通算第202回(2013年8月号)

 秋の演奏会でマーク・トウェインの名作「ハックルベリー・フィンの冒険」に基づく曲を採り上げます。 そこで、元の小説について見てみたいと思います。 以前にミシシッピ組曲を採り上げたときに、その第2楽章に関連して紹介した内容と重複してしまう部分もありますが、さらに詳しく見て行きたいと思います。

第35講:ハックルベリー・フィンのこと(第1回)

 「ハックルベリー・フィンの冒険」は1885年の作品ですが、その9年前に発表された「トム・ソーヤーの冒険」の続編という形になっています。 作者自身の実体験を元に創作を膨らませていったと考えられているこの作品で、トムは学校や教会などの堅苦しい場を抜け出しては、同じく抜け出してきた仲間たちや浮浪児のハックルベリー(ハック)と共に様々なイタズラや冒険を展開します。 その中で、トムとハックは村のならず者による殺人現場を目撃し、ここから話は終盤に向けて展開して行きます。

 二人は殺人犯が財宝を隠していることを識ります。 そして、彼が過去に収監されたときの判決を出した判事の未亡人に復讐しようとしていることに、尾行していたハックが気付き、通報して未亡人を助けた形になります。 一方、トムは村の子供たちの集団ピクニックで洞窟探検をしたとき、ガールフレンドのベッキーと2人で道に迷ってしまいます。 その途中で殺人犯に遭遇したことから財宝の隠し場所に気付き、救出された後しばらく経ってからハックと2人で財宝を見つけ出します。

 そういうわけで、トムとハックは大金持ちになってしまいました。 とはいっても子供のことですから、周囲の大人たちが財産を信託して利子を生活費に充てる形を整え、浮浪児だったハックは判事の未亡人が引き取り、教育を施されることになります。 しかし、浮浪児として自由に生きてきたハックにとって、その生活は苦痛そのもの、というところから「ハックルベリー・フィンの冒険」が始まります。

 そんなハックの元へ、行方不明だった因業な父親が現れました。 ハックは父親から逃れるため、自分の死を装って逃げ出します。 そして、ちょっとしたきっかけで逃亡する事態に陥った顔見知りの黒人奴隷ジムと共に旅を続けることになります。

 ジムが無教養ではあるが純粋で利他的な愛すべき人物として描かれているのに対して、現れる白人たちは、偽善者やら「王様」「公爵」を名乗る詐欺師たちやら、ロクでもない連中ばかり。 そのあたりのことは、次回以降で順に詳しく見ていきたいと思います。



通算第203回(2013年9月号)

 第3楽章の主題になっている詐欺師の「王様と公爵」について見てみましょう。

第35講:ハックルベリー・フィンのこと(第2回)

 小説「ハックルベリー・フィンの冒険」の中盤はハックたちが王様と公爵に振り回される展開ですが、彼らの登場は唐突でした。 追われてハックたちの筏に逃げ込んできたのです。 2人は追われる過程で偶然に合流したので初対面でした。 そこで自己紹介をする中で、一方が自分は親戚に爵位と財産を纂奪された公爵の末裔だと主張し、ハックたちに自分を「閣下」と呼ばせ、敬意を持って接するようにさせます。

 それを見ていたもう1人が、自分は王様だと主張します。 フランス革命勃発時の王太子で父王処刑後に獄中で即位したルイ17世は、獄死したと見せ掛けてアメリカに逃れたという伝説がありました。 自分こそがそのルイ17世の長じた姿だというのです。

 公爵は頭の切れる人物で、種々の状況を乗り切るアイディアを次々思いつきます。 ウロ覚えのデタラメなシェークスピアを尤もらしく演じる程度の演技力はあり、印刷工場に勝手に入り込んで必要なチラシ類をスグに作ってしまう技術もありました。

 一方の王様は「なりすまし」を得意としていました。 例えば、行き先の街の関係者に事前に接触して巧みな話術で細かい情報を聞き出し、その街に久々に帰ってきた関係者に成りすまして金品を詐取しようとしました。 獲れそうなものは全部獲ろうと深入りしている間に本物が現れ、結局損得はマイナスで逃げ出すというオチになりましたが。

