キリル文字は誤伝で生まれた?!

 キリル文字(キリール文字)は、ロシア語などスラブ系の言語を表記するための文字です(モンゴル語などの表記にも使われますが、旧ソビエト連邦の影響下で政治的な理由で使われるようになったもので、本来はそういう目的の文字ではありません)。 ラテン文字(ローマ文字)に慣れた人がキリル文字を見ると、見慣れた文字の裏返し(鏡文字)になっている字体や、見慣れた字体が別の文字に使われている例が散見されて戸惑うことになります。 その結果、キリル文字の起源に関して、以下のような俗説が生まれました。

あるロシア人が、西欧で文字を習得し、資料を持って帰国の途についた。 ところが、乗っていた船が難破し、本人は無事に帰国できたものの、文字に関する資料が失われてしまった。 そこで、已むを得ずウロ覚えで再現した結果、できたのがキリル文字である。
(陸路での帰途でボルガ渡河中に転倒したというバージョンもあるようです。)
もちろん、この話は全くのデタラメです。 では、キリル文字とラテン文字の齟齬はどのようにして生じたのでしょうか?

ギリシャ文字との共通性

 ギリシャ文字を全部、あるいは沢山御存知の方なら、キリル文字はラテン文字よりもギリシャ文字(の大文字)と共通する部分が多いことに気付くでしょう。 実際に数えてみると、キリル文字がギリシャ文字と一致していてラテン文字と一致しない例は

キリル文字ギリシャ文字ラテン文字
Г(ゲー)Γ(ガンマ)C・G
П(ペー)Π(パイ)
Р(エル)Ρ(ロー)
Ф(エフ)Φ(ファイ)なし
Фは発音的にはFに対応しますが、文字の起源は無関係です。
の4文字あり、またキリル文字をギリシャ文字と似た字体で書くことがある例が
キリル文字ギリシャ文字ラテン文字
Д(デー)Δ(デルタ)
Л(エル)Λ(ラムダ)
の2文字あります。 しかし、逆にキリル文字とラテン文字が一致する以下の8文字は全てギリシャ文字とも一致し、ギリシャ文字と一致しない例はありません。
キリル文字ギリシャ文字ラテン文字
А(アー)Α(アルファ)
В(ヴェー)Β(ベータ)
Е(イェー)Ε(イプシロン)
К(カー)Κ(カッパ)
М(エム)Μ(ミュー)
О(オー)Ο(オミクロン)
Т(テー)Τ(タウ)
Х(ハー)Χ(カイ)

Е(イェー)よりもЭ(エー)の方が、Ε(イプシロン)やラテン文字Eの一般的な発音に近いものです。 しかし、Е(イェー)はギリシャ語には無い音なので、Ε(イプシロン)で表記するしか無かったのでしょう。 そして、おそらくは、使用頻度の高い文字にギリシャ文字そのものを使い、使用頻度の低い方を裏返した結果として、発音の齟齬が生じたものと思われます。

В(ヴェー)についても、Б(ベー)の方が、Β(ベータ)の古典的な発音やラテン文字Bの一般的な発音に近く、В(ヴェー)はむしろラテン文字Vの発音に近似します。 しかし、現代ギリシャ語ではVに発音するようで、この変化は中世に入る前に既に起こっていたようです。 というわけで、こちらはギリシャでの当時の発音にはギリシャ文字をそのまま使い、古い発音と同じ音には少し変形した文字を使ったと考えて良さそうです。

Х(ハー)とΧ(カイ)の音は同系統(古代には帯気音だったが、中世以降には喉の奥を使う息の音)ですが、ラテン文字のXの一般的な音とは違います。 しかし、これも元々はギリシャ西部方言でのΧ(カイ)の発音に基づく読み方なので、本来は同じものだと言えます。

 ちなみに、ギリシャ文字とラテン文字が一致していてキリル文字は違うという例は以下の3文字です。

キリル文字ギリシャ文字ラテン文字
И(イー)Ι(イオタ)
Н(エヌ)Ν(ニュー)
З(ゼー)Ζ(ゼータ)
そして、3者とも字体が全然違うという例は以下の2文字です。
キリル文字ギリシャ文字ラテン文字
С(エス)Σ(シグマ)
У(ウー)Υ(ウプシロン)
Zについては、ラテン文字Zの筆記体がЗに近いことを考えると、「単なる字体の違い」で納得できるのではないでしょうか。 UとУも、Υを共通の祖として両様に変化したと考えれば納得できるかと思います(ちなみに、ラテン文字のYは、Uとは違う時代にΥがローマに伝わったために、違う発音の文字として分立したものです)。 他の文字については後述します。

キリル文字の起源

 ギリシャ文字との共通性からも想像できるように、キリル文字はギリシャ文字の強い影響を受けて作られたものです。

 「キリル文字」という呼称は、考案者とされる9世紀のギリシャ正教の学僧キリル(コンスタンチン)の名に基づくものです。 キリルはスラブ民族への布教上の必要から、スラブ系言語の表記に適した文字を考案しました。 しかし、最近の研究では、それは現在キリル文字と呼ばれている文字体系ではなく、別の文字体系(グラゴール文字:グラゴル文字)であるというのが定説になっているようです。

