横溝正史の「金田一耕助もの」の1つである「悪魔が来たりて笛を吹く」では、作品中に登場するフルート曲の内容が重要な要素になっています。 当然ながら、作品を映像化(映画化・テレビドラマ化)する際には、この設定が再現された楽曲になっているかどうかが問題になります。 この問題については、私自身も所属楽団の団内報に載せた内容を公表していますし、NetNewsにおいても、
Message-ID: <551e76$fb3@nws-5000.lbm.go.jp> Date: 28 Oct 1996 04:52:54 GMT Newsgroups: fj.rec.tv,fj.rec.music.classical,fj.rec.music.winds,fj.rec.movies,fj.rec.mystery Subject: Devil comes to play Flute Message-ID: <enpo56$t26$1@bluegill.lbm.go.jp> Date: Sun, 7 Jan 2007 03:07:18 +0000 (UTC) Newsgroups: fj.rec.tv,fj.rec.tv.drama,fj.rec.music.classical,fj.rec.music.winds,fj.rec.movies,fj.rec.mystery Subject: Re: Devil comes to play Fluteでコメントしています。
このページの初稿執筆日の少し前に、30年近く見る機会が無かった1979年版の映画が深夜にテレビ放映されるのに気付いたので、録画して見てみました。 その後、ネットで関連情報を検索してみたのですが、この問題、あちこちで話題になっているものの、確かな情報がまとまっている例が少ないようで、正解に到達できていないスレッドが多々見受けられます。 そこで、この問題について改めてまとめ直してみようと思い立ちました。
……とまあ、前置きをダラダラと書きつらねたのは、推理小説としてのネタバレを読みたくない人に、読むのを中断してもらうためです。 この後も、念のため、ネタバレになりそうな表現をなるべく避けて書き進めますが、とにかく読みたくない人は読み進まないように!
というわけで、このあたりからネタバレになりそうな話題に入りますが、まず前提となる基礎情報を整理しておきます。 ネット上の諸情報によると、この作品は下記の通り映像化されているようです。 (一部映像作品で、家族関係を原作より簡略化したために苗字が違っているものがありますが、全て原作に従いました。)
年代等 \ 配役 | 椿英輔 | 新宮一彦 | 三島東太郎 | 椿美禰子 | 金田一耕助 |
1954年 東映 | (?) | 石井一雄 | 塩谷達夫 | 杉葉子 | 片岡千恵蔵 |
1977年 TBS系 | 江原真二郎 | 星正人 | 沖雅也 | 檀ふみ | 古谷一行 |
1979年 東映 | 仲谷昇 | (登場せず) | 宮内淳 | 斉藤とも子 | 西田敏行 |
1992年 TBS系 | 石濱朗 | (※) | 石黒賢 | 西村知美 | 古谷一行 |
1996年 フジ系 | 渕野俊太 | (登場せず) | 赤羽秀之 | 遊井亮子 | 片岡鶴太郎 |
2007年 フジ系 | 榎木孝明 | 渡部豪太 | 成宮寛貴 | 国仲涼子 | 稲垣吾郎 |
2018年 NHK-BS | 益岡徹 | 中島広稀 | 中村蒼 | 志田未来 | 吉岡秀隆 |
なお、飯尾豊三郎は椿英輔と同一俳優の二役になるハズの役なので、上表からは除きました。 三島東太郎と飯尾豊三郎の演奏能力については、以下のようにまとめることができます。
三島東太郎にFluteが吹ける理由 | 飯尾豊三郎のFlute吹奏能力 | |
原作 | 全く説明されていない | 短く鳴らしただけで楽曲は演奏していない |
1954年版 | (未確認) | (未確認) |
1977年版 | 全く説明されていないが、演奏の巧拙レベルを少し低くしてある | 楽器を持って現れるだけで演奏はしていない |
1979年版 | 全く説明されていない | 楽器を持って現れるだけで演奏はしていない |
1992年版 | 東太郎は表向き椿英輔の息子で、幼時にマトモに習っていた | 吹くマネだけして物陰で東太郎が吹いていた |
