武士は源平の落ちこぼれ?!

 「源氏」「平氏」というと、「武士」というイメージがあると思います。 ところが、「源平」というものの起源を見てみると、武士になった者は全くの「落ちこぼれ」であることが解ります。

 意外と知られていないのですが、後世の「京都の公家」、特に藤原摂関家以外の所謂「下級公家」は、その多くが源氏なのです。 有名なところでは、建武新政で活躍した「千種」「北畠」の各氏や幕末に活躍した「岩倉」氏を挙げることができます。 「源氏長者」の地位も、室町時代初期まで公家の「久我」氏が握っていました。 「源平」の本来の意味からすれば、こちらが正統派なんですね。

「源平」のそもそもの発祥

 「源平」は9世紀にまで遡ることができます。 皇族の一部が臣籍に降りる場合には姓を名乗る必要がありますが、この姓は天皇から下賜されることになっています。 8世紀までは、賜姓が必要になる度に新しい姓氏を考えたようです。 ところが、814年から嵯峨天皇の皇子皇女32人が次々に臣籍降下することになり、面倒くさかったのでしょうか、全員が『源朝臣』姓となりました。 続いて825年から桓武天皇の孫王曽孫王が『平朝臣』姓で臣籍に降り、これが前例となって、以後皇族が臣籍に降りる場合には「源平」のいずれかを名乗ることになったのです。 但し10世紀以降には「平」氏は使われなくなり、「源」氏に統一されます。

 平氏が使われなくなった経緯については、奥富敬之氏が以下のような仮説を提唱しています。

嵯峨天皇のときの賜姓が前例となって、続く仁明・文徳の代には、皇子孫王は「源氏」、曽孫王は「平氏」という使い分けが行われていた。 しかし「平氏」は桓武の業績である「平安遷都」にちなんだ姓だったので、平安遷都の興奮が冷めると共に「平氏」への気運が薄れて、光孝の曽孫王の一部が「平氏」となったのを最後に、全て「源氏」になった。

皇族臣籍降下の理由

 では、「源平」発祥の前提となる「皇族の臣籍降下」が行われた理由は何でしょう? それは、皇室の経済状況だったと言われています。 矢鱈と子供を沢山作って養いきれなくなったから、皇位継承候補者のストックとして必要な分を残して、他の連中は自分で喰いつないで行けということです。

 日本では、皇族は国家が経済的な面倒をみることになっています。 これは律令以来、現在でも同じです。 となると、国家財政に限りがある以上、皇族の人数を無闇に増やすことはできないので、皇室から適宜放り出す必要があるわけです。 放り出されると皇位継承権も無くなります。

 この点、ヨーロッパの王室では、王族だからといって、国家が経済的な面倒をみてくれるとは限りません。 その代わり、経済的に放り出されても継承権は残ります。 それゆえ、イギリス王位継承権第百何十何位という人がアメリカの片田舎で牧場を経営しているなんてことが起るのです。

経済的に放り出された源平のその後

 源氏となった者の中で才覚のある連中は朝廷社会の中で力を持つようになりました。 しかし、最終的には藤原氏との権力闘争に敗れ、一部が下級公家として朝廷社会の中に残るのみとなりました。

 一方では、さっさと京都の朝廷社会に見切りをつけて地方に定着する連中も出てきます。 彼らは、朝廷社会から見れば「落ちこぼれ」ですが、落ちて行った先の連中からみれば「貴種」ですから、それなりの待遇を受けて、それなりの権威を持つことができます。 そして、その中から、現地の社会集団のリーダー、即ち「武士団の棟梁」として実力を蓄える者が出てきたわけです。

「源平」の諸系統

 源氏も平氏も「どの天皇から発祥しているか(先祖をたどって、最初に行き当たる天皇は誰か)」によって「清和源氏」とか「村上源氏」とか「桓武平氏」とか呼びます。

 平氏は上述したように早く廃れたので、桓武・仁明・文徳・光孝の4流しかなく、しかも桓武平氏以外の末裔は全く知られていないようです。 それに対して、源氏は21流あるとされており、複数の系統が多数の末裔を残しています。

 前九年・後三年の役を引き起こした源頼義や源義家から鎌倉幕府を開いた源頼朝に至る系統(室町幕府と江戸幕府の征夷大将軍も、義家の末裔を標榜している)は「清和源氏」とされていますが、これは3〜5代目あたりで経歴詐称が行われた結果で、本当は「陽成源氏」であるというのが、現在では定説になっているようです。 しかし、明治に至るまで一貫して「清和源氏」であると主張し、周囲はもちろんのこと、当事者もそれを信じて行動してきているのですから、事実の如何に関わらず「清和源氏」と呼ぶべきでしょう。

