京阪電鉄石山坂本線の浜大津〜膳所間は、元々明治初期の官営鉄道建設の際に、東海道本線の一部として作られたもの(1880(M13).7.15.開業)である。 当時、東京から京都・大阪・神戸までの鉄道交通を一刻も早く開通させることが至上命題であり、代替交通手段が存在する区間の建設は後回しにされた。 その典型例が湖上連絡船で代替できる大津(現浜大津)〜長浜間で、その結果、日本初の鉄道連絡船は琵琶湖に就航することとなった。
当時の路線は地形的理由から大津港へ直接入ることができず、馬場(現膳所)で折り返して入っていた。 その後、馬場〜長浜間の鉄道線開通(1889(M22).7.1.)により、馬場〜大津は臨港支線となった。 なお、この当時の東海道本線は京都〜東福寺〜稲荷(現JR奈良線)から現名神高速道路のコースを大回りしながら登って現在より高い位置にある逢坂山トンネルを越えて近江盆地へ入り、本宮交差点(名神高速大津I.C.への分岐)のあたりから現在のルートへ入っており、現大津駅南口の位置には駅は存在しなかった(脚注参照)。
一方、大津電車軌道(後に京阪電鉄に合併)が大津〜膳所(現膳所本町)間を開通(1913(T2).1.1.)させたのだが、この際に大津〜馬場(現京阪膳所)間は官営鉄道(のち国鉄)の線路を借用するという形を取ることになった。 しかし、官鉄は狭軌(軌間1067mm)であり、大津電軌は国際標準軌(軌間1435mm)である。 そこで、レール1本を共用して、反対側のレールは別のものを使用するという3線軌条が誕生することになった。 なお、同年6月1日に「馬場」が「大津」に、「大津」が「浜大津」に各々改称している。 その後、東山トンネルの開通(1921(T10).8.1.)に伴って逢坂山トンネルも作り直されたのを機に現在の大津駅が開業し、馬場改め大津駅は一旦「馬場」に戻って貨物専用駅になった後、1934(S9)9.15.に「膳所」に改称して旅客扱いを再開している。
さて、浜大津〜近江今津間の江若鉄道が順次開業(1923(T10)〜1931(S6))した。 江若鉄道は官鉄と同じ狭軌だったので、浜大津〜膳所間の官鉄線を利用して膳所まで乗り入れ運転を行った。 しかし、国鉄湖西線の建設に伴って江若鉄道は廃止(1969(S44).11.1.)となり、浜大津〜膳所間の国鉄線は休止(のち廃止)され、1976(S51)年には3線軌条も1本取り除かれて普通の線路になったのである。 なお、国鉄清算事業団から京阪電鉄に敷地が譲渡され、晴れて正式に「京阪の線路」になったのは1991(H3)年である。
以上の経過は種々の資料から知ることができる。 そして、少なくとも廃止直前には京阪電鉄は複線で国鉄は単線だったこと、言い換えると、3線軌条が複線の一方のみだったことも多くの資料にある。 ところが、その3線軌条が湖側(南行=石山方面行き)の線路だったのか山側(北行=坂本方面行き)の線路だったのかを記す資料はなかなか発見できず、議論の的になっていた。
そんな中(1997.10.10.〜1998.2.1.)、琵琶湖博物館で「私とあなたの琵琶湖アルバム」と称する企画展示が開催された。 これは、奇しくもこの企画展示終了直後に逝去した前野隆資氏が撮影していたものを中心とする「何気ない生活風景の写真」を現在と比較することで、30〜40年前の高度経済成長以前の社会を振り返ろうというものである。
企画展終了後、筆者は何気なくこの企画展の図録を眺めていて、ふと前野氏撮影の1枚の写真が目に止まった。 それは、大津警察署屋上から浜大津方面を望んで、建設中の湖岸道路を撮影したものである。 京阪電鉄の浜大津〜石場間の線路は、現在は湖岸からかなり離れているが、元々は湖岸ギリギリに敷設されたものである。 現在の地形はその後の埋め立ての結果であり、湖岸道路やその湖側にあるNHK大津支局や大津中央郵便局などの建物は埋め立て後にできたものである。 従って、この写真には石場駅付近の線路がバッチリ写っている。 当時(1957(S32).8.27.)はもちろん江若鉄道健在である。ということは……
そこで、Photo-CDに入力されていたこの写真の線路部分を拡大してみたところ、3線軌条は湖側というのが正解だったことが明らかになった。 膳所駅付近の線路形状もこの説を支持しているように思える。
そういうわけで、これで問題解決と思っていたら、それを覆すような資料に行き当たってしまった。 1998(平成10)年8月4日から30日まで、大津市歴史博物館で開催された、市制100周年記念企画展「大津の鉄道百科展」で出展された京阪電鉄提供の「石場駅付近の3本レール」の写真(図録p.37)では、3線軌条の湖側と思われる側にもう1本の線路が写っているのである。 これはどういうことだろう?
