「源平合戦」といえば、「源氏」と「平家」の戦い。 何故「源家」や「平氏」ではないのか……という問題がネット情報源でどう扱われているか、ふと気になって調べてみたら、中途半端な情報や、おかしな方向へ発展させてしまった情報が満載X-< というわけで、この機会に改めてまとめてみました。
まず「〜氏」と「〜家」の元々の言葉の意味を確認しておきましょう。 「〜氏」という表現は、本来は単に「〜」と呼ばれる「姓氏」ないし「苗字(名字)」を示すにすぎません。 しかし、それは人の属性ですから、ある特定の人物が「〜氏である」という表現は当然使われます。 また、姓氏や苗字は世襲で継承されるものですから、「一族」と看做される集団では共有されるのが原則です。 ですから、ある特定の一族が「〜氏である」という表現も使われます。
一方の「〜家」というのは、「一族」としてまとまっている集団を識別する名前です。 重要なのは、現に「一族」として一体的に行動しているかどうかであり、過去に遡れば実は遠縁の親戚だというようなことは関係ありません。 また、特定の個人が「〜家である」という表現は日本語として正しくないことになります。 特定の個人が「〜家に属する」「〜家の一員である」なら問題ありません。
例えば「平清盛は平氏である」「平清盛は平家の一員である」は何れも正しい論述ですが、「平清盛は平家である」は事実関係の成否以前に日本語として間違っています。 「の一員」を省略したと考えれば正しいと言えなくもないのですが、「省略が過ぎる表現」であることは否めないでしょう。
あるいは「平家は平氏の一部である」という表現を目にすることがありますが、これも日本語として誤り(または「省略し過ぎ」)です。 正確に表現しようと思ったら「“平家に属する人々”は“平氏である人々”の一部である」などとせねばなりません。
源平合戦は実は「平平合戦」であるという有名な指摘があります。 源氏方を支えた有力氏族の多く(北条・三浦・梶原・土肥・畠山・千葉など)が「平氏」だからです。 しかし、彼らは「平家」ではありません。 当時「平家」と呼ばれたのは平清盛の一族であり、それには属していないからです。 確かに、彼らは平清盛と同じ祖先(平氏としての初代)から発祥した「遠縁の親戚」ですが、既に「親戚づきあい」が全くありませんでした。 つまり、「同じ一族」として行動していなかったので、「平家」には属さないのです。
一方、「平時忠」という人物について考えてみましょう。 この人物は「平」を名乗っていますが、清盛とは全く別系統の平氏です。 「平氏としての初代」が伯父と甥の関係にあるので、全くつながっていないというわけではないのですが、源氏方に属した平氏の方が、まだしも清盛に近い親戚です。
ところが、後に「平家にあらずんば人にあらず」と意訳されて有名になった平家物語の「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」という発言の主は、この時忠ということになっています(史実としては怪しいのですが)。 つまり、時忠は「平家」の一員と考えられていたのです。
何故こういうことになったかというと、時忠は清盛の「姻戚」つまり婚姻によって結びついた親戚だったからです。 具体的には時忠の姉が清盛の正妻(二位尼時子)でした。 この立場に基づいて、時忠は清盛の「一族」として振舞っていました。 武家である平家の中で、時忠は「根っからの公家」なので、いろいろ対立することもあったようですが、逆に「公家」であるがゆえに活躍できる機会も多々あったようです。
結局「平家」というのは、清盛の「一族と看做され、一族として行動している」人々のことであり、過去の血統とはあまり関係ないのです。
源平合戦は、当時の巨大権力である「平家」を打倒しようとする戦いでした。 必然的に、「平家」対「反平家連合」の戦いになります。 平家の相手が「連合」であることが重要です。