 そんな2人が合流して最初に大騒ぎを起こしたのが、第1楽章の主題になっている、The Lazy Town(岩波文庫の訳では「だらけた町」)です。 小説では、この町の無気力な様子が詳細に描写されています。 ハックたちがやってきてスグに、喧嘩が殺人に発展した事件がありました。 集まった群集は、その場の勢いで犯人を私刑にしようと押し掛けます。 ところが、犯人に少し脅されると、あっさり解散してしまうのです。 この町で起ったできごとについては、次回に詳しく見てみたいと思います。



通算第204回(2013年10月号)

 第3楽章の主題になっている詐欺師の「王様と公爵」について、もう少し見てみましょう。

第35講:ハックルベリー・フィンのこと(第3回)

 ハックとジムの旅は、基本的には筏でミシシッピ川を下る旅です。 最初のうちは、ときどき様子を探りに上陸して事件に巻き込まれることを繰り返していました。 ある村で偶々ハックが世話になった一家、一見すると立派に生活しているようなのですが、実は村内の別の一家と際限の無い復讐合戦を展開していました。 目的もよくわからない銃撃戦で仲良くしていた少年も死んでしまい、悲惨な状態から逃れて筏に戻ることになります。 久々にミシシッピ川の雄大な自然に浸っているところへ、その平和を破るような形で王様と公爵が飛び込んできました。

 彼らは演劇で一儲けしようと、途上の村々で小さく稼ぎながら準備を進め、ある町に辿りつきます。 物語では、その時点では町の名前は不明(後で事件について言及するときに名前がつく)ですが、目次で各章に付記されている内容説明では「The Lazy Town」(岩波文庫の訳では「だらけた町」)と呼ばれています。

 町には丁度サーカスが来ていました。 そこで、サーカスが終わった後に、その場を利用してシェークスピアを演ずることにしたのですが、客入りがほとんど無いという大失敗に終わります。 そこで、とんでもない詐欺的演芸を仕掛けることにしました。

 まず、催し物の題名を「国王の麒麟、別題、王室の絶品」という刺激的なものにし、さらに「入場は成人男子のみ、3日間限定」ということにして興味を引きます。 そして、集まってきた観客の前で、王様が実にくだらない馬鹿々々しい芸を披露します。

 観客は当然怒りますが、ここで「3日間」というのが利いてきます。 自分たちだけ騙されて終わるのも腹が立つから、明日は今日のことを知らない連中に来させて、同じ目に遭わせてやろうということになりました。

 そして3日目、最終日ということで、前日までに騙された観客たちが集まり、腐卵やら変な香水やらを用意して復讐してやろうと待ち構えています。 しかし、詐欺師たちの方が上手で、木戸番を務めていた公爵は観客を劇場に入れるなり、ハックを連れて町から逃亡、そして王様は最初から町には居なかったのです。



通算第205回(2013年11月号)

 各楽章の表題の後に書いてある文章について見てみましょう。

第35講:ハックルベリー・フィンのこと(第4回)

 小説や戯曲などを題材にした音楽の譜面に、原作の関連する部分を引用しておくというのは、よく使われる手法です。 しかし、この曲の場合は、引用した部分と各楽章の内容との間に直接の関係は無さそうです。 というのは、表題になっている場所や人物が、単に小説の中で初めて描写される場面を引用しているだけだからです。

 第1楽章のThe Lazy Town(岩波文庫の訳では「だらけた町」)には2つの文を続けて引用してありますが、原作ではかなり離れています。 第1の文は、ハック達がこの町に到達したときの描写です。 その後、上陸して町の様子を探り、その町で活動する準備をざっと済ませた後、町の中をぶらつく場面での最初の描写が第2の文です。 実際の楽曲の内容には、第2回の最後で少し触れた「殺人事件に発展した喧嘩」の顛末なども意識されていると思われますが、それは引用部分とは積極的には結びつかないでしょう。

 第2楽章に引用されているのは、Jimが小説の中で2回目に出てきて、彼自身の持ち物について初めて描写がなされる部分です。 彼の素朴で迷信深い人物像を表しているという意味では、楽曲の内容に比較的対応していると言えるかもしれません。

 第3楽章に引用されているのは、王様と公爵がハック達の筏に唐突に飛込んできた騒動が落ち着いた直後に、2人の様子を描写した部分です。 実際はもっと長いのですが、最小限の文だけを抽出してあります。 いずれにしても、その時の2人の見かけを描写しただけなので、その後の詐欺師としての活動を描写したと考えられる楽曲の内容との関連は、かなり間接的です。

