苗字と姓氏:「源平藤橘」って?

 日本人には「苗字(名字)」と「姓」があるという話があります。 そして「姓」には「源平藤橘」(「藤」は「藤原」の略)の4種しか無い、日本人は誰でも「源平藤橘」のどれかに属すると。

 前半はともかく、後半はウソですよ。 「源平藤橘」はあくまで「代表的な姓」に過ぎません。 これを書いている私自身「源平藤橘」のどれにも属さない「物部氏」ということになっています。 そのあたりの事情を整理してみました。

律令以前の「姓」

 日本史の授業で古代の「氏姓制度」を習ったときに、「今の『姓』という言葉と全然違うんだな」と思った記憶はありませんか? エ、そんな昔に習ったこと、とっくに忘れちゃったって?

 現在では「姓」「氏」「苗字(名字)」は、ほぼ同義に理解されていますが、これは律令以前の「氏姓制度」における「氏(し・うじ)」に相当します。 では、「姓(せい・かばね)」というのは何かというと、「氏の格付け」です。 格付けとは言っても、元々は質の違うものを分類するもので、単純に「偉い順番に並べる」ことができる性格のものではなかったようです。

 おそらく、「氏」も「姓」も元々は自然発生的な制度だったのでしょう。 しかし、天皇家が支配を確立していく過程で、氏姓は天皇から恩賞として賜るものとする制度が確立されていったようです。 これには、一定の功績があった者や技能を持った者に氏姓を与えて独立させることで、その者が元々属していた氏族を弱体化させるという目的もあったようです。 功績や技能に対する恩賞として与えるものですから、それに応じた姓が選択されることになります。 従って、賜るモノの本質は姓の方になるので「賜姓」ということになります。 しかし、実際には姓だけを賜ることは不可能で、それを識別する氏の名前が不可欠です。 従って、「賜姓」によって賜るものは、必然的に「氏と姓のセット」になります。 この段階で既に「姓」と「氏」が混同される素地があったと言えそうです。

 天皇家による一元支配の確立は、「律令制度」の整備という形で完成していくのですが、その一環として、684年に「八色(やくさ)の姓」という制度が作られました。 これは、複雑怪奇だった姓を8種類の「単純に偉い順に並べられる」ものに簡素化してしまうというものでした。 そして、最初のうちは、各氏族を、この順位化された姓に充てはめて適宜昇格させたりすることによって支配を固めようとしたようです。

 ところが、「源平藤橘」に代表される新しい氏族が、軒並み「八色の姓」第2位の朝臣(あそみ、後に「あそん」)になったために、最終的には「猫も杓子も朝臣」という状況になってしまい、姓なんかどうでも良いという風潮になってしまったようです。 (第2位に集中したのは、第1位の「真人」が皇族専用だったからのようです。)

 「律令制度」の整備による天皇家支配の確立には、人の地位を「氏姓」ではなく「官位」で規定するように改めていくという方向性もありました。 「八色の姓」という制度には、「姓」の簡素化によって権威や有用性を失墜させ、それによって「官位」の価値を相対的に高めようという意図もあったようです。 このことも「姓なんかどうでも良い」という風潮を加速したかもしれません。

 その後の賜姓でも、「源朝臣」を賜るというように、「氏と姓のセット」を賜るという形は保たれ続けたのですが、どんな場合でも「朝臣」の部分は変わらないわけですから、単なる形式的な決まりごととして認識されることになります。 その結果、「賜姓」の本質は「源」などの「氏」の部分だと考えられるようになり、そのうち「源」などの部分だけでも「姓」と呼ぶようになってしまったのだと思われます。

 また、中国における「姓」という言葉が日本の「氏(うじ)」に相当するもので、「姓(かばね)」に相当するものが存在しなかったということも背景にあるかもしれません。 中国でも漢代以前には「氏」と「姓」が区別されていたようなのですが、「姓」が「家系」の意味、「氏」が「家格」の意味で、どちらかというと日本の氏姓制度とは逆ですね。 同一の「姓」が複数の「氏」に細分されるという関係だったらしいので、この関係に着目して日本の「かばね」を「姓」に充てたという可能性も考えられます。 ちなみにインドのカースト(ヴァルナ)を「四姓制度」「種姓」などと説明することがありますが、この場合の「姓」は「かばね」の意味と考えられます。

