俗っぽい省略形はあまり使いたくなかったのですが、タイトルが長くなるのを避けました。 ちなみに、「Romeo」のカタカナ書きや“カタカナ式発音(?)”は「ロメオ」よりも「ロミオ」の方が優勢だろうと思うのですが、略すときは圧倒的に「ロメジュリ」が優勢なんですね。 まあ、単に「ロミジュリ」では発音しにくいからだと思いますが。
ところで、この物語、「対立する家に属する恋人たちの悲劇」という大まかな設定や、ジュリエットが仮死薬で死を偽装して問題解決を図るという重要な設定は有名ですし、バルコニーの場面を代表とする有名な場面もいくつか指摘できるのですが、そのわりには、細かい設定を知っている人は意外と少ないのではないかと思います。 例えば、以下のようなことは御存知でしょうか?
原作であるシェークスピアの戯曲はこの話を5幕で構成していますが、プロコフィエフのバレエでは「プロローグ+3幕+エピローグ」に再構成しています。 プロローグは単なる前奏曲ですが、エピローグは短いながらも悲劇の結末を迎えるクライマックスの場面なので、「バレエの第4幕」と表現する場合もあります。
組曲は3編ありますが、単純に抽出したものではなく、バレエとの対応関係はかなり複雑です。 この対応関係を、原作のストーリーに沿って別添資料のように整理してみました。 この複雑な代物を理解せよとは言いませんが、全体のストーリーがどのようなもので、今回取り上げる曲がどの場面なのかは、しっかり頭に入れておいてください。
インターネット向け補記(2006年3月+11月補足) |
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シェークスピアの戯曲は、現在読まれている形では「幕・場」に別れていますが、これは作者自身が設定したものではなく、後世の編集者が作品を分析する作業の一環として決定したようです。 特に「場」は、物語上の「場所」の切り替わりを整理したもので、戯曲としての流れの区切りとは必ずしも一致しません。 科白が「場」を跨いで連続している例もあります。 |
「ロミオとジュリエット」という物語自体はシェークスピアのオリジナルではありません。 誰のどのような作品を誰がどのように改作したかを追跡して、シェークスピアの作品にまで至る歴史的経緯を明らかにした研究も多数あるようです。
では、何故「シェークスピアの」ロミオとジュリエットという形で知られているのでしょうか? 直接には「シェークスピアの戯曲」の形でこの物語が高く評価されて広く知られるようになったからであり、この時代の演劇がイギリスという国で高く支持されていたからということでしょう。 とはいえ、単にそれだけでこの物語が「シェークスピアのもの」になったわけではなく、彼の戯曲化も素晴らしかったのです。
シェークスピアが加えたストーリー上の改変のうち最も重要なものは、出会いから悲劇の結末までをわずか5日間という設定にしたことだと言われています。 日曜日の舞踏会で出会った直後の深夜のうちに有名なバルコニーの場面へ展開し、月曜日の昼には秘密に結婚してしまうものの、その日のうちにロミオが決闘に巻き込まれ、追放刑に処せられて火曜日の夜明けまでに去らねばならなくなる。 一方で、以前からジュリエットを嫁に欲しいと申し出ていたパリスの申し出を親が受入れて翌日にも結婚という話になり、ジュリエットが仮死状態になる薬を飲んで「死体」で発見されるのが水曜日の朝。 木曜日の夜にはロミオがジュリエットの墓前でパリスと決闘して倒したあと自殺し、目覚めたジュリエットも後を追う……
実はシェークスピアの直接の原作とされる作品でも、出会いがクリスマスで結末は翌年の秋なのです。 それを目まぐるしい急展開にすることで悲劇性を高めたわけです。
このような急展開を可能にした要因の1つに、当時のイギリス演劇の形態があるとも言われています。 当時の演劇には日本の落語に通じるような側面があって、台詞回しを聴いて楽しむものだったようです。 演出上も、大道具による場面設定を一切行わずに、役者の動作と台詞だけで、そこがヴェロナの街の広場にもジュリエットの寝室にも変化するわけです。 台詞回しには駄洒落の言合いや意図的な言い間違いなどの言葉遊びが多用されてテンポ良くポンポンと展開していくわけで、そうなるとストーリーもテンポ良く展開していくのが自然ですよね。
参考文献:新潮文庫「ロミオとジュリエット」(中野好夫 訳・解説)