メジャーな系統

 源氏21流・平氏4流の中からメジャーな系統を拾い上げてみましょう。

桓武平氏高望王流

 平安末期に政権を掌握した、いわゆる「源平合戦」における「平家」を輩出した系統です。 平氏として初代にあたる高望王(桓武の曾孫)の段階で既に関東に土着しており、その孫の代での内紛が対朝廷反逆にまで発展してしまったのが、承平天慶の乱の東半分にあたる「平将門の乱」です。

 その後、清和源氏の関東への進出を嫌って伊勢へ移動した系統が平安末期に政権を掌握するわけですが、その他の多くは関東に残りました。 北条・三浦・梶原・土肥・畠山・千葉など、鎌倉幕府黎明期を支えた氏族の多くが、この系統に属します。 また、後世に有名になった氏族としては、長尾・小早川などがあります。

桓武平氏高棟王流

 桓武の孫にあたる高棟王を初代とする系統で、一部の系統は公家として朝廷内に残り、「堂上平氏」と呼ばれるようになりました。 初期の堂上平氏で有名なのが、平清盛の義弟となり「平家にあらずんば人にあらず」の迷言を残した時忠です。 室町期以降には嫡流は「西洞院」氏を名乗り、平松・長谷・交野などの分流があります。

 その他、尾張の神職である佐分(さぶり)氏や、島津家臣団の平田氏・帖佐氏など、堂上平氏とは別系統の高棟王流を称する氏族があります。

嵯峨源氏

 藤原摂関家が権力を確立していく初期段階で姻戚関係を結んで協力しています。 応天門の変では、嵯峨源氏初代のうちの最年長者で「第一源氏」と呼ばれた源信が当初は犯人とされましたが、藤原良房らが黙殺している間に伴善男犯人説が浮上して確定し、良房が初の「人臣摂政」となる布石になりました。

 末裔としては、源融に始まる「第十二源氏」の渡辺氏がメジャーになっています。 渡辺氏の庶流では松浦氏がメジャーです。

仁明源氏

 初代の一人である源光は菅原道真の失脚に関わっており、道真の死後、その怨霊によって藤原時平ともども祟り殺されたとされています。

 また、嵯峨源氏へ養子に入った渡辺綱も有名で、末裔も続いていますが、仁明源氏自身にはメジャーな末裔はないようです。

文徳源氏

 院政の時代に入って、末裔の坂戸氏が北面武士として活躍しています。 建武新政による院政断絶後の消息は明確ではないのですが、応仁の乱で活躍したことが伝えられています。

清和源氏頼光流

 頼光は義家の大伯父にあたり、本来はこちらの方が清和源氏の嫡流です。 源平合戦の契機となった以仁王の反乱を首謀した頼政がこの系統に属します。 土岐・太田・池田・浅野などが出ています。

清和源氏義光流

 義光は義家の弟で、後三年の役で活躍しています。 嫡流は武田氏で、佐竹・平賀・南部・小笠原・松前・柳沢などが出ています。

清和源氏義国流

 要するに、新田足利のことです。末裔は多過ぎるので省略します。 ちなみに義国は義家の子で、頼朝の叔曽祖父(親の大叔父)にあたります。

 なお、江戸幕府の将軍である徳川氏も、末裔ということになっています。 おそらく事実ではないと考えられていますが、そのことは実は重要ではありません。 重要なのは、本気で「末裔である」と主張し、世間がそれを認定したことを前提に征夷大将軍になったという事実です。

宇多源氏

 佐々木氏が武士としてメジャーになった他は、文章道を世襲した五辻氏の系統(源実朝暗殺の巻き添えを喰った源仲章など)や、芸能を世襲した綾小路氏などの系統が公家として残っています。 佐々木氏からは六角・京極・尼子・黒田などが出ています。

醍醐源氏

 藤原摂関家が権力を確立していく最後の段階で有力な対立者となった源高明がこの系統です。 陰陽師ブームで有名になった雅楽の名手源博雅も醍醐源氏で、高明の甥にあたります。

 その後、系統としてメジャーな末裔は無いようですが、高明の末裔に鳥獣戯画で有名な鳥羽僧正覚猷が居ますし、織田信長に仕えた河尻氏など、醍醐源氏の末裔を称する系統は多数あります。

村上源氏

 久我・久世・岩倉・北畠・千種・中院などの公家として残っています。 南北朝時代に活躍した名和氏と赤松氏もこの系統です。 ちなみに、村上源氏が公家として多く残った背景には、最初の数代が摂関家との対抗を目指した院政と結びついたことがあるようです。