 なお、以上のように用語が混乱しているので、「朝臣」などの「姓(かばね)」を伴う「天皇から下賜された氏(下賜されたと同等視された律令以前の氏を含む)」のことを、この文章では便宜的に「姓氏」と呼ぶことにしておきます。 後述するように、後の時代には「苗字(名字)」が一般化しますが、その「苗字」との対義語として「本姓」と呼ばれる場合もあります。

権威づけとしての「賜姓」

 律令以降、平安時代初期までの新たな賜姓としては、以下のようなものがあります。

清原・在原・春原・伏原・長谷・文室(文屋)・広根・大江・弓削・夜須・長岡・岡 etc.
(参考:別冊歴史読本「源氏一族のすべて」新人物往来社 p.10)

 平安時代初期には「源平」が賜姓され、以降は皇族を離脱して臣籍に降りる場合には「源」を賜姓するのが慣例となりました。 また、賜姓は皇籍離脱の場合に限って行われるわけではなく、外国人の帰化に際してというケースや、「豊臣」のようなわけのわからんケースもあります。

 時代が降ると「猫も杓子も藤原or源」になってきて区別ができなくなり、世間一般では「姓氏」よりも「苗字」を使うようになりました(後述)。 鎌倉幕府成立以降、京都の朝廷から自立した権力主体が出てくるようになると、姓氏の代わりに「苗字」を権威化する状況(後述)も生じるようになり、公文書にも姓氏が出てこないような状況になります。

 しかしながら、京都の朝廷は下賎な苗字など公文書には使いません。 既に「天皇の伝統的権威」だけが存在価値になっていた彼らにとって、「天皇が下賜した姓」を用い続けることは権威維持の重要な手段だったのです。 ですから、徳川幕府も、朝廷との間の文書にだけは姓氏を使っています。 明治政府も最初の何年かはこの方針を維持していたので、当時の文書は有名な人がとんでもない姓氏で署名していて、誰のことだか考えないとわからない状況になっているそうです。

庶民の血統主張と「源平藤橘」

 このように「姓氏」そのものは数多く存在するのですが、鎌倉時代ごろから、その中の「源平藤橘」だけが特別扱いされるようになりました。 このころ、中央貴族以外の「庶民」が経済的な力をつけるようになり、貨幣経済も発達して、庶民の文化的なレベルも上がり、自分の血統を主張し始めるようにもなってきました。 その中で「源平藤橘」が「高貴な血筋」と看做されるようになり、血統のよく分からん奴は、この4姓のどれかに結びつくように系図を捏造するようになったようです。

 それにしても、現実に朝廷の中枢を多く占めていた「源藤」(「源」については、清和源氏ではなく村上源氏や宇多源氏など)や武士の血統として「源藤」と拮抗していた「平」はともかくとして、何故「橘」が並列されるようになったんでしょうね? 同僚の歴史学者に訊いてみたり、図書室で調べたりしてみましたが、確実なところはわかりませんでした。 が、どうも以下のような考え方で大体間違いはなさそうです。