翌月号での補足 |
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先月の「だから何やねん」で「ロミオとジュリエット」の日本語訳が文庫本で4種類確認できたことを手書きで補足しましたが、その各々の詳細が整理できたので、お知らせします。
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インターネット向け補記(2002年10月) |
原作の全訳と思われる文庫本は、6月時点で上記以外に1種類(旺文社文庫)確認できていましたが、品切れ入手困難のため、言及しませんでした。
また、書名が「ロミオとジューリエット」であるために6月時点での検索から漏れてしまったもの(岩波文庫)もあります。
「文庫」に限定せず「新書」にまで検索対象を広げると、さらに1種類(白水Uブックス)確認できます。
なお、上記「ポプラ社文庫」の製本サイズは「新書版」なので注意してください。
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インターネット向け補記(2006年3月+4月補足) |
新潮文庫の中野訳が改版されたという情報を得たので、調べてみたところ、活字の大きさなどレイアウトを変えただけで、僅かな誤植修正程度しか内容は変わっておらず、ISBNも同じでした。
ことのついでに文庫版全体について改めて調べ直してみたところ、角川文庫版が「新訳」に変わっていました。
表紙装丁は前版と同じで、解説も同じ筆者が前版の文章を半分くらい使い回して書いていますが、本文は根本的に違っています。
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第1回の別添資料に原作とバレエの対応を示しましたが、この中で目につくことの1つに、バレエの後半の展開が性急なことがあります。 原作では、運命が狂いに狂った揚げ句の果てに悲劇的結末に至ってしまうという経緯が細かく設定されているのですが、それがバッサリと削られてしまっているのです。 まず、ロレンスがジュリエットの「死」の真相をロミオに伝えようとするのですが、伝染病絡みのトラブルで連絡が取れなくなります。 何も知らないロミオは自殺するためジュリエットの墓前に至り、回向していたパリスと決闘になります。 この騒ぎで夜警が来てしまったために、仮死状態から醒めたジュリエットを連れ出しに来たロレンスが慌てて隠れることになり、ジュリエットの後追い自殺を止め損ねるわけです。 以上の経緯はバレエには一切ありません。
これは、おそらくバレエとして成立させるための都合だと思われます。 バレエでは「パ・ド・ドゥ(pas de deux=英訳するとstep of two)」と呼ばれる、主役またはそれに準ずる男女2名による踊りが重要な「見せ場」となります。 ところが、物語の後半は二人が全く逢えないまま悲劇的結末へ向かうので、主役によるpas de deuxが全く設定できません。 これではバレエとして面白くないから、省略してしまったのでしょう。 なお、初期のバージョンでは、結末がハッピーエンドに改変されていたようですので、それと矛盾する設定をバッサリ削ったことの名残という側面もあるかもしれません。
その他にも、pas de deuxを増やすのが目的と思われる改変が認められます。 即ち、シェークスピアの原作で二人が一緒に居るのは、舞踏会での出会い・秘密結婚式・最後の一夜の後の別れの3場面しか無いのですが(有名なバルコニーの場面では二人の間に距離があり、最後の一夜の時には縄を使ってバルコニーを登り降りする設定)、バレエでは舞踏会が終わった後も二人だけでしつこく踊ってるし、バルコニーの場面の後もロミオが寝室まで登ってきてまた踊るという具合に、話が変えられています。
さらに、冒頭でいきなりロミオが出てきて一人で踊るの(全曲版の2&3曲目)も原作にはありません。 原作でロミオのことが台詞回しで説明されているのの代替として設定されているという論評がありますが、ちょっと納得し切れない部分があります。 単に冒頭のインパクトとして、主役の踊りを出したかっただけだと思うのですが……
第1&第2組曲の作品番号は、バレエの作品番号(Op.64)に枝番であることを意味する「bis(2番目)」「ter(3番目)」を付けたものですが、第3組曲はOp.101で、全く別の曲として扱われています。 第3組曲だけ成立の時期や事情が異なるのです。