1996年版 | 全く説明されていない | 英輔失踪後には登場しない |
2007年版 | 全く説明されていない | 微妙に難易度の低い、冒頭のみに限った演奏にしてあるが、それにしても異様に巧い |
2018年版 | (演奏する場面が無い) | 楽器を持って現れるだけで演奏はしていない |
さて、ここまで読み続けている方は既に御存知のハズですが、作品題名と同じ「悪魔が来りて笛を吹く」というFlute曲は、右手の中指と薬指を失った人物にも演奏可能なように作られているという設定になっています。 確かに、上記の2本は、Fluteを含む多くの西洋音楽の木管楽器の演奏上、失っても最も実害の少ない2本です。 しかし、それでも相当な実害があり、この2本を使わずに済むように作曲するのは困難です。 それゆえ、本当に設定通りで映像化できているかどうかが話題になるわけです。
先に結論を述べてしまうことにします。以下のようにまとめることができます。
1954年版 | ?(おそらく運指に関する設定を無視) |
1977年版 | ストーリー上は原作通りだが楽曲は違う |
1979年版 | 運指に関する設定を無視 |
1992年版 | 設定のうち、どの指が使えないかを変更 |
1996年版 | 原作の設定通りの楽曲を使用 |
2007年版 | 原作の設定通りの楽曲を使用 |
2018年版 | 原作の設定通りの楽曲を使用 |
それに対して、1977年版では、原作の設定を踏襲したストーリーを展開しているにも関わらず、使われていた楽曲は原作の設定通りになっていません。 但し、最初の4小節は原作通りの設定で演奏可能で、この部分を演奏する際の俳優の指の動きは、なんとなく正しい運指に近いものになっています。 もちろん、それ以外の部分については、映像上の運指は楽曲と全く合っていません。 生前の英輔が演奏する場面では、楽曲と合っていないのみならず「中指と薬指」を使っています。
そして、1992年版では、使えない指が「中指と薬指」であるという設定を「薬指と小指」に変えてしまっています。 この場合、楽曲に使えなくなる音が減って、作曲が大幅に容易になるのですが、運指が不正規のものになってしまうという欠陥があります。 つまり、音程制御や楽器支持の観点からは小指を使って奏するべきであるが、小指を使わずに演奏することも可能ではある、という音を大量に使うことになるのです。 この作品では、金田一耕助が実際の演奏を見ていて運指の問題に気付く(自分で確認しようとして巧くいかず困っていたら、下宿していた松月の女将が実は経験者だと判ったので吹いてもらった)という設定だったのですが、当初から小指を使わない演奏(=正しくない演奏法)になっていました。 まず「薬指を使っていない」ことだけ(あるいは、それに加えて「小指は押さえっ放しで動かしていない」こと)に気付き、その後で「小指を全く使わずに演奏することもできる」ことを教えられるという設定なら問題無かったんですが……
ちなみに、この1992年版では、楽器を吹いているフリをしている場面では運指がメチャクチャで、本当に吹いているという設定の場面では、指をキチンと合わせてあるか、さもなくば奏者の手元を映さないという、細かい芸当を志向した形跡があります。 しかし残念ながら、この芸当が崩れてしまっている部分があります。 これは、東太郎や飯尾豊三郎が仮面をして現れたために正体が判らないという設定にしてしまった副作用です。 つまり、話の流れから言えば仮面をした東太郎が本当に吹いているハズの場面で、運指がメチャクチャになってしまっているのです。 飯尾豊三郎のつもりで撮影したカットを使った結果であろうと考えられます。
なお、1979年版では、楽曲の運指に関する設定を無視しています。 (そもそも、三島東太郎の指が欠けているという設定がありません。) 1954年版は未確認ですが、ネット上で公開されているストーリーの原作からの変え方から考えて、おそらく運指に関する設定を無視しているであろうと推測できます。
ネット上の論評を見ると、1996年版が映像作品全体としても楽曲としても酷評されている例が目につきます。 映像作品に対する論評はここでは控えておきますが、楽曲に関しては、原作の設定通りのものを(おそらく)初めて実際に作って見せたという意味では、画期的な作品だと言えるのではないでしょうか?