  1. 「源平藤橘」は全て律令以後の賜姓です。 従って律令以前の氏族(蘇我・物部・大伴・紀・小野・和気・中臣etc.)は別枠となります。 その結果、メジャーなので残るのは、源平藤橘以外には清原・在原・文室・大江・菅原くらいになります。
  2. 「源藤」に比べると圧倒的に見劣りする状況でしたが、「橘」も鎌倉時代くらいまで朝廷の中枢にそこそこ喰いこんでいました。 大江氏や菅原氏も残っていたのですが、橘氏と違って「特殊な学問を扱う専門職」と看做されていたことが不利に働いたかもしれません。 また、橘氏は「氏長者」「氏の学院(大学別曹)」などの制度が(実態はさておいて形式的には)整っており、勢力が衰えた後も藤原氏が代行する形で続いていたという要因もあるかもしれません。 ちなみに、在原氏は初代(行平・業平ほか4名)が思いっきりメジャーなわりに、孫が1人知られている程度で、末裔がまるで続きませんでした。 清原氏は清少納言まで続いていることは確実ですが、その後がよくわからないようです。 明経道(儒教の経典を扱う学問)の清原氏というのが平安末から江戸時代まで続いているんですが、関係あるのかどうか不明だとか。奥州の清原氏も同様。 大体、清原氏の現存する系図情報というのが曖昧性と相互矛盾の嵐らしくって、わけがわからないようです。
  3. 律令制度が整備されてから鎌倉幕府成立に至るまで、皇籍や僧籍以外で政権のトップの座についたのは「平藤橘」の3氏に属する人のみです(菅原氏は「単独トップ」にはなっていない)。 これに武家政権の棟梁である源氏を加えてセットにしたという考えが成り立ちます。 「源平藤橘」という並び順は、この言葉が使われ始めた鎌倉時代を基準に「近い時代に政権に就いた順」になっているという指摘もあります。
  4. いずれにしても、「4つ揃えたい」という意識が背景にあって、無理にでも「第4の姓」を入れる動機が存在したようです。 それは、中国の歴代王朝で「名門家系」を規定する「四姓」制度に相当するものを作りたいという意識です。 中国の「四姓」は正式の「制度」ですし、朝鮮もそれに倣って制度化しているのに対して、日本では全く制度化されていないという根本的な違いがありますが、日本で「四姓」というものを説く人が中国の制度を意識して論述してきたことは事実です。

 なお、この問題を論じる場合に「皇族に対する賜姓」という意味で「橘」は「源平」と同格だということが強調される場合があります。 この場合、「藤原」も「皇族並」に扱われての賜姓と考えて同格視することが多いようです。 「橘」を四姓に入れて他を入れない論拠としては少し無理があると思われるのですが、この条件によって土師氏に対する賜姓である大江と菅原が脱落するという効果があることには注目しても良いかもしれません。 橘氏が朝廷の中枢から消えた後も残り続けた大江氏や菅原氏が排斥されていることを合理化するための理屈という可能性も考えられます。 ちなみにこの条件、大江氏初代の音人が平城天皇の孫という説もあって話が少々厄介です。 大江氏は土師氏起源であることが確実な大枝氏の字を変えただけの改賜姓というのが通常の理解で、阿保親王の息子である音人が大枝氏末代である本主の養子になったとでも理解すれば良いのでしょうか?

 また、律令以降に臣籍から皇后(中宮)を輩出したのは「源平藤橘」のみであるということが強調される場合もあるようですが、これを「判断条件」として持ち出すのは、どうかと思いますね。 状況評価として極めて一面的だからです。 もちろん、「高貴な血筋」と判断する「目安」の1つになることは確かなので、多数の条件が列挙されている中に並んでいるのは妥当なんですが。

 あと有名なところでは、西暦927年から12年間、太政官に源平藤橘が揃っていたということが強調される場合もあるのですが、何故この時点での事実で決定づけられるのか全く説明できません。 明らかに後付けの説明ですね。

地名姓としての「苗字」

 さて、「姓氏(本姓)」は子々孫々受け継ぐもので、特に理由があって新たに賜姓されない限り変わりません。 後世には、目的があって姓氏を変える人が出てきますが、この場合には「血統を変更(?!)する手続き」を踏みます。 羽柴秀吉が藤原を名乗ったときのように、別の家系に養子に入るのが確実ですが、「実は私は誰々の落胤の末裔だとわかった」なんていうパターンもあります。

 初期の武士団が勢力を広げていく場合、新しい場所には一族の誰かが入るというパターンが普通でした。 一族ですから姓氏は当然同じで、変えることはできません。 そうなると、あたり一帯、姓氏の同じ人がウヨウヨしてることになります。 全員同じでは名乗る意味が無いので、それに替えて、所有地や居住地の地名を名乗るようになりました。 現在でも、親戚同志で家系を区別するのに居住地の地名を使うことがあると思いますが、同じことです。 これが「苗字」です。

 「みょうじ」は時代によって「名字」と書いたり「苗字」と書いたりしますが、最初のうちは「名字」と書いたようで、これは「名田」などと同じで、農地の所有名義という意味から出ているようです。 これが、江戸時代に入るころまでには「苗字」に変わったようです。 一般には「血統を同じくする=同じ苗に属する」意味だと理解されていますが、農地の名前が元になっているという意識もあるかもしれません。