 キリルが考案した文字体系は、音を文字に写す基本原理はともかくとして、文字の形は全く新たに考案したものだったようです。 しかし、それ以前に、ギリシャ文字を使ってスラブ系言語を(不完全ながら)表記する流儀が普及していました。 そして、その流儀を拡張して、ギリシャ語に無い発音に対しては、あるものは似たギリシャ語の文字を変形し、あるものはグラゴール文字を流用するという方法で、スラブ系言語の表記に充分な文字体系を整備したものが、現在のキリル文字だというのです。

 どれがギリシャ文字の変形で、どれがグラゴール文字起源かということに直接証拠は無いようで、推測するしかありません。 現代ロシア語で使う文字について見てみると、既に述べたようにБとЭはギリシャ文字の変形と思われますし、ЁとЙも、一般的に思われるように、ギリシャ文字起源の文字に記号を付加したものと考えて良いでしょう。 残る子音字「ЖЦЧШЩ」と硬軟音記号「ЪЬ」は、おそらくグラゴール文字起源です。 母音字のうちのЮもグラゴール文字起源と考えて良さそうですが、Яは何れとも解釈できます(後述)。 なお、Ыは「ЪИ」という2文字が結合したものであるようです。

 いずれにしても、スラブ系言語の表記に「どれだけの文字が必要か」ということを明らかにしたのがキリルの深い洞察力の賜物であることには違いないようで、そういう意味では、現在のキリル文字をキリルの名を冠して呼ぶことは、決して的外れでは無いようです。

「誤伝」の正体

 以上を前提として、俗説で「誤伝」とされる部分について個々に検討して行きましょう。

СとР

 旧ソビエト連邦時代には「СССР」という国名表記をよく見掛けました。 これが「シー・シー・シー・ピー」ではなくて「SSSR(エス・エス・エス・エル)」だと知って驚いた経験のある人も多いでしょう。

 このうちРに関しては、実はラテン文字の方こそ「誤伝」だと言えなくも無いというのが実態です。 詳しくは別稿を参照してください。

 一方、Сに対応するギリシャ文字Σは、元々Zを裏返しにしたような字形で、現代の活字でも、小文字σが語末に来るとSに近い形になります。 中世にはSの上半分だけ書いたような、Сにしか見えない書写体が広く使われていたようです(例えば、Rich Elliott氏の「The Encyclopedia of New Testament Textual Criticism」にある「Evolution of the Uncial Script」参照)。 それよりも、本来は角張っているΓが、ローマへ伝わる間に、何故か丸まってCになってしまったことの方が、変といえば変です。

Я

 裏返し文字の典型と思われがちな字の代表格ですが、「R」とは発音的にも無関係で、 硬音А(アー)に対応する軟音の母音「ヤー」です。 上述したようにグラゴール文字起源とも考えられますが、Аの左肩を膨らましたものだと考えても良さそうです。 Яという字が無かった時代には「ИА」という表記も使われていたようで、この「И」をАの左肩にくっつけて書いたのが起源との考え方もあるようです。

 何れにしても、結果的にRの裏返しになったのは、あくまで活字のデザインの都合でしかありません。

ИとН

 Иが「イー」という母音字、Нが「エヌ」という子音字です。 Иの歴史的起源が複雑で少々厄介なのですが、どうもΗ(イータ)起源の母音字とΙ(イオタ)起源の母音字が、後世になってから統合されたという経緯があるようです。

 Η(イータ)は元々は子音字で、ラテン文字ではその用法を継承してHとして使っています。 しかし、ギリシャではこの子音を使わなくなってΙ(イオタ)とは少し違う母音を表記するのに転用され、その後も現代に至るまで一貫して母音字として扱われているようです(表現する母音の具体的な音韻は変化しているようですが)。

 キリル文字の古い字体を調べてみると、イーに「И」、エヌに「N」を使い、間の線が水平になっている字は存在しないという例もあるようです(例えば、Simon Ager氏の「Omniglot」にある「Old Church Slavonic Alphabet」参照)。 となると、全体に間の線が左傾した結果、右傾線は水平に、水平線は左傾にと変化したと考えても良さそうですね。

 あるいは、Ι(イオタ)と統合されたということで、そのことが意識されている可能性も考えられます。 「И」の筆記体はラテン文字のuの筆記体に似たもので、Ι(イオタ)の小文字ιを2つ続けたようにも見えるということも、状況証拠の1つとして挙げておきましょう。

参考文献

千野栄一(1981) スラヴ系文字の発展, pp.107-136 In: 世界の文字(講座 言語 第5巻), Ed. 西田龍雄, 大修館書店, ISBN 4-469-11055-8
ニコラス・バフチン(1935) 古典研究者のための現代ギリシア語研究入門, 日本語訳(北野雅弘, 1998) http://www.page.sannet.ne.jp/kitanom/modgre/bakh1.html

なお、改訂に際して、NetNewsのfj.sci.langで貴重な意見をいただきました。記して謝意を表します。


2003年1月22日初稿/2012年7月17日ホスト移転/2022年2月6日最終改訂

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