通算第151回(2009年5月号)

 第20回記念演奏会となる次のオータムコンサートで採り上げる曲に関する話題を見ていきたいと思います。

第26講:第20回記念に向けて(第1回)

 アルフレッド・リードの曲の中に、シェークスピアの戯曲に基づくものがいくつかあります。 今回はその中から、喜劇の「お気に召すまま」に基づく作品を採り上げます。

 シェークスピアの喜劇は、「ロミオとジュリエット」や四大悲劇などの悲劇作品に較べて、一般の印象が薄いように思えます。 ひとつには結末の方向性が明確でストーリーが判りやすい悲劇に対して、喜劇はドタバタ騒ぎを無理矢理に収拾して終らせているようなものが多く、ストーリーが掴みにくいということがあるかもしれません。

 また、シェークスピアの場合「喜劇」という分類自体が便宜的ということもあるかもしれません。 後世の作品整理において、主人公が最後に死なず、かつ題材が歴史的事件でない作品を、ひとまとめにして「喜劇」と呼んだようなところがあるからです。 特に後期の作品は、何も解決しないまま無理矢理に終わらせてしまう「問題劇」と呼ばれる作品群や、ドタバタ騒ぎとは一線を画した「ロマンス劇」と呼ばれる作品群など、他の作品と一緒くたにはできないような作風のものです。

 「お気に召すまま」は、このような後期の作品群の少し前に書かれた、「ロマンス劇」の傾向を少し先取りした作品ともされるものです。 主な舞台は「アーデンの森」で、設定上はフランスにあることになっていますが、実際にはシェークスピアの故郷であるストラトフォード(ロンドンの北西、イングランド第2の都市バーミンガムに達する少し手前)の近くの森がモデルになっていると考えられています。 この森の中に、追放された前公爵をはじめとする人々が様々な理由で入り込み、あちこちで交錯します。 そして最後には、前公爵も復帰し、登場人物4組が一気に結婚するという無理矢理な結末で円満に終わるという物語です。



通算第152回(2009年6月号)

 「お気に召すまま」の内容について、もう少し詳しく見てみましょう。

第26講:第20回記念に向けて(第2回)

 シェークスピアの戯曲は、内容不明なものや贋作の可能性が高いものなどを除くと37作品が知られています。 そのうち26作品は主要登場人物を表現する題名になっており、8作品は内容の状況を表現する題名です。 残る3作品「お気に召すまま」「十二夜」「冬物語」は、内容と直接には関係しない題名になっています。 というわけで、「お気に召すまま」のストーリーを、前半を中心にざっと追ってみましょう。

 ヒロインのロザリンドは弟である現公爵に追放された前公爵の娘ですが、現公爵の娘シーリアと共に育てられていました。 一方、父の遺産を相続した長兄に冷遇されていたオーランドは公爵主催のレスリング大会で優勝し、ロザリンドと出会って互いに一目惚れします。 その直後、ロザリンドは現公爵から追放を言い渡されます。

 追放された前公爵は、近くの「アーデンの森」で暮していました。 ロザリンドは男装して森へ向かい、シーリアも付いて行きます。 オーランドも兄に命を狙われて森へ逃げ、前公爵に出会います。 オーランドは想いを詩に綴った紙を森のあちこちに吊るし、ロザリンドがそれを見つけます。 その後、2人は出会うのですが、オーランドは男装したロザリンドの正体に気づかず、それどころか彼(彼女)を相手に恋の告白の稽古をするハメに。 森の中では羊飼いたちの恋愛騒動もあり、恋模様が複雑に入り乱れます。

 その後、オーランドの兄や現公爵も森の中へやってきた揚げ句、各々に改心して財産や地位を返上するという、無理矢理な予定調和の結末に至るわけです。

 リードの楽曲は、このようなストーリーを追うものではなく、単にアーデンの森の情景を描写したものです。 もちろん、この森の中で諸々のできごとが起るわけですが、あくまでその「背景」に過ぎないと考えて音楽を作って行くのが得策でしょう。

 「お気に召すまま」の全訳は、文庫や新書では以下の4種が入手可能です。

岩波文庫(阿部知二訳)ISBN-10:4003220471 ISBN-13:978-4003220474 ¥525
新潮文庫(福田恒存訳)ISBN-10:4102020128 ISBN-13:978-4102020128 ¥380
ちくま文庫(松岡和子訳)ISBN-10:4480033157 ISBN-13:978-4480033154 ¥924
白水Uブックス(小田島雄志訳)ISBN-10:4560070210 ISBN-13:978-4560070215 ¥767



通算第153回(2009年7月号)

 第2部メインの「パイレーツ・オブ・カリビアン」について見てみましょう。

第26講:第20回記念に向けて(第3回)

 「パイレーツ・オブ・カリビアン(Pirates of the Caribbean=カリブ海の海賊)」は、2003〜2007年に公開された3部作(但し完結後に続編製作が決定)のディズニー映画です。 ディズニー映画というとアニメを連想する人が多いかもしれませんが、実写の名作も多々あります。 その中の1つです。

 この映画の面白いところは、ディズニーランドのアトラクションが先にあったということです。 ボート型のフロート式ライドでカリブ海の海賊航海を体験するという趣向で、本家ディスニーランドでは1967年から、東京ディズニーランドでは開業当初の1983年から運用されています。 このアトラクションをモチーフに、全く新たにストーリーを作って物語に仕立て、映画化したものです。 映画の人気を受けて、アトラクションの方にも映画の登場人物が出現する改変が2006〜2007年に施されています。

 ストーリーは、3部作で一応は続きになっていますが、第1作のみ少し独立性が高くなっています。 今回は演奏するのは、この第1作「呪われた海賊たち」(原題を直訳すると「黒真珠(ブラックパール)号の呪い」)の音楽をメドレーにしたもので、概ね映画での使用順に並べられています。 各々の曲名は、使用されている場面の近辺で話題になっている状況になっていますが、曲自体の情景にはあまり関係がありません。

 具体的には、最初の曲は主人公の海賊が登場する場面のもので、次の曲は物語の最初での主人公たち同志の争いの場面です。 中ほどは、第1作での敵役にあたる「呪われた海賊たち」の音楽です。 その後の緩徐部は最後の愛の場面の音楽ですが、主人公の青年が水中を泳ぐなどの「一見静かな」場面でも似た動機が使われています。 最後はエンドロールの音楽ですが、クライマックスの戦いの場面の音楽ともほぼ同じです。

参考資料

Wikipedia 「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」 「カリブの海賊



通算第154回(2009年8月号)

 第2部で映画音楽を採り上げる「タイタニック」について見てみましょう。

第26講:第20回記念に向けて(第4回)

 1997年に公開された映画「タイタニック」は、1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニック号の悲劇を題材にした物語です。 主人公を取り巻く中心人物たちは架空の人物ですが、その周囲の状況は史実を忠実に再現することを目指しているようです。

 物語は、「お宝」を目当てにしている1996年の調査団の光景から始まります。 生き延びて老婆となっていたヒロインは、海底に沈むタイタニック号から引き揚げられた思いで深い絵画をテレビで目にし、調査団の元を訪れます。 そして、彼女の思い出話という形で物語は進行して行きます。

 物語の冒頭で、調査団はタイタニック号の沈没に至る過程を、知られているデータから精密にシミュレーションしていました。 そして、この精密性は、物語の中での映像表現にも引き継がれているようです。

 例えば、沈没の過程で真っ二つに折れた船体の半分は、斜めになったり真っ直ぐ立ってしまったりします。 この様子も厳密な角度で再現しているわけですが、この時、当然ながら人や物が低い方へ落下して行きます。 この落下に要する時間が、完成した映像での再生時間で現実と同じになるように作られているようです。 また、事故のシーンのみならず、順調に航行するタイタニック号が通過していくシーンにおいても、実際に通過に要する時間と映像での再生時間を一致させているようです。

 悲劇的な物語を真迫性のあるものにするには、悲劇の背景となった状況がリアルに伝わってくるようにすることが有効です。 この映画では、そのための手段として、映像上の物理的リアリティを利用しているようです。

 そして、さらにそれを支えるために、この船の設計者を重要登場人物として扱っています。 処女航海だったため、史実として実際に設計者が乗船していました。 また、船の氷山への衝突方向が船の浮力を最も効果的に奪う形に運悪くなってしまい、それゆえに沈没してしまったというのも史実です。 この浮力の問題を設計者自身の口から語らせることによって、状況の深刻さをリアルに訴えかけているわけです。

参考資料

柳田理科雄(2001)「空想科学[映画]読本」、扶桑社、ISBN4-594-03198-6



通算第155回(2009年9月号)

 第2部で映画音楽を採り上げる「海の上のピアニスト」について見てみましょう。

第26講:第20回記念に向けて(第5回)