 地方の武士が苗字を使い始めたころには、京都の公家社会では相変わらず姓氏を使っていました。 それが変わったのは、保元平治の乱から承久の乱を経て南北朝動乱へという流れで武士に政治的実権を握られていく中で、文化面での「専門性」で存在感を主張して生き残ろうとしたことによるようです。 専門性を維持するために「家業」を「世襲」することにしたのですが、そのためには各々の家業を継承する「家」を明確にする必要があります。 そこで「家名」をつけ、「家格」の序列を明確に制度化しました。 家名には主要領地や初代の屋敷所在地などの「地名」が採用されました。 この「家名」が「苗字」の機能を果たすようになったわけです。

 「family name」というものを世界的な一般論として語る場合に「血統姓」「地名姓」という概念を用いることがあります。 「苗字」は、少なくともその起源においては「血統姓」である「姓氏」に対立する「地名姓」なのです。

 日本人は単位人口あたりの「family name」の数が世界一多いと言われていますが、それは「地名姓」が発達したことによるものです。 同じ東アジアでも中国や朝鮮は「血統姓」を護り続けたので、逆に世界的にも「family name」の種類が少ない国となっています。

 尤も、苗字の全てが完全な「地名姓」ではないことには注意してください。 官職その他の役職に由来する苗字(少弐氏が代表的)もありますし、地名や官職を姓氏と組み合わせた苗字(藤原姓に由来する「〜藤」という苗字など)などもあります。 しかし、苗字の原則はあくまで「地名」です。

「苗字」の血統姓への転化と権威化

 「苗字」が定着して使われるようになると、そこから派生して「そう遠くない親戚同志」であることを示す符号になりました。 つまり、大きな氏族の中にいくつかの系統があるとして、どの系統に属するかを示すために利用するようになったのです。 言い換えると、各系統の所有地や居住地が変わっても、初代の土地を名乗り続けるということになります。

 こうなってくると、本来「地名姓」であった「苗字」が「血統姓」の性格を帯びるようになってきます。 そして、そのうち「血統」が「権威」と結びつくようになってきます。 例えば「ワシは足利の血を引く者だぞ!」と主張するような使い方ですね。 そうなると、特定の苗字を名乗ることが「特権」と看做されるようになり、支配者側の許認可権限の1つになってきます。

 苗字の「権威化」を始めたのは鎌倉幕府のようです。 京都の朝廷のシステムの中での権力確立に失敗した平家政権を反面教師として、朝廷から自立した権力の確立を目指した鎌倉幕府は、その手段の1つとして、将軍家一門以外の者は「源」という「姓氏」を使わずに苗字を使えという制度を制定しました。 この制度の「他の者は“別の苗字”を使う」という部分が模倣されて、「特定の苗字を名乗れるのは宗家(嫡流)のみ」という流儀が広まったようです。

 尤も、一方では逆に「宗家と同じ苗字を名乗る」ことによって結束を固めるという方法も使われたようで、そのあたりは状況によって様々だったようです。

 近世に入ると「苗字の権威化」が系統的に制度化されていきます。 代表例としては、豊臣政権下での「羽柴」、徳川政権下での「松平」があります。 これらの「創始者の旧苗字」は、有力大名に下賜され、各大名家の本家の当主・先代・嫡子のみが名乗ることができました。 例えば、江戸時代の文献に「松平薩摩守」とか「松平安芸守」とか出てきたら、各々島津と浅野の本家の当主のことです。 徳川親藩では、御三家などの当主・先代・嫡子は「徳川」を名乗り、それ以外は「松平」を名乗ることで、格付けを行いました。

「姓氏」の後には「の」が入る?