第1&第2組曲はバレエ(1938年)より早い1936〜7年の初演です。 1935年にはできていた音楽を「こんな曲では踊れない」と酷評されて契約を反故にされ、怒って組曲を先に初演し出版したらしいのです。その後も不評は続き、バレエ版の編曲が第三者に改変されたりしてしまいました。 現行の楽譜を比較しても、バレエ版では音色や音楽性を犠牲にしてでも旋律やリズムを聞き取りやすくしたらしいことが判ります。 作曲者自身、晩年に「音楽的にマトモなバレエ版」を出版しようとした形跡があるようです。
このような経緯のせいか、組曲にはストーリーより音楽的な構成を優先する傾向が認められます。 例えば、第1組曲を締めくくる「ティボルトの死」は、確かに音楽的には「大団円」にしたいような曲ですが、物語上は「悲劇の始まり」なんですよね。 とはいえ、第1組曲は「ティボルトの死」以前の場面の曲のみで構成され、冒頭2曲が街の風景ですから、ストーリーを全く無視しているわけではありません。 ただ、3曲目の順序が完全なストーリー無視です。 6曲目と似た雰囲気なので続けるのを避けたのでしょう。
第2組曲は1曲目が「悲劇の背景たる社会状況」、続く2曲が「社会のしがらみに抗しようとした人物」になっていて、全体は何となくストーリー順ですが、それだけでは物語として成立しにくいような選曲になっています。
これに対して、第3組曲はバレエ成功以後のもの(1946年初演)で、「落穂拾い」の性格があります。典型的なのは3曲目で、ジュリエットに関する「残りの旋律」を寄せ集めたものです。
他の曲(最後以外)も、以前の組曲に出てこないモチーフを中心に展開する曲を選んでいます。
そして最後の1曲は初期のバレエ版(結末がハッピーエンドに改変されていた)には無かったと思われる終曲です。
第2組曲の発表がバレエの結末を悲劇に戻す以前かどうか、第2組曲の終曲がハッピーエンドの結末に準拠しているかどうかについては、入手した情報では確認できませんでした。
あくまで諸状況からの推測です。
小倉重夫(1995)バレエ《ロメオとジュリエット》op.64,作曲家別名曲解説ライブラリー(20),音楽之友社
山口博史(1998)プロコフィエフ《ロメオとジュリエット》組曲第1番〜第3番解説,全音楽譜出版社
インターネット向け補記(2002年9月) |
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書いた後で、小倉(1995)をよく読んでみたら、「1938年のバレエ初演に際して、結末が原作通りの悲劇に改められた」という趣旨の記述がありました。 これを信用するならば、矢張、第2組曲はハッピーエンドの結末(ロミオが服毒する前にジュリエットが目覚め、手に手を取って街から逃げ出して終わり)に準拠していることになります。 第2組曲の終曲をバレエ版と比較してみると、最後の「ジュリエットの目覚め」の直前に、バレエ版にのみ、高音楽器の低音域によるロングトーン(音色を変えて2発)が加えられていることが判ります。 これは「ロミオの死」を意味するのではないでしょうか。 |
2007年2月 本文の接続詞を1ヶ所修正 |
第2回でも説明したように、当時のイギリス演劇は台詞回しを聴いて楽しむものでした。 その意味で重要な脇役が「ジュリエットの乳母」と「マーキュシオ」で、この点はシェークスピアの脚色の中でも特に傑出した部分であると評価されているようです。 特に、ロミオの友人で悲劇の発端になった殺人事件の最初の被害者であるマーキュシオには、さらに重要な役割があります。 聴衆を引き込むような陽気な台詞回しによって、無理なく状況説明をしてしまうという効果が発揮されているのです。
プロコフィエフもこの2人に独自のモチーフを与えていますが、マーキュシオのこの役柄を、「台詞」というものが存在しないバレエにそのまま引継ぐことはできません。 そこで、まず状況説明の役割は市民の踊りに替えてしまい、踊りを愉しむ場面を増やしています。 さらに、マーキュシオの陽気な性格を表現するために、エピソードを2つ創作して 「マーキュシオの踊り」を披露する場面を増やしています。 また、原作ではロミオとベンヴォリオが舞踏会の情報を偶然聞きつけ、マーキュシオを誘って潜入するのですが、バレエではマーキュシオが誘ったことになっています。 創作エピソードの1つは舞踏会で陽気におどけて人気者になる場面、もう1つは第3回で述べた「舞踏会後もしつこく踊っている二人」をティボルトとパリスが発見して咎めようとするのをマーキュシオが妨害するというものです。