源平合戦の嚆矢が「以仁王の令旨」であることは有名ですが、その宛先は「諸国の源氏」でした。 特定の「源家」ではないのです。 互いに「別々の一族」と認識している多数の「源家」に対し、共に「源氏」であるという一点を拠り所に「反平家連合」を組めという呼びかけなのです。
つまり、源平合戦の主体が「平家」対「源氏」と非対称なのは、「巨大権力」対「弱小連合」という特徴の反映でもあるのです。
しかし、このような源平合戦の経緯を念頭に置いても、「平家」という表現のみが良く使われ、「源家」「藤家(藤原家)」というような他の用例が少ないという傾向は充分には説明しきれません。 この傾向がある理由は、やはり「平家」だけで特定の「一族」を唯一に識別できるという点に求めざるを得ません。
例えば「藤家」というと、平安時代を通じた権力闘争に勝ち残り摂政関白を代々世襲するに至った系統が有名ですが、他にも藤原氏に属する多数の家系が京都の公家社会に存在し、それも「藤家」と呼ばれていました。 基本的にはそれは、摂政関白を世襲した系統の傍流で、嫡流から離れすぎたために「一族」とは看做されなくなった系統です。 平安時代に入ってから別れた比較的近い系統もあれば、奈良時代に既に別れていた系統、即ち「藤原北家」ではない系統もあります。
これに対して「平家」は源平合戦の時点では清盛の系統と時忠の系統しか事実上登場しませんし、その時忠が清盛の姻戚として取り込まれていた状態だったので、事実上1つの系統しか無かったのです。 しかも、当時の「平家」は一族の結束が強かったことでも有名です。 平正盛(清盛の祖父)が「京都在住の武家」として台頭し始めてから、壇ノ浦で滅亡するまで、どちらが主流か判らなくなるようなマトモな内訌(うちわもめ)が一度も無かったのです。 この結束力ゆえに急速な勢力拡大に成功し、そして滅亡するときも一気に全滅してしまったという側面があるかもしれません。
一方の源平合戦前後の源氏は、やたらと一族の結束が弱くバラバラだったことで知られています。 源平合戦で活躍する源氏は、佐々木源氏などの少数の例外を除いて、1人の「源氏としての初代」の末裔です。 その初代の孫(つまり3代目)にあたる3兄弟のうち三男の系統(その子の頼義や孫の義家)が関東や東北で強い勢力を張り、その実力から「武家の棟梁」と看做されるようになり、源頼朝はその末裔という血統ゆえに源平合戦の一方の首領に成り得たのです。 しかし、3兄弟の他の2人の末裔も武家として残っていました。 そして、これら3系統は互いを「同じ一族」とは考えていなかったようです。
例えば、3兄弟のうち長男の系統も「京都在住の武家」として一定の勢力を保っていました。 早い時期の有名人としては源頼光(金太郎の主人)があり、源平合戦では源三位頼政が活躍しています。 この頼政という人物は、平家政権成立の契機となった平治の乱で平家側につき、平家政権の中でも要職を務め、源平合戦の端緒の段階で平家に反抗して早々に敗死しています。 この経緯に対して「源氏のくせに平氏に味方した」というような論評が加えられることがあるのですが、これは全くの言いがかりです。 源氏同志が元々互いを「同族」とは認識していなかったからです。
一方の源頼朝の系統ですが、こちらは兄弟や従兄弟レベルの近い親戚同志での争いが多く、一族全体の力を自ら弱めていたことで有名です。 頼朝自身も源平合戦の過程で従弟(木曽義仲)を滅ぼしていますし、戦後には活躍した異母弟たち(範頼・義経)や叔父(新宮行家)を攻め滅ぼしています。 こんな状況ですから、「源家」と呼べるような「まとまった一族」としては存在しなかったということになります。 鎌倉幕府初期の3代の征夷大将軍を、その後の「摂家将軍」「宮将軍」と対比して「源家将軍」と呼びますが、これなどは「数少ない使用例」の1つということになりますね。