「右手の中指と薬指」が使えないとなると、オクターブ12音のうち連続する3音(レ・ミ♭・ミ)と、少し離れた1音(ファ♯)が使えなくなります(厳密には、高音域のみ「レ」が使用可能で、最高音域のみ「シ♭・シ」が使えない)。 この制限下では、西洋音楽のどの旋法でも音階の中に「使えない音」が発生してしまいます。
ところが、幸か不幸か、西洋音楽の音階の一部の音を巧く選んで、その音を使わずに旋律を作ると、西洋音楽の和声法に従いつつも、東洋的な「エキゾチック」な雰囲気を表現できることが知られています。 使わない音を巧く選ぶと、非西洋の実際の旋法に近いものが作れるからです。 このような手法は何種類かありますが、そのうち日本人にとって身近なものとして「ヨナ抜き」があります。 これは、長音階で主音から見て4度と7度に相当する音、即ち「ファ」と「シ」を使わずに旋律を作ると、邦楽(雅楽)の呂旋法に一致するという技法で、演歌で多用されています。
ヨーロッパ人が「身近な異邦」である中東あたりの音楽を表現するのに多用されている手法に「ジプシー音階(ハンガリー音階)」というものがあります。 これは、短音階の4度と7度(ラを主音とした場合の「レ」と「ソ」)を半音高くするのが基本とされています。 但し、4度については元の短音階のままで使うこともあります。 理由の一つは7度の方が雰囲気を出すうえで重要だからですが、もう1つの理由として、7度だけを半音高くしたものは、「和声的短音階」と呼ばれる、西洋音楽では「非旋律的」とされていて和声をつけるのにだけ用いられる旋法と一致するので、西洋音楽の技法が使いやすいということもあるでしょう。
そして、この「半音高くする音」は、1つ上の音に「ぶら下がって付属している」ような性質があるため、この音を使わない形で(もちろん、半音高くする前の元の音も使わずに、つまり両方とも使わずに)、旋法の雰囲気を保った旋律を作ることができます。 そこで、7度の音が問題の「使えない音」に相当するように選べば、与えられた制限下でジプシー音階の旋律を作ることができることになります。 具体的には「ファ」を主音とする短音階、即ち「ヘ短調」にして、「ミ」や「ミ♭」の音を使わずに済ませるということです。 (実はここで「短音階」であることが重要で、「ヘ長調」だと「レ」の音が必要になるので破綻します。 「ヘ短調」の場合は「レ♭」を使うので問題ありません。)
実際、1996年版・2007年版・2018年版とも、作品中で使われていた楽曲は「ヘ短調のジプシー音階」で書かれています。 2018年版では、後半の展開部で、運指が複雑になり単純に「ジプシー音階なら良い」ということにはならない高音域も多用していますが、かなり苦労して使える音を選択しています。
原作では、この楽曲のことを形容するのに、ジプシー音階に基づくFlute曲として有名なハンガリー田園幻想曲(ドップラー)を引合いに出しています。 原作者には、上述の理路が理解できるほどの音楽理論の知識は無かったようですが、感覚的に理解できていたのかもしれません。
原作は元々は雑誌連載で発表されたものですが、その際、設定に見合った曲の楽譜を掲載しようとしたようです。 ところが、三島東太郎の欠けている指を誤って左手と書いてしまい、連載途中で訂正するわけにもいかず、掲載を断念したのだとか。 「左手の中指と薬指」が使えなければオクターブ12音のうち連続する4音(シ♭・シ・ド・ド♯)のみが使えて他は使えない状態になってしまい、これでは効果音的な曲しか作れません。 ちなみに、雑誌連載終了後に単行本として出版し直した際には、この誤りは訂正されたようです。
この経緯は、雑誌上での大橋国一と横溝正史の対談(「音楽の友」1974/1「歌手が来りて推理小説を語る」、講談社「新版横溝正史全集18 探偵小説昔話」(1975)にも収録、ネット上では「横溝正史エンサイクロペディア『悪魔が来りて笛を吹く』幻の譜面を探せ」に該当部分引用)でもコメントされていますが、左右が全く逆の話になってしまっています。 もちろん、全てが逆になっていれば、対談の中では話の辻褄が合ってしまうわけで、それゆえに誤りに気付かなかったのでしょう。 正しくは「“左”と誤ったのを“右”に訂正せねばならなくなった」のです。
誤りが訂正されないままになっているという情報をネット上で見かけましたが、明らかにガセネタです。 現在出版されている文庫版では正しくなっています。 このような情報が流布している原因に、上述した対談での正誤の取り違えがあるかもしれません。 取り違えた正誤を現行版と比較して「未訂正」であると判断した可能性が考えられるからです。
運指の問題は、推理小説としてのトリックにもなっていますし、客観的に成否が判断できる問題です。 しかし、原作では楽曲がどのような「曲想」であるかも記述されています。 各映像作品で使われた楽曲がこの記述に合致しているかどうかは、極めて判断が困難です。