プロコフィエフは他にも2人の脇役に独自のモチーフを与えています。 1人は、ヴェロナ大守を勤める大公エスカールですが、要所で2回雷を落とすだけです。 もう1人は、対立する両家の和解を目論んで秘密結婚式を仕組んだ、僧ロレンスです。 ロレンスのモチーフは音楽的にも重要な扱いを受けていますが、バレエの中での出番は減っています。ジュリエットが出てこない場面(バルコニー直後の早朝に訪れたロミオと秘密結婚の計画を決める場面・追放刑で消沈しているロミオをジュリエットの元へ送り出す場面)が削除されているのです。 演劇では台詞回しと舞台上の立ち位置を利用してコロコロ場面を替えることができますが、バレエは台詞が無い上に舞台を目一杯使って踊るので、ロレンスの出番を集中させることで場面転換の回数を減らそうとしたのかもしれません。
プロコフィエフは1891年にウクライナの農村で生まれました。 ペテルブルグ音楽院を卒業した1914年に第一次世界大戦が始まり、1917年にはロシア革命が起こるなど、音楽家として駆け出しの時期に祖国の政治情勢が激変するという運命に見舞われました。
大戦勃発時にはヨーロッパ旅行を終えて創作意欲に燃えていたようですが、時節柄なかなか思い通りに上演が実現しませんでした。 そこで、1918年に渡米していますが、このとき日本にも立ち寄っています。 当時のプロコフィエフは「作曲もするピアニスト」と認識されていたようで、日本やアメリカでは演奏会で稼いでいたようです。 結局アメリカでは作曲者としては受入れられずにヨーロッパに本拠を移し、紆余曲折の末、1936年にモスクワに家族を呼び寄せて、以後は専らロシア国内で活動しています。
ロシアの社会主義体制では、芸術は政治からの干渉を強く受けており、芸術的な価値観の対立が権力闘争化したりしました。 「ロミオとジュリエット」の当初版がハッピーエンドだったのも、政治的駆け引きの結果だと言われています。 そして、政治の波に揉まれて不幸な晩年(特に1948年以降)を送り、1953年に亡くなっています。
ピアニストとしても優秀だったプロコフィエフは、主な管弦楽作品のピアノ版を自身の手で作っています。 「ロミオとジュリエット」も例外ではなく、10の小品集(Op.75)を1937年に発表しています。 どうしても雰囲気が変わってしまっている曲もありますが、声部が多数あるハズの曲を巧く融合させて見事に編曲してある例も見られます。 なお、基本的には組曲を元に作られていますが、流石に「ティボルトの死」(第1組曲第7曲)の後半は ピアノ版にはならなかったようで、この1曲だけは組曲での形にはなっていません。 バレエ版の「マーキュシオ」(舞踏会で笑いをとる場面)と同じ構成です。
ピアノ版「ロミオとジュリエット」の構成は以下の通りです。
(第3組曲発表以前の作品であることに注意)
1.民衆の踊り(第1組曲第1曲)
6.モンタギュー家とキャピュレット家(第2組曲第1曲:冒頭以外)
2.街の目覚め(第1組曲第2曲)
7.修道士ロレンス(第2組曲第3曲)
3.客人たちの到着(第1組曲第4曲)
8.マーキュシオ(バレエ版第15曲)
4.少女ジュリエット(第2組曲第2曲)
9.百合の花を持つ娘たちの踊り(第2組曲第6曲)
5.仮面(第1組曲第5曲)
10.別れの前のロミオとジュリエット(第2組曲第5曲)
森田 稔(1995)プロコフィエフの生涯と芸術,作曲家別名曲解説ライブラリー(20),音楽之友社
実は、「ロミオとジュリエット」の音楽化は、歌劇という形が数としては最も多いようで、文献(1)によると14作品を数えるとのことです。 ところが、最近ではグノー以外の作品を聴くことは稀です(JEUGIAのページで検索してみたところ、他の歌劇としてはディリアスと山田耕筰の各々抜粋が出てきたのみでした)。 他に、ベルリオーズの劇的交響曲もよく演奏されますが、頻度はプロコフィエフの比ではありません。