まず、この写真は露光過剰で背景がよく見えないので、「実は背景は湖ではなく、内陸側の舟溜まりである」という可能性を考えてみた。 しかし、背景が露光過剰になるのは、やはり湖が写っているからだろうし、3線軌条の共有レールが山側であるという意味でも上の写真と一致しているので、この可能性は無さそうに思える。
問題の写真をよく見てみると、山側の3線軌条に居る電車の集電ポールが浜大津側へ伸びているようにも見える。もしそれが正しければ、この電車は浜大津の方から来た電車である。 行先表示が「石山」と読み取れることも、この説を支持する。 となると、それよりも湖側の線路は、本線ではなく駅構内の側線であるという可能性が考えられる。 つまり、
と、ここまで考察してWWWに掲載しておいたところ、当の企画展を担当した大津歴博の学芸員からメールで情報をいただいた。 (情報提供に際して、改めて資料を調べ直していただいたそうである。多謝!) 概略を紹介すると、
以上の考察により、石場駅構内だけに着目すれば、元々山側に3線軌条がある形だったのが、後に湖側に3線軌条がある形に変わったことが判明した。 では、この両者の位置関係はどうなのだろうか?
用地確保の手間から考えると、2本の線路全体の位置はそのままで、3線軌条を山側から湖側へ移した可能性が高そうに思える。 しかし、用地確保は浜大津〜膳所間全体に渡って行われたハズで、そのついでに石場駅の山側も用地を確保したかもしれない。 その場合には、3線軌条はそのままで、元の側線と反対側に複線の北行線路を敷設した可能性もある。 上述した「石場駅の側線が一旦無くなっていた可能性」も考え合わせると、何とも結論は出し辛い問題である。
単純に考えれば、複線化用地は湖側の誰も住んでいない側の方が確保しやすいように思える。 そして、その新しい用地に新線(=3線軌条でない線)を建設したら、廃止時の状況とは逆に「山側が3線」になる。 一体どういう経緯で「湖側が3線」になったのだろうか?
仮に、標準軌路線が当初から複線だったとすれば、
実は、浜大津〜膳所間が「東海道本線」として開業した当初から複線分の用地が確保されていたという情報もある。 これが正しいとすると、開業時はまだまだ鉄道そのものへの拒否反応も残っている時代であるし、火の粉が飛んできて火事になる危惧も強く意識されていたから、複線分用地の湖側(つまり人家から遠い側)に線路を敷設しただろう。 その結果、新線(=3線軌条でない線)が山側に建設されて「湖側が3線」になり、辻褄が合う。
もちろん、これは「こう考えれば矛盾しない」という仮説に過ぎない。 確実なことが言える根拠は、今のところ手元には無い。
1965(昭和40)年に開通した名神高速道路は、山科盆地を横切る部分で旧東海道線の「築堤」を利用している。 この築堤は、京都側から逢坂越にとりかかる場合に、稲荷山を回り込んで山科盆地へ入る際に少し坂を登って稼いだ標高を利用して少しでも登坂を楽にする(築堤を作らずに盆地の底へ降りてしまうと、再度同じ標高を登り直さねばならなくなる)ために作られたと考えられる。
この築堤は、あまりにも巨大だったためか、東海道線が現在のルートになった後も約40年間放置される結果になった。 なお、この築堤以外の部分では、旧東海道線と名神高速道路はよく似たルートを通っているが、完全には一致しない。 盆地西側の峠道は名神高速道路の南に、盆地東側の山裾部分は名神高速道路の西に、各々隣接並行するバス道が線路跡である。
逢坂越から旧大津駅(現膳所駅)へ向かう部分は、国道1号になっている。 現大津駅南側の国道1号は勾配一定の直線になっているが、これは鉄道線路の特徴である。 そして、京都側からこの直線部分を走ると突き当たりにホテルが見える(道路は緩く右にカーブしている)が、これは、このホテルが国道と現線路の間で未利用地として取り残された廃線跡に立地しているからである。