 この問題を論じる場合に、「姓氏(本姓)」の後には「の」が入るが「苗字(名字)」の後には入らないという区別が強調されることがあります。 しかし、この「の」の有無というのは、あくまで「傾向」であって「ルール」ではないのです。 姓氏である「藤原」や「豊臣」の後には「の」が「“必ず”入る」とか「入るのが“正しい”」とかいう主張はデタラメです。

 「の」の有無に関する「傾向」が生じるのは、「姓氏」と「苗字」とでは「役割」が違い、使う場合の文脈(前後関係)にも違いが生じるからです。 そもそもは、天皇から「姓氏」が下賜される際に、必ず「氏と姓(かばね)のセット」で取り扱われるということから話が始まっています。 この場合、単なる「分類」である「姓(かばね)」を「氏」で識別するという関係にあるので、「“氏”の“姓”」という形(例えば「平」の「朝臣」というような形)になり、必ず「の」が間に入ります。 言い換えると、「姓(かばね)」の直前には必ず「の」が入ります。

 「姓(かばね)」の直前の「の」というのは、例外が起こらない「ルール」です。 そして、この「必須の“の”」の直前に来る可能性があるのは「姓氏」のみで、「苗字」が来ることはありません。 「苗字」が「姓(かばね)」を伴って天皇から下賜されることは無いからです。 このことだけ考えても、「姓氏」の方が直後に「の」が入る可能性が高いことは明らかですね。

 このことを、「名乗りを上げる」場合の文脈(前後関係)で考えてみましょう。 例えば「徳川内大臣源朝臣家康」という名乗りにおける「源」という「姓氏」は、「朝臣」という「姓(かばね)」の直前なので、必ず「の」が入ります。 一方の「徳川」という「苗字」には「“の”必須」となる文脈的要因がありません。 (「名乗り」には種々の流儀があり、「姓氏」が先に来て「苗字」が諱の直前に来るパターンもありますが、いずれにしても「姓氏」の直後に「姓(かばね)」が来るというのは同じなので、以下の話も同様となります。)

 武士が「名乗り」を行う場合、「姓氏」の直後の「姓(かばね)」を省略してしまうことがあります。 上述の例だと「徳川内大臣源家康」と名乗る場合ですね。 この場合、「の」が必ず入るという「ルール」は適用されませんが、それでも「源」の後には「の」を入れるのが普通です。 このような用例では「内大臣」という「官職名(受領名)」が入っていることが重要かもしれません。 それによって名乗りのリズムが「姓(かばね)」を入れた場合に近くなるからです。

 また、「源」や「平」といったような、「の」を入れて「姓(かばね)」に続ける用法が耳なじんでいて、しかも「苗字」とは少し異質な語感がある姓氏だと、「の」を入れること自体が習慣化しているようです。 これが「藤原」だと「異質感」が軽微なので「の」が抜けてしまう可能性が高くなりますし、「豊臣」など用例が少ない姓氏だと「習慣化」には程遠い状況になります。 「豊臣朝臣秀吉」であれば「豊臣」の後には必ず「の」が入るし、「関白太政大臣豊臣秀吉」でも「豊臣」の後に「の」が入る傾向は明確ですが、「姓(かばね)」も「官職名」も省略した「豊臣秀吉」にまで「の」を必ず入れるほどの習慣にはなっていないということです。

 一方の「苗字」、例えば上述の「徳川内大臣源朝臣家康」という例における「徳川」の直後には、「の」が入る場合もあるし、入らない場合もあります。 その時の状況に応じてどちらも有り得るのです。 これは、「姓氏」も「官職名」も省略した「徳川家康」でも同じですし、現代の「名字」でも同じです。 頻度としては低いのですが、現代でも「名字」の後に「の」を入れて人の名を呼ぶことはあります。 また、「の」を入れることが習慣化している苗字(例えば、平安時代に1文字の諱を名乗り続けていた時期の渡辺氏など)もあります。

 姓氏の後には「の」が「“必ず”入る」などというデタラメを主張する人の中には、苗字である「徳川」や「足利」の後には「入らない」とまで主張してしまう人も居るようですが、大嘘にも程があります。

参考文献

文中でコメントした他、
奥富 敬之(1999)日本人の名前の歴史(新人物往来社)ISBN4-404-02817-2
奥富 敬之(2004)名字の歴史学(角川選書)ISBN4-04-703362-6


2002年1月28日WWW公開用初稿/2012年7月17日ホスト移転/2018年6月1日最終改訂

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