 この映画は元々イタリア語で、原題は「la Leggenda del Pianista sull'Oceano」(海の上のピアニストの伝説)です。 これを英語の国際公開版に作り替える際に「the Legend of 1900」と改題されました。 直訳すると「1900の伝説」で、素直に解すると「西暦1900年の伝説」となります。 初めて見ると何のことかと思うでしょうが、実は主人公の名前(の一部)が「1900」だというのはフザけていますね。

 話は主人公を良く知るトランペット奏者が、当時に関するアイテムと関わりながら回想するという形で進んで行きます。 主人公は国際航路の船内で生まれて遺棄され、船内で育てられ、一生上陸しなかったという設定のピアニストです。 誕生して船内で発見されたのが1900年だったことから、名前の最後に「1900」と付けられ、それが主人公を呼ぶ最も短い名前になったというわけです。

 その彼がピアノの才能を発揮し、船内バンドの一員として活躍するのですが、その契機となった「音楽との出会い」の場面で演奏されているのが、今回演奏する後半部分です。 主人公自身は主にジャズバンドの演奏形態で活躍しますが、少年時代にはまだジャズバンドが確立しておらず、オペレッタの流れを組む編成の船内楽団が居たという設定になっています。 そのため、この曲はSaxophoneの印象が薄く、PiccoloがFluteなどの高音楽器を伴わずに遊離して使われ、浮いて聞こえてくるような編曲になっています。 この時代には、ざわついた場所で演奏する楽団では、Piccoloの透過的な音色を利用して木管の旋律線を聞こえさせるということが普通に行われていたようです。

 一方、今回演奏する前半部分は、主人公が唯一の恋に際して即興で作り上げた曲です。 結局この曲は当の彼女には届かずに「幻の曲」になってしまったという設定なのですが、映画の最初の方で、その幻のハズの曲が突然現れて話題に登るところから、トランペット奏者の回想譚が始まり、物語の重要なキーになっていきます。 オープニングテーマやエンディングテーマにもこの曲が使われています。



通算第156回(2009年10月号)

 第2部で映画音楽を採り上げる「ファインディング・ニモ」について見てみましょう。

第26講:第20回記念に向けて(第6回)

 数十年前には海外の映画が日本で公開されるまでの時間が長く、その間に海外で観賞した人が評判を伝えるというのが一般的でした。 そのため、日本での公開に際して日本語として練られた題名がつけられることが多く、原題と全く無関係な邦題で知られているものも多々あります。 しかし、最近は盗撮対策で「世界同時公開」という手法さえも使われるような状況で、時間をかけて邦題を考えている余裕がありません。 そのため、題名を逐語訳すらせずに、原題のままカタカナ表記にして公開する事例が増えています。 この「ファインディング・ニモ(Finding Nemo)」も、その典型例の1つです。

 ちなみに「ニモ(Nemo)」という名前は、ジュール・ヴェルヌの「海底一万里」に登場する潜水艦ノーチラス号の艦長の名前から取ったとされていますが、「ネモ」と表記するのが普通です。 元々「誰でも無い」という人名としては全くフザけた意味のラテン語で、ラテン語としての本来の発音は完全に「ネモ」なのですが、英語では「ニモ」に近く発音されることが多く、それを「聞こえたまま」邦題にしたようです。

 今回演奏するのは映画のエンディングテーマで、本編中では全く使われていないようで、ストーリーの細部に直接の関係は無さそうです。 基本的なストーリーは、オーストラリア北東のグレートバリアリーフ(大堡礁)でダイバーに捕獲されたクマノミ(イソギンチャクとの共生で有名な魚)を父親が遥々シドニー湾まで追って行くという冒険譚です。 捕獲された息子の方も、水槽内の仲間と一緒にあの手この手の脱出を試み、各々の冒険を交互に追いながらストーリーが進行していきます。

 基本設定は荒唐無稽なのですが、背景となる舞台は、綿密な調査に基づいて、可能な限り現実に忠実に描写しようとしています。 例えば、大堡礁からシドニーへ向かうために利用したEOC(東オーストラリア海流)というのは北太平洋の黒潮に相当する流れで、ジェットの幅が狭過ぎるし境界も明瞭過ぎるのですが、基本的には間違っていません。 ただ、EOCを利用して行ったとすると、どうやって帰ってきたのか疑問なのですが、それは全く省略されています。 また、下水道を利用した脱出というのも、本当に可能かどうか製作地近辺(サンフランシスコ)の実地で確認したと、DVDの特典映像でコメントしています。