 そして、第4楽章に引用されているのは、小説全体の冒頭です。 この楽章は主人公であるハックの性格描写と考えられますし、それは小説全体の性格描写でもあります。 そう考えてみると、全体の冒頭を引用するのは自然なことと言えるかもしれません。 最終楽章に「冒頭」が引用されているというのは、少々気色悪くもありますが……



通算第206回(2013年12月号)

 第2楽章の主題になっている「ジム(Jim)」について見てみましょう。

第35講:ハックルベリー・フィンのこと(第5回)

 ジムは、偽善者やら詐欺師やらロクでもない白人たちが次々現れる中での「良心」の役割を果していると考えられています。 彼には教養も腕力もありません。 しかも、奴隷制度の真っ只中の時代ですから、黒人である彼は下手をすると「逃亡奴隷」として事情も調べられずに拘束されてしまう恐れがあります。 そのため、ハックたちが上陸して活動している間、基本的には筏に隠れて潜んでいたのです。 最初のうちは、ただ隠れていたのですが、そのうち詐欺師たちが智恵を出し、伝染病患者を装うことで人の接近を防ぐなどということをしました。 何れにしても、情けない境遇です。

 しかし、ジムはあくまで純粋で利他的な愛すべき人物として描かれています。 楽章の冒頭に引用されているのは、彼の持ち物である「霊魂が棲みついている毛球」に関する描写ですが、その後の物語の展開にこの毛球は登場しません。 ただ、彼の迷信深く単純素朴な人物像を象徴するアイテムとして、確かに印象深いものではあります。

 例えば、ジムは英語以外の言語を話す人物に出会ったことがありません。 そもそも、自分が喋っている言語に「英語」という呼び方があること自体を理解していません。 一方のハックは、元々は浮浪児ですが、前作「トム・ソーヤーの冒険」のあと学校に通うようになったりして、多少の教養を身につけています。 ハックにフランス人という存在を教わったジムは、結局「異なる言語を話す人々」が存在するという根本的なところが理解できず、ハックは説明を諦めてしまいました。

 そんな無教養なジムですが、その行動原理に「損得勘定」は無いようです。 もちろん、目前の危険からは本能的に逃げるので、そのため逃亡生活に追い込まれたわけですが、それは計算づくの行動ではありませんでした。 そんなジムに、作者は最後の最後でドンデン返しの嬉しい解決を用意しています。 ただ、それを理解するには当時の奴隷制度について具体的な仕組みを知っておく必要があるので、それは次回にしたいと思います。



通算第207回(2014年1月号)

 「ハックルベリー・フィンの冒険」の中で「素朴な良心」の役割を果している、黒人奴隷のジムについて、もう少し見てみましょう。

第35講:ハックルベリー・フィンのこと(第6回)

 実態がどうだったかはともかくとして、南北戦争以前の合衆国における奴隷の立場は、形式的にはあくまで「契約」に基づく拘束でした。 とはいっても、神様とだって契約してしまう(その契約書のことを「聖書」と呼びます)のが西洋文明です。 契約というのは、本来は自由意思に基づいて対等の立場で締結するべきものですが、そういう前提条件が満たされていなくても、契約という形式を無理矢理に適用してしまうんですね。

 そういう背景がありますから、奴隷解放というのは奴隷使用者の財産権を侵害するという側面があると認識されていたわけです。 奴隷が使役されているところから連れ出して解放してしまうのは「ドロボウ」行為だという認識ですね。 物語の中でも、ジムと共に逃亡する状況に陥ったハックが、ジムの主人に対する財産権侵害を手助けする結果になってしまったことを気にするくだりがあります。

 南北戦争に向けて北部諸州で奴隷解放運動が盛り上がったのは、もちろん人権問題に絡めたからです。 人権を侵害するような契約は不正蓄財であり無効であるというような考え方に持って行くことで、奴隷使用者の財産権主張に対抗していくという方向性です。 しかしながら、北部諸州の、特に資本家(経営者)たちの本音は、工業化が進んだ北部では自由な労働力市場が必要だったという経済的側面なのです。 各々の農家が労働力を私有財産として抱え込んでいる南部諸州の状況では、必要な時に必要なだけの労働力を調達することができず、不都合だったというわけです。