何故ここまで他を圧倒してしまっているのでしょうか? 音楽の完成度という主観的な問題を指摘する意見も強いようですが、「管弦楽だけでストーリーを追える」唯一の作品だということもあるでしょう。 チャイコフスキーは物語のモチーフをストーリーにこだわらずに並べたものです。 ベルリオーズは合唱入りであるうえに、ストーリーを細かく追わずに表現する場面を限定(「序章」「舞踏会〜バルコニー」「ジュリエット葬送〜悲劇的結末〜和解」の3部構成)しています。 市販のCDなどでも「マブ女王のスケルツォ」だけを取り出して「管弦楽の小品」として扱っている例が目立ちます。 (マブ女王=舞踏会潜入時のマーキュシオの台詞に登場する「夢を見せる妖精」)
また、第4回で説明した不幸な生い立ちが、逆に幸いしたのかもしれません。組曲が先に流布することによって、ロシア国外での「演奏会用音楽」としての評価が先行したと考えられるからです。 バレエ初演(1938)もチェコスロバキアで行われ、世界的評価を追うような形で、ようやく1940年にロシア国内での初演が実現しています。
ところで、参考資料(2)によると、チャイコフスキーやベルリオーズをバレエ化したものがあるようですが、曲の内容からいってイメージのみの小品にしかならないでしょうね。 ベルリオーズは合唱が入っているという意味でも難しさがありそうです。
というわけで、特に最近はバレエ化といえばプロコフィエフなのですが、バレエ界の側の認識は、単に「他に無いから」という程度のようにも思われます。 バレエ初演の頃にはプロコフィエフの作品を基本的には忠実に演奏していたらしい(どの曲を差し替えたかという記録がある)のですが、最近のバレエ作品を市販のVTRやDVDで見てみると、曲順がメチャクチャに入れ替えられている例も見受けられます。
(1)小倉重夫(1995)バレエ《ロメオとジュリエット》op.64,作曲家別名曲解説ライブラリー(20),音楽之友社
(2)
http://www.linkclub.or.jp/~pulse/tosho/k-syoko/ks01_02.html#ks01-09(「図書の家/萩尾望都研究室」より「萩尾作品におけるバレエ」のコーナー)
登場人物名などを変えてしまった翻案(「ウェストサイド物語」など)を別にすれば、第二次世界大戦後の映画化は、新しい方から1996年版(バズ・ラーマン監督)1968年版(フランコ・ゼッフィレリ監督)1954年版(レナード・カステラーニ監督)となります。
レオナルド・デカプリオ主演の1996年版は、舞台を現代アメリカに置換えるという大胆な改変を加えていて、 全体的に荒唐無稽な造りになっています。 しかし、唄以外の台詞は原作から抽出したもの(細かい追加や改変は多数あり)で、言回しも古臭い表現のままです。 原作の設定を強引に残した部分も多く、一介の警察署長に処刑や追放を宣告する権限が与えられているというのは謎ですし、結末にも少々無理があります。
オリビア・ハッセーがジュリエット役でデビューした1968年版は、原作の台詞にかなり忠実です。 使用人たちの会話による状況説明など映像のみで訴える方が良いような部分は丸々削除し、それ以外の部分も細かく細かく台詞を省略していまずが、残した部分は全く改変せずに使っており、原作に無い台詞はほぼ皆無です。 映像にメリハリをつけて有名な台詞回しを残せるように工夫した形跡も数ヶ所認められます。
1954年版では、原作の台詞の一部を連続して長く残し、他は思いきって丸ごと捨てている傾向があります。 ストーリーの細かい部分を変えてしまったり、原作に無い重要な台詞が加えられたり、原作の台詞が本来とは違う場面で使われている例も多いようです。 マーキュシオの長い台詞回しが全く無いのは大きな改変だと言えるかもしれません。 また、映像上の時代考証(街の構造など)を重視した形跡が認められますが、それゆえに無理を生じていると思われる部分(そもそも原作が正しくないということ?)もあります。 場面展開が唐突なために、原作を知らないと理解困難な部分もチラホラ。
原作(と1954年版)ではジュリエットの死の真相は使僧が伝染病のために足留めされてロミオに伝わらなかったのですが、1968年版では単にロミオの従者が使僧を追い越してしまっただけですし、1996年版では宅配便の不在配達通知が風で飛んでしまったことになっています。 このあたり、原作通りの映像化は難しいのかもしれません。 気になるのは、1968年版と1996年版で、最後のロミオとパリスの決闘が全く無いことです。 この話を入れると映像としてややこしくなるという判断なのでしょうか?
