作って耕地として利用したいとかいう要望はずっとあったようです。 これには賛否両論あったようなのですが、太平洋戦争に向けて食糧増産と工業増産を優先する立場から、1943(昭和18)年からの「河水統制事業」で“平均水位をB.S.L.±0cmにする”ことになりました。 「±0cm」としたのは、キリが良くて説得力があったからかもしれませんね。

 実は、南郷洗堰完成から河水統制事業までの30年余りの間にも、全体として平均水位が微妙に下がっていく傾向がありました。 何か人為的な理由があったのか、偶々渇水が後半に集中しただけなのか、そのあたりはよくわかりません。

 河水統制事業は戦争のドタバタで済し崩しになってしまいましたが、“平均水位をB.S.L.±0cmにする”方針は残りました。 そして、現在では琵琶湖総合開発が始まった1972(昭和47)年に決められた、「渇水でも洪水でも無いときの満水位」を概ねB.S.L.あたりに設定するという方針で調節されています。 「平均水位」から「満水位」に変わったので、琵琶湖の水位は、さらに微妙に(20cm程度)下がったわけです。 結局のところ、

現代的感覚では「水位ゼロ」は概ね「満水位」に等しい
と考えて構わないわけです。

 ちなみに、現行の「満水位」の厳密な値は、

6月10日〜8月31日B.S.L. - 0.2m (洪水期制限水位)
9月1日〜10月15日B.S.L. - 0.3m
10月16日〜6月9日B.S.L. + 0.3m (常時満水位)
となっています。 湖岸の諸施設がこの水位を前提に作られているので、全部作り替えない限り、「B.S.L.±0.3m」という基本方針が変更されることはありません。



2000年5月23日初稿/2007年4月12日最終改訂/2017年8月11日ホスト移転

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