「平氏」が「平家」になったのは、清盛が公卿(三位以上の高級貴族)になったからだという話があります。 確かに、源平合戦の時期には、「〜家」というのは公卿を輩出するような高級貴族の家系を指す用語だという考えがあったようです。 そして、それは清盛の一族以外の「平氏」の一族が「平家」と呼ばれなかった理由の1つになっている可能性があります。
しかし、これはあくまで「源平合戦の時期」に限定の話です。 この話を他の時代、例えば平安前期以前や鎌倉中期以降に適用してしまったら、全くの誤りです。
清盛の一族以外の「平氏」の一族が「平家」と呼ばれなかった理由は、もう1つ考えられます、というか、その方が重要だった可能性が高いと思われます。 それは「平家」以外の「平氏」は主に関東の武士であり、彼らの間では源平合戦の時期には「苗字(名字)」の使用が既に定着していたと考えられることです。 つまり、彼らが「〜家」ないしそれに相当する表現を使う必要があったとしても、それを識別する名前は「平」という「姓氏」ではなく、「北条」「三浦」などの「苗字」ということになるので、「平家」という表現の出番が無いのです。
京都の公家で「苗字」に相当する「家名」の使用が始まるのは鎌倉中期ごろ、定着するのは南北朝期と考えられます。 それ以前から「御堂流」「閑院流」などといった「家筋」の表現はあったのですが、一族を識別する「苗字」として使われることは無く、フルネームで名乗る場合には「姓氏」を使うしか無かったことになります。
平清盛の一族も、武士集団の中で台頭したのであれば「伊勢」などの苗字を使った可能性が考えられますが、実際には京都の公家社会の中で勢力を伸ばしました。 その結果「平」という「姓氏」を名乗ることになり、「平家」と呼ばれることになったと考えられます。
そして、これは源平合戦よりも後の時代に「平家」と呼ばれる一族が出現しなかった理由にもなっています。 つまり、時代が下れば武士も公家も問わず「苗字」の使用が一般的となり、一族の識別に「平」という「姓氏」を使う動機が無いため、「平家」という呼称の出番も無くなったということです。
一方の源頼朝も、周囲の部下たちは苗字を使っていましたが、自身は苗字を使っていません。 源平合戦当時には関東に「流罪」になっており、その後も京都の政治勢力に対抗するために関東に拠点を置きましたが、元々は「京都在住の武家」が関東にも勢力を張っていたという家系です。 それゆえ、京都の公家社会の習慣に従って「源」という「姓氏」を名乗っていたと考えられます。
鎌倉幕府は、その初期に、将軍家一門以外の者は「源」という「姓氏」を使わずに苗字を使えという制度を制定しています。 これは、主従の格付けを明確にすることが目的と考えられますが、その前提として、将軍家は「姓氏」を名乗り、他の者は「苗字」を名乗っているという現状があったと考えられます。 その現状を固定化し、変更を認めないという制度だと考えると、制度の意味が明確になってきます。
もちろん、これは源頼朝の一族が「源家」と呼ばれることが少なかった理由の説明にはなりません。 そこはやはり、既に述べた、「源家」と呼べるような「まとまった一族」としては存在しなかったというところに求めざるを得ないでしょう。
「苗字(名字)」ではなく「姓氏」を使った「平家」などの「〜家」は、自分たちがその姓氏の「本家」であるという主張だという説明が多く見られます。 確かに、結果的にそうなったことは(特に平家に関しては)間違い無いのですが、そもそもそういう意識だというのは考え過ぎではないでしょうか。
この説明に対する一番の反証は、「藤家」という用語が「傍流の藤原氏」にも使われることでしょう。 つまり、「本家」だと主張する「地位の高い一族」が「姓氏」を使った「〜家」を独占的に使っていたのは「平氏/平家」だけに特有の現象なのです。 言い換えると「本家」のみが「苗字を使わない世界」に居たという、「平氏の特殊事情」だということになります。