原作の冒頭で曲想について記述している部分は、3段落12文632文字にわたっています。 そのうち「凄然たる鬼気」「呪いと憎しみの気にみちみちた」「徹頭徹尾、冷酷悲痛そのもの」「文字どおり悪魔の笛の雄叫び」「ドスぐろい血のにじみ出るような、呪詛と憎悪のメロディー」というような描写は、主観的にしか判断できない問題です。 各作曲者とも、この雰囲気を目指そうとしていることは解るのですが、その成否を客観的に評価することはできません。
一方、「たしかに一種異様なところがあった。それは音階のヒズミともいうべきもので、どこか調子の狂ったところがあった。」という描写は、西洋音楽の標準的な音階から外れているために違和感を感じるという意味に解するとすれば、ジプシー音階などの標準的でない音階に基づいて旋律を作れば「半ば自動的に」そういう結果になります。 「ハンガリアン田園幻想曲に似たところがある」という描写も、前述したようにジプシー音階のことを指していると考えられますから、同様です。 そして、標準的な音階を使えないことが「指の欠損」という設定に関連していることも前述の通りです。 つまり、この「音階のヒズミ」という描写は「指の欠損」という設定と表裏一体の関係にあります。
ジプシー音階を採用している1996年版・2007年版・2018年版は、この「音階のヒズミ」という描写に従うという条件を満たしていることになります。 また、1977年版はジプシー音階ではありませんが、標準的な音階から外れた音を多用するということは実行しており、やはりこの条件を満たしていることになります。 1992年版は速いスケール(音階をそのまま奏する楽句)を中心とする曲で、そのスケールが不自然に音を抜かす技法を使っているので、やはりこの条件を満たしていると言えそうです。
しかし1979年版は、ゆっくり流れる陰鬱なメロディーで、原作の「音階のヒズミ」という描写を再現しようとする意思は無さそうです。 そもそも1979年版は「指の欠損」という設定を放棄していますから、「音階のヒズミ」という描写を維持する必要も無いということにはなるでしょう。
原作には「クレッシェンド(次第に強く)の部分のもの狂わしさ」という描写もあり、さらにそれを補足して「闇の夜空をかけめぐる、死霊の怨みと呪いにみちみちた雄叫び」と表現しています。 「もの狂わしさ」や「死霊の怨みと呪い」云々は主観的ですが、クレッシェンド云々は客観的に判断できるので、それを手がかりに考えてみると、この描写を忠実に再現しようとしているのは2007年版だけであることが判ります。 2007年版では、別稿にも書いた「中間展開部から主題再現部へ戻るところの、せきこむような楽句」の中で、明らかにクレッシェンドを意図的に強調した部分が2回続きます。 この部分を採り出して作った挿入曲を効果音的に利用するのに好都合ということもあったと思われますが、原作の忠実な再現にもなっているわけです。
1996年版には、中間部に短いクレッシェンドを多用した部分があり、フラッター(舌を細かく振動させながら息を出すことによって羽ばたきのような音を出す奏法)やトリル(隣り合う2つの音を細かく繰り返す音型)で「迫られるような」雰囲気を出しています。 この部分が原作の描写に対応すると言えなくも無いのですが、「クレッシェンドの部分」と呼ぶには各々が短過ぎますし、「もの狂わしさ」と呼ぶには少々物足りない気がします。
2018年版の後半(最後まで演奏されていない可能性が高いので、中間部のつもりかもしれない)は「もの狂わしさ」と呼ぶに相応しいものではありますが、「クレッシェンドの部分」とは呼び難いものです。 もちろん、音型の盛り上がりに合わせたクレッシェンドは当然あるのですが、特にそれを強調したものではありません。
1992年版は最初から最後までずっと「もの狂わしい」雰囲気で、そういう「部分」はありません。 クレッシェンドも音型の盛り上がりに伴う自然なものだけです。 1977年版は、ディミニュエンド(クレッシェンドの逆)で不気味な余韻を引く手法が主体で、クレッシェンドを強調した部分は中間部の最後に短く出てくるだけです。 1979年版は、前述したようにゆっくり流れる陰鬱なメロディーで、クレッシェンドをことさらに強調した部分はありません。
劇場映画である1979年版はサウンドトラックが発売されており、楽曲だけを音楽として鑑賞することが容易です。 しかし、テレビドラマ版は何れも「楽曲だけ」の音源が一般公開されていません。 1977年版・1992年版・2018年版は放送された形をビデオテープやDVDに収録したものが発売されていますし、他もテレビ放映をエアチェックすれば楽曲を聴くことができます。 しかし、演奏が全曲ではない、科白や効果音が重なっている、壁の向こうから聞こえているという設定で音量が制御されている、などの理由で、そのまま音楽として鑑賞するに適した形にはなりません。
2007年版は、問題の楽曲に伴奏をつけたものを番組テーマとして使っており、エンドクレジットの分には効果音等も入っていないので、そのまま音楽として鑑賞することができます。 しかし、伴奏のついていないソロの演奏とは微妙に異なっています。 楽譜上の長さ(小節数)は同じですが、冒頭部は音がオクターブ違っているし、アーティキュレーション(個々の音の表情に関する指定=スタッカート・レガートなど)が違っている部分もあり、テンポの設定もかなり異なります。 そして、科白が重なったりしていないソロ演奏はテレビ放映中にはありません。
そんな状況の中、1977年版の楽曲を「音源」として再現したものがネットで公開されていることに最近気付きました。 テレビドラマ中で何回か演奏される中から「音源」として使える部分を取り出して繋ぎ合わせて作ったようです。
1977年版にはフルートソロの演奏が以下の5回あります。
ネットで公開されている「音源」は目賀博士がレコードを止めた50小節目までで終わっています。 それ以降は1回しか演奏されていないため、科白が重なったりしていない部分を選ぶということができなかったのかもしれません。
2015年公開分は、三島東太郎が飛ばして演奏した4小節が抜けています。 2018年公開分では、この4小節を補おうとしたようですが、何故か4小節が抜けた形で三島東太郎が演奏を終えたところ(40小節目)まで一旦行ってから、31小節目に戻って今度は抜けた4小節が補われた形で50小節目まで進んでいます。
なお、2018年公開分は、1977年版の後に1979年版・1992年版・2007年版・2018年版を続けたものです。 1979年版はおそらくサウンドトラック、2007年版はおそらくエンドクレジットのエアチェック(直前のラストシーンのBGMから続けている)ですが、1992年版と2018年版は1977年版と同様にして繋いだものと思われます。 1992年版では新宮を殺害する前に秌子の部屋から誘い出す場面での続き方に基づいて、タイトルバックの音楽(ソロではない)に繋いでいます。 2018年版は前半部を終えて後半部に入るとスグに中断しています。 おそらく、前半部はBGMとしての使用も含めて全体が4回も演奏されるのに対して、後半部は1回(金田一が東太郎を犯人として指摘する直前、関係者一同の表情を順に写す場面)を除いて最初の1小節前後しか演奏されないからだと思われます。 しかし、この後半部が長く演奏される場面には科白も何も入っていません。 そのまま使えそうなのに使わなかった理由は、よく解りません。
1979年版の冒頭クレジットでは演奏が植村泰一だとしか判りませんが、音楽全般の担当としてクレジットされている山本邦山が、問題の楽曲の作曲も担当したようです。 ちなみに、この演奏者は、原作者が雑誌連載時に楽曲の内容や楽譜掲載について相談した相手の一人だそうです。 (左右の誤りを指摘したのは別の人のようですが。)
1977年版・1992年版・1996年版では、音楽全般の担当として各々中村八大・津島利章・石田勝範がクレジットされています。 問題の楽曲の作曲も担当したかどうかは明らかではありませんが、可能性は高いでしょう。 ちなみに、1977年版では、本来のフルート独奏の他に、伴奏つきのバージョンや他の楽器が旋律を奏するバージョンを多種作って、効果音として多用しています。
なお、1992年版には「フルート演奏=旭孝、フルート指導=藤山明」、1996年版には「フルート指導=飯島茂則」というクレジットもあります。 指導というのは俳優に対する指導なのでしょう。 よく解らないのが、1996年版には「選曲=塚田益章」という謎のクレジットもあることです。 単に、音楽そのものの担当者とは別に、どの場面にどの曲を使うかを決定する担当者を置いたということなのでしょうか。 まさか、問題の楽曲が既存曲の流用ということは無いと思うのですが……
2007年版では、音楽担当としてクレジットされている佐橋俊彦が問題の楽曲の作曲も担当したようです。 別稿でも言及しているように、番組テーマや効果音としても多用しており、かなりの精力を注ぎ込んだ作品のようです。 ネット上に2007年版に演奏指導で関わった人に師事している人の日記がありました(1年以上経過すると翌年の日記で書き潰すようですが、このページの初稿執筆段階ではgoogleのキャッシュに残っていました)。 作曲者直筆の写しを見せてもらったとのことですが、異名同音(おそらく中間部の半音進行に出てくる分でしょう、私も聞き取りを試みた際に書き方を迷いました)を細かく書き分けたり、かなり繊細に作られているようです。
2018年版では、エンドクレジットでわざわざ“「悪魔が来りて笛を吹く」作曲”として阿南亮子がクレジットされています。 他に「フルート指導=長堀美佳」のクレジットがありますが、それ以外に音楽に関するクレジットは(「音声」「音響効果」以外には)ありません。