 さて、奴隷が「財産」である以上、奴隷使用者の意思で所有財産として自由に処分できます。 つまり、使用者の意思で奴隷を解放することは、全く自由に行えるのです。 この考え方は、感覚的に納得できない方も多いと思うので、特に注意してください。

 実は、ジムの逃亡のきっかけになったのは、使用者である未亡人の不用意な発言でした。 そのことを後悔していた未亡人は、ジムに関する財産権を本人に遺贈する、つまり奴隷の身分から解放するという遺言を残して死去していたことが最後に判明します。 ジムは合法的に解放されていたという、ちょっと無理矢理なハッピーエンドなのです。



通算第208回(2014年2月号)

 小説「ハックルベリー・フィンの冒険」の成立過程について見てみましょう。

第35講:ハックルベリー・フィンのこと(第7回)

 第1回でも述べたように、「ハックルベリー・フィンの冒険」は1876年に発表された「トム・ソーヤーの冒険」の続編という形になっていますが、1885年に発表されるまでの間に9年のブランクがあります。 実は、この9年間に順調に書き続けられたわけではなく、何度も執筆が中断され、苦しみながら完成させたようです。

 小説全体を眺めると、大きく3つに分かれることに気付きます。 最初は、前作のあと学校へ通う生活を始めたハックの様子と、そこへ因業な父親が現れたため逃亡生活を始める部分です。 別の理由で逃亡する事態に陥った黒人奴隷ジムと合流して自由州(奴隷制度が廃止されている州)を目指しますが、川くだりの分岐を行き過ぎてしまい失敗します。 その後、様々な人々に出会うのが2つめの部分です。 最初は際限の無い復讐合戦を展開する偽善的な一家と共にしばらく生活します。 そのあと詐欺師の「王様と公爵」に出会い、彼らとの旅が長く続きます。 しかし、詐欺師たちとの旅も破綻を来すようになり、ある街で彼らの正体が露見して捕縛されたのを契機にジムと2人だけの旅に戻るところからが最後の部分となります。 ここでトム・ソーヤーが登場し、彼の活躍で前回も説明した「無理矢理なハッピーエンド」へと進むわけです。

 研究者によると、マーク・トウェインは、前作「トム・ソーヤーの冒険」が発表された1876年のうちに「ハックルベリー・フィンの冒険」を書き始めたようです。 ところが、ハックを主人公とする逃亡劇という形に展開していくにつれ、前作の「続き」として書き続けることが困難になってきたと考えられています。 そこで、前作とは違う新たな発想で物語を展開していくために充電期間が必要となり、それが最初の執筆中断になったというのです。 そして、新たな展開として「様々な人々に出会う2つめの部分」へと進んで行ったというわけです。

参考文献

西田実(1977)岩波文庫「ハックルベリー・フィンの冒険」解説



通算第209回(2014年3月号)

 小説「ハックルベリー・フィンの冒険」後半部の成立過程について見てみましょう。

第35講:ハックルベリー・フィンのこと(第8回)

 前回も説明したように、「ハックルベリー・フィンの冒険」は「トム・ソーヤーの冒険」の続編として書き始められたものの一旦執筆中断し、改めて「様々な人々に出会う」展開で書き進められました。 そして、詐欺師の「王様と公爵」が登場し、彼らとの旅が面白く展開して行きます。 しかし、この展開には「行き着く先が見えない」という問題がありました。 詐欺師たちが各地で働く悪業の手口を面白おかしく描写しているうちは良いのですが、これは最後にはどうなるのでしょうか?

 もう1つ、この物語を終結に向かわせる上で難問になったと考えられているのが、逃亡奴隷ジムの行く末です。 時代背景から考えて、ジムにとって幸せな結末となる展開は非常に困難です。 既にミシシッピを下流まで進んでしまっていて、北部の自由州へ逃げ込んで解放されるという展開は封じられています。 物語中でも、この問題についてハックはずっと悩み続けているのです。 そして、この部分を書いている間に何度も執筆中断があったと研究者は考えているようです。

 そしてまず詐欺師たちを物語から退場させてしまいました。 物語的にも、劇中の詐欺師たちの状況としても、詐欺の手口がネタ切れになって収拾がつかなくなってきました。 その段階で正体が露見して捕縛されてしまうというのは自然な展開かもしれません。

 問題は、その後です。 前々回にも述べたように、ジムは実は主人公たちが知らない間に合法的に解放されていたという強引な「オチ」へと持って行くