「小南部領の青森県への編入」に関する事実関係

 賞罰的県名説は司馬遼太郎『街道をゆく』連載第68回『野辺地湾』での言及によって広く知られるようになったとされている。 『野辺地湾』は、八戸から青森方面へ向かう途上の海岸沿いで南部領と津軽領との境界を示す塚を見つけたという内容である。 その中で、明治政府が賊軍の南部に対する「いやがらせ」として「八戸の小南部領だけハサミで切りとって津軽へもってゆき、青森県をつくった」とし、それについて「南部藩は賊軍であったという好悪の感情でもって、小南部八戸の地をうむをいわせず青森県へほうりこんでしまった」と論じている。 そして、その類例にあたる全国的な方向性として賞罰的県名説に言及している。

 しかし、司馬のこの認識は全くの誤りである。

もちろん、「敗者に対する処罰」自体の是非は問題である(筆者としても賛成できない)が、歴史的に当然のことと考えられてきたことを実施したまでのことであり、「陰湿ないやがらせ」という認識が誤っていることに違いは無い。 また、「青森県に編入」というのは実は「編入」という表現に問題があり、実態は「津軽領と小南部領の統合」である。 つまり、津軽領も小南部領と同様に「青森県に編入」されたわけであり、司馬のように青森県を津軽領と同一視するのは誤りである。 以上について順に具体的に見ていこう。

小南部領分離の経緯

 小南部領は「古南部領」とも表記し、南部領の現青森県部分に一致する。 司馬は小南部領のことを「八戸周辺」と表現しているが八戸周辺以北は全て小南部領に属する。 近世を通じて南部家の本拠地は盛岡であるが、歴史を遡ると南部家の発祥の地は小南部領であるとされている。 これに対して盛岡周辺の、主として現岩手県に属する範囲の南部領を「新南部領」と呼ぶ。

 幕末の段階で、小南部領は南から支藩の八戸藩(三戸郡八戸)、同じく支藩の南部新田藩あらため七戸藩(北郡(のち上北郡)七戸)、本藩直轄領飛地(主に後の下北郡)と並んでいた(支藩の一部は新南部領に跨っている)。 戊辰戦争に際して南部家内で旗幟について対立があったこともあり、2つの支藩は列藩同盟に積極的でなかったとして朝敵扱いされず廃藩置県まで存続した。 特に八戸藩は島津家と姻戚関係にあったことも考慮されたようである。

 一方の南部本藩は戊辰戦争の戦後処理(M1.12.17.)で白石へ転封となり、旧領は明治政府の直轄地となった。

 結局、小南部領の分離というのは、南部本藩だけが処罰対象となった結果、支藩が独立した形で残ったというのが本質である。 この支藩に明治政府直轄地の「飛地部分」を併せたのが、後の青森県成立過程で「小南部領」と呼ばれる地域に概ね一致する。

小南部領分離から廃藩置県までの経緯

 白石へ転封となった南部本藩の旧領は、3分割して南から順に松本藩、松代藩、弘前藩の取締となった(M1.12.23.)。 しかし、弘前藩による管理には領民の反対運動が激しく、M2.2.8.には黒羽藩取締に変更になっている。 この背景には豊臣政権期における弘前藩の成立経緯に起因する南部藩との対立が遺恨として幕末まで残っていたということがあるとされており、後に青森県が成立する際にも県内の地域間対立として問題になった。 司馬はこの経緯も念頭にあって事実関係を混乱している可能性が高い。

 南部家からの事務引継(M2.4.24.)以降は松本藩、松代藩、黒羽藩の取締地が各々花巻県、盛岡県、三戸県と呼ばれている。 三戸県は当初「北奥県」と仮に呼ばれていたが、権知県事発令の形跡が無いことから、正式名称にはならなかったと考えられている。

 M2.7.22.に南部家の盛岡への復帰が認められて盛岡藩となるが大幅に減封された結果になった。 M2.8.7には減封された部分のうち盛岡より北の部分が九戸県(M2.9.13.八戸県、M2.9.19.三戸県、なおこの間八戸藩は別に存在)南の部分が江刺県となり、M2.11.28.には江刺県に統合されている。 江刺県への統合は最北部を分離して斗南藩(会津藩の再封)を設置することが前提の処置だったようだが、斗南藩が実際に機能し始めるのはM3.1.5.である。

青森県の成立経緯

 M4.7.14.に廃藩置県が実施された当初、それまでの藩をそのまま県としたため、県域には著しい大小があるうえ、多数の飛地が存在した。 約4ヶ月後のM4.10.28.からM4.11.22.にかけて全国一斉に整理統合しているが、青森県はそれに先立って成立しており、テストケースとして意識されていた可能性も考えられる。 旧津軽領(弘前藩)と旧南部領の地域対立の深刻さは明治政府も認識していたと考えられ、ここで成功するならば全国どこでも大丈夫だろうという計算があったという可能性である。

 館・弘前・黒石・斗南・七戸・八戸の6県を統合したのはM4.9.5.で、当初は弘前に県庁を置いて「弘前県」と称していたが、わずか18日後のM4.9.23.には県庁を青森に移転し「青森県」に改称している。 これには、弘前では県域の西に偏りすぎているので中間点を選んだということもあるだろうが、「弘前」の支配を受けることを小南部領の住民が嫌うだろうという計算もあったものと思われる。 また、津軽本藩である弘前藩や支藩の黒石藩と南部支藩である七戸藩や八戸藩との間に、中立的な立場の斗南藩が存在したことも、統合を穏便に進めるのに役立ったと考えられている。 実際、斗南藩が統合に積極的だったという事実もあるようである。

 なお、館藩(松前藩がM2.6.24.に移転改称)の領域はM5.9.23.に開拓使に移管され、函館県を経て北海道となっている。

付記:陸奥国と陸中国の境界

 明治政府は「国」という単位を結果的には重視しなかったが、当初は未整備部分を補正しようとしていた。 その一環として、M1.12.7.に陸奥国を5分割、出羽国を2分割し、M2.8.15.には北海道に国を設定している。 このとき基本的には小南部領を陸奥国、新南部領を陸中国の所属としたが、新南部領のうち二戸郡のみを陸中国に編入せず陸奥国に残している。 弘前藩(のち黒羽藩)取締ゆえとも考えられるが、同様の鹿角郡は陸中国に編入している。 二戸郡は流域的に小南部領につながることが考慮された可能性も考えられる。 なお、同じく流域的に小南部領につながる海側の九戸郡は陸中国に編入しているが、これは松代藩取締ないし八戸藩領であったことによる可能性が考えられる。

 廃藩置県直後の府県統合で新南部領と小南部領の境界が県境となり二戸郡や九戸郡は岩手県となったが、鹿角郡は秋田県に編入されている。 おそらく流域的に南部領の他の部分から大きく切り離され、むしろ羽後とつながっているからであろう。


2020年10月28日初稿/2020年10月29日最終改訂


戸田孝の雑学資料室へ戻る

Copyright © 2020 by TODA, Takashi