[V]ヴェロナVerona 第5幕第1場(追放中のロミオがジュリエットの訃報を聞いて帰還を決意する場面)を除いて、この街の中で全ての事件が起る。 [M]マントヴァMantova(英語名マンチュアManture) 追放されたロミオが滞在していた街 ヴェロナの南南西約35km ジュリエットの幼時に両親が滞在したことがある(乳母の台詞による) [T]トリノ [Mi]ミラノ [Vt]ヴェネチア(ヴェニス) [G]ジェノヴァ [C]カノッサ [B]ボローニャ [P]ピサ [F]フィレンツェ(フローレンス) [R]ローマ 実線:海岸線&現イタリア国境 網かけ線:18世紀以前の「イタリア諸邦」の概略北限 |
[V]ヴェロ・ビーチ 1996年版映画の舞台「ヴェロナ・ビーチ」は、この街が実在することを利用した駄洒落と思われる [M]マイアミ [C]ケープ・カナヴェラル [N]ニューオリンズ 実線:海岸線&フロリダ州境 |
謎の多いシェークスピアですが、研究者の数も多く、証拠となる史料も徹底的に探されているようです。 最近では、1564年に生まれて1616年に死んだ「ウィリアム・シェークスピア」という演劇関係者が存在したことは確実視されているようです。 ちなみに、没年は徳川家康と同じです。 活躍を始めたのは豊臣秀吉による天下統一の頃ですね。
シェークスピアと言えば「4大悲劇」が有名ですが、1600〜06年ごろの「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」の4作品のことで、「ロミオとジュリエット」は含まれません。 「ロミオとジュリエット」は、初演が1594〜5年ごろと推定される初期の作品で、完成度も低いと言われているのです。 確かに単純で理解しやすい物語であり、それゆえに今に至るまで高い人気を得ていると思われるのですが、逆に「深み」を欠く結果になっていると言えるかもしれません。
一般にシェークスピアは「座付作家」であったと表現されます。 当時は、イギリス社会で演劇というものの社会的評価が急激に高まっていた時期なのですが、彼の居た劇団は、その中でも最高の人気を誇っていたようです。 これは、脚本家が「身内」であり、観客のニーズや俳優の個性を的確に掴んだ作品を造り出していたことにもよっていると考えられているようです。 全盛期には「俳優集団が自ら経営する」劇団になっていたようで、経営者と現場とのトラブルを抱えていたライバル劇団との差がついたとも言われています。 シェークスピア自身も裕福な晩年を送っていたようです。
第2回でも述べたように、 当時のイギリス演劇は台詞回しを聞いて楽しむものでした。 舞台には、内舞台(幕つき)・外舞台(幕無し)・二階舞台(内舞台の上)という構造がありました。 大道具が無い代わりに、この舞台の構造をフルに利用した「見立て」を多用したようです。 そして、外舞台の三方に居る聴衆(観客とは言わなかった)に台詞を聞かせることで、舞台を転換していったわけです。 有名なバルコニーの場面でも、当然ながらジュリエットは二階舞台に居て、外舞台のロミオと対話するわけです。
安西徹雄(1994)劇場人シェイクスピア(新潮選書)
中野好夫(1951)「ロミオとジュリエット」解説(新潮文庫)
小田島雄志(1991)小田島雄志のシェイクスピア遊学(白水Uブックス)