「関西」の範囲をめぐって
大きめの辞書で「関西」や「関東」を索くと、
いろいろな意味があることが見て取れます。
これには、時代による意味の変遷も関係しているようです。
これについて見てみましょう。
本来は“関”を境界に接する地域である
元々は「関西」「関東」は中国の“函谷関”を境に、
それよりも西あるいは東の地域を指す言葉です。
日本でも、この用法に擬えて、京都の東の“関”を境に
「関西」「関東」と定義したのが始まりです。
ですから、本来は「関西」と言えば近畿だけではなく
中四国や九州まで入るわけですし、
現在「中部地方」と呼ばれている地域も「関東」に入るわけです。
「関西」「関東」を分ける“関”は、
必ずしも特定の1つのものでは無かったようです。
知られている最も古いものは、律令で制度化されたと考えられている
「鈴鹿・不破・愛発(あらち)」の三関(さんげん)です。
この三関は、東山道・東海道・北陸道が
畿内を出て近江・伊賀を抜け、
次の国に入って山越えを終えたところにあります。
その後、京都と大津の間にある「逢坂関」が愛発関に取って代わり、
「鈴鹿・不破・逢坂」が「三故関」と呼ばれるようになります。
愛発を逢坂に代えるという命令は810(弘仁元)年に出ているようですが、
それ以前の789(延暦8)年に「三関を停廃する」という命令が出ているので、
意味がよくわかりません。
尤も、三関停廃後も天皇の代替わりなどの時には、
全くの形式的儀礼として「固関使」が任命されていたようですし、
そのあたりに関係があるのかもしれません。
そういうわけで、“関”が不確定なために
近江や伊賀が「関東」なのか「関西」なのか
よくわからない状況になっています。
中途半端な緩衝地帯というべきなのかもしれません。
但し、一般に「関東/関西」という用語を語る際には、
主に「逢坂関」を境界として考える傾向が強いのは事実です。
これは、この用語が一般的に使われるようになる際に、
平安京に最も近い「逢坂関」が最も重要な“関”と看做す考えと
セットで広まったことによっているのかもしれません。
武家集団を意味する「関東」とそれに対する「関西」
時代が降ってくると、鎌倉幕府や江戸幕府に象徴される「関東武士団」が
京都の公家集団に対する対抗勢力として認識されるようになりました。
そして、その武士団のことを婉曲に「関東」と呼ぶようになったようです。
この用法が変化して、武士団の勢力圏の中心である「坂東八州」のことを
「関東」というようになったのではないでしょうか。
「関東」が「箱根関」より東を指すという理解は、
上記のように意味が変遷した結果に対して、
後から理屈をつけて合理化したものだと思います。
一方の「関西」も、上記の「関東」に対する「関西」として、
公家集団の本拠地たる京都およびその文化的直接影響圏を指す
現在の用法になったのでしょう。
2000年12月31日WWW公開用初稿/2002年1月19日最終修正/2012年7月17日ホスト移転
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