花山源氏

 一般にはあまり有名ではありませんが、明治まで神祇伯を世襲した白川家がこの系統です。

院政期以降の源氏

 源氏21流のうち前半の10流(嵯峨・仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・冷泉)は、同じような事情で発祥したものですが、その後は変わってきます。 それは、多過ぎる皇族を「門跡」(法親王)という形で「僧籍」に放り出す例が多くなったということです。 院政の時代(11世紀末から)になって天皇家(というより「院」)が荘園領主として経済的に豊かになったことも、「源氏」の発祥を不要にしていきました。

 過渡期の3流(花山・三条・後三条)では「皇籍残留・源氏・僧籍」の三者択一が行われていたようですが、その後の8流(後白河・順徳・後嵯峨・後深草・亀山・後二条・後醍醐・正親町)は、敢えて「源氏」となる個別の理由が存在したようです。

後白河源氏

 以仁王が平清盛政権打倒を目指して反乱を起した際、討伐する手続きの一環として、配流の処分が下されることになりました。 しかし、皇族のまま配流するは不都合だと言うことで、当人の居ないところで一方的に源氏にしたという、実態を伴わない系統です。 これには、さらに裏があるという説があります。 以仁王を戦死させてしまい「皇族殺し」になってしまったので、その汚名を避けるために、日付を遡って「皇族ではなくなっていたことにした」というのです。

 以仁王(源以光)の系統には、平家都落ちで安徳天皇が廃された後の後継として木曽義仲が推した北陸宮などが居ます。 源平合戦の後、北陸宮が源氏となるよう願い出たということもあるようですが、結局全員が僧籍に入り、源氏としては続きませんでした。

順徳源氏

 承久の乱の戦後処理で、関与した皇族の多くが僧籍に入れられましたが、順徳上皇の系統の一部が皇籍残留を許され、曽孫の代で源氏となりました。 末裔については、はっきりしないようです。

後嵯峨源氏・後深草源氏

 清和源氏の鎌倉将軍が3代で終った後、摂関家や皇族から形だけの将軍を迎えることになりました。 しかし、迎えられた将軍が長じて自らの政治意思を持つようになると、北条執権家と対立して、京都へ追却されています。

 第4・5代の摂家将軍が追却された後、後嵯峨天皇の皇子である第6代将軍宗尊親王も追却され、その息子の惟康王が第7代になりました。 皇孫ということで一旦源氏になったのですが、やはり追却されることになり、形の上で「格上げ」するために親王宣下を受けて「惟康親王」となり、皇族に復帰しました。 というわけで、後嵯峨源氏は「源惟康」一人限りで終わっています。

 第8代将軍は後深草天皇の皇子である久明親王で、第9代将軍は息子の守邦王です。 惟康親王の先例に倣って、一旦源氏になってから親王宣下を受けるところまで進んだところで、鎌倉幕府の滅亡によって京都へ戻りました。 なお、守邦王の弟の久良王も、連動する形で「源氏→親王宣下」となったのですが、その息子の代で再び源氏になっています。 その後の末裔については、はっきりしないようです。

亀山源氏・後二条源氏

 亀山天皇の皇子である恒明親王の系統(常磐井宮)と後二条天皇の皇子である邦良親王の系統(木寺宮)が、戦国時代ごろまで続いているようです。 しかし、何れも「源朝臣」姓を下賜された形跡が無いので、源氏ではなく「宮家」と考える方が合理的です。

 ところが室町時代に編纂された「尊卑分脈」で「源氏」として扱われたため、伝統的には「源氏21流」に数えられることになっています。 室町時代までの段階では、宮号を称する皇族が代々続いて「宮家」となる例が、この2つの大覚寺統(南朝系)の他には持明院統(北朝系)の伏見宮(崇光天皇の皇子である栄仁親王の系統で、1947年まで存続)しか無かったようです。 従って、「宮家」という概念が確立していなかったために、当時の天皇から遠い系統を源氏扱いしたものと思われます。

後醍醐源氏

 南北朝時代に軍事的に劣勢に立った南朝方はゲリラ活動で対抗しました。 その意味で最も活躍したのが、後醍醐天皇の皇子である尊澄法親王(還俗して宗良親王)で、各地を転戦したと伝えられています。 そして、その息子の尹良王が源氏となって活動を続けたようです。 南北朝合一後の南朝方の残党である「後南朝」の活動にも、当人や子孫が関わっています。

 それとは別に九州での南朝方の中心だった征西将軍懐良親王の息子である雅良王が「源良宗」を名乗ったという記録があります。 こちらは、吉野との連絡無く、勝手に源氏を称したようです。