通算第157回(2009年11月号)

 アンコールで採り上げた「ハウルの動く城」について見てみましょう。

第26講:第20回記念に向けて(第7回)

 久石譲がジブリ作品の音楽を担当する場合、映画公開に先立って「イメージアルバム」を公開するという手法をよく使っています。 この手法を使う目的には事前の広報もあると思われますが、実際に映画に使われる音楽(サウンドトラックに収録されるもの)と違って映画の技術的な都合に拘束されないため、音楽家として自由に主張できるという目的で公開しているという側面もあるのでしょう。 例えば、第8講(1999年10月〜2000年1月)では、「もののけ姫」の音楽について、イメージアルバムや映画公開後に改めてまとめられた「交響組曲」をサウンドトラックと比較することで、作曲者の思い入れを垣間見ることができるのを見てきました。

 とはいえ、同じ「イメージアルバム」と言っても、作品によって位置付けは様々なようです。 「もののけ姫」のイメージアルバムは、電子音を多用するなど人手をかけない演奏形態で収録されていて、いかにも「試作品」という感じです。 「千と千尋の神隠し」では歌詞の入った曲を多数作り、1曲ごとに異なる歌手を呼んで各々のイメージを膨らませています。映画を見た後でイメージアルバムの歌詞の入った曲を聞くと、微妙にイメージが違ったり変にハマっていたりして、結構笑えます。 そして、「ハウルの動く城」では「イメージ交響組曲」と銘打ってフルオーケストラで収録しており、独立した音楽作品として完成させようという意図が見られます。

 ところで、「ハウルの動く城」の「イメージ交響組曲」を聞いて、誰もが疑問に思うであろうことがあります。 それは、サウンドトラック収録26曲のうち17曲に明瞭な形で現れ、映画「ハウルの動く城」といえば誰もが連想するであろうワルツ「人生のメリーゴーランド」の旋律が全く登場しないことです。 その他の主な旋律、例えば「城の魔法」「呪い」「新しい家族」あるいはFlügelhornが朗々と唄い上げる「秘密を解く洞穴」のテーマなどは「イメージ交響組曲」以来のものなのに、肝腎のメインテーマだけが企画の早い段階では着想されておらず、後から追加されたものなのです。 こういう経緯が垣間見れることも、イメージアルバムの面白さの1つと言えるかもしれません。



通算第158回(2009年12月号)

 「ハウルの動く城」について、もう少し見てみましょう。

第26講:第20回記念に向けて(第8回)

 「ハウルの動く城」は、宮崎アニメとしては数少ない「原作のある」作品です。 映画は原作の「Howl's Moving Castle」を直訳した題を使っていますが、原作の邦訳は「魔法使いハウルと火の悪魔」という題で、続編(ハウルとソフィーはチョイ役でしか出てこない)を含めたシリーズ全体を何故か「ハウルの動く城」と題しています。

 さて、原作のある映像作品で必ず話題になるのが、原作を忠実に映像化しているかどうかです。 もちろん、必ずしも原作に忠実である必要は無いのですが、特に原作に高い評価を与えるファン層が存在する場合には、その評価するポイントを無視してしまうと非難されることになります。 この意味で「ハウルの動く城」は強い非難を浴びている作品の1つです。 詳しくはネットで「ハウルの動く城 原作」などというキーワードで検索すれば沢山出てきますが、登場人物の行動の動機に関わるような根本的な設定を変えてしまっていることが特に非難されています。

 例えば、原作でも映画でも、ハウルは悪魔との取引で心臓を抜かれています。 原作では、そのため抽象的な意味での心も失って、歪んだ愛情表現に現れています。 そして、これは敵役である「荒れ地の魔女」についても同様であり、それがカカシや犬の正体に関わってきて、小説としての謎解きになってくるわけです。 ところが、映画ではこのような設定をやめてしまって、ハウルの行動動機に原作には無い「反戦」という要素を入れてしまいました。

 このように変えること自体は、ある意味「好き嫌い」の問題ですから、それなりに是認できる部分があるかもしれません。 ところが、この映画には「カカシのキャラクタ」をはじめとする「無しにした設定の帰結」が大量に残っていて、意味不明に陥っています。 また、必ずしも「無しにした」とは言えない設定についても、映画では意味不明になっている部分(例えば、ソフィーが無意識に使っていた「言葉の魔法」など)が多く存在しています。 意図的に説明を省いた部分もあるようですが、それにしても意味不明が多過ぎるのは困りものです。



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