 このような状況ですから、比較的はっきりしている末裔の他にも、末裔と称する人があちこちに「潜伏?」しているようです。

最も新しい源氏

 後醍醐源氏以降、約300年間「源氏」の例は無かったのですが、江戸時代に入った1664年に「正親町源氏」が発祥し、これが最後の源氏となります。 それ以外の皇族は、僧籍に入るか、または「宮家」(既述の伏見宮に桂宮・有栖川宮・閑院宮を併せた「四親王家」)となりました。 宮家に嗣子が無い場合には、天皇家本家から養子を迎えることによって天皇との血縁の近さを保つことになっていたようで、この処遇によって僧籍に入らずに皇籍残留となった皇親も多数居るようです。

 正親町源氏の成立事情は、豊臣政権から徳川政権への移行期の政治状況が絡んでいて、少々複雑です。 元々、正親町天皇の孫(皇子の誠仁親王=陽光上皇は即位前に早逝)で後陽成天皇の弟にあたる智仁親王が、豊臣秀吉の庇護を受けて優遇されたところから話が始まっているようです。 徳川幕府の成立後、智仁親王の長男智忠王は桂宮家を継承し、次男良尚王は僧籍に入ったのですが、三男幸王(のち源忠幸)は尾張徳川家の婿となったことから政治力を得ました。 そして、徳川政権下での微妙な立場を収拾するために、「宮家」ではなく「源氏」ということになったようです。 広幡氏を名乗り、五摂家に次ぐ「精華」の家格(他には藤原6家、村上源氏1家)を獲得しています。

「氏長者」について

 源氏には「氏長者」という制度があります。 藤原氏や橘氏にもある(平氏は朝廷内に残って活躍する者が少なかったために制度が確立しなかったらしい)のですが、源氏の場合には「発祥の異なる全ての源氏を統べる」という意味で少々特殊です。

 氏長者の権限は氏を統率することです。 その手段として、処罰として「氏」から放逐(放氏)したり、それを赦免(続氏)したりすることは想像がつくと思います。 律令以前の氏上(うじのかみ)と同様の「氏神や氏寺を祀る」権能もあります。

 それと並んで重視されたのが「氏の学院を管理する」ことです。 藤原氏の「勧学院」、橘氏の「学館院」に対して、源氏には「淳和院」「奨学院」の2つがありました。 学院そのものは平安時代のうちに廃止されている例が多いのですが、別当(長官)職の称号だけは「氏長者」の象徴として残りました。

 源氏の氏長者は、鎌倉時代の間は村上源氏(主に土御門氏と久我氏)から出ていたのですが、それを足利幕府第3代の義満が奪ったのです。 これは義満が目指した「朝廷まで含めた全権力の支配」への一環でした。 平清盛の挫折を反面教師として朝廷の外に自立した権力を確立した源頼朝以来、着実に実力をつけた武家政権が、再び朝廷権力の支配に乗り出した動きです。 当時、既に「氏長者」というもの自体が実質的な権力を失って名目だけの存在になっていましたが、その「名目」を敢えて奪ったところに義満の行動の意味があります。

 足利義満の後、「源氏長者」の地位を足利氏と久我氏が取り合う状況が続いたようですが、最終的には徳川幕府成立の過程で征夷大将軍と一体のものとして定着しました。 (大政奉還の後、久我氏から再び「源氏長者」を出す動きがあったようですが、実際に就任したかどうか明確でないようです。) 徳川幕府歴代将軍の正式な呼称も「征夷大将軍・源氏長者・淳和奨学両院別当」という 3つの職がセットになったものです。 これを始めて聞いたときに最後の別当職に違和感を覚えた方も多いと思いますが、以上のような経緯があるのです。 徳川幕府歴代将軍は右近衛大将も兼ねるのが通例だったのですが、必ずしも同時就任ではなかったようです。 これは、源頼朝が征夷大将軍に先立って右近衛大将になった前例を踏襲したものだと思われます。 なお、右馬寮御監をも兼ねたことが強調されることがありますが、これは律令が文字通り機能していた時代から右近衛大将が自動的に兼務することになっていた職です。 (右馬寮の長官である右馬頭よりも偉い!)

参考文献

奥富 敬之(1997)天皇家と源氏―臣籍降下の皇族たち(三一新書1175)ISBN4-380-97019-1
別冊歴史読本93「源氏一族のすべて」(新人物往来社:1998)ISBN4-404-02677-3
奥富 敬之(1999)日本人の名前の歴史(新人物往来社)ISBN4-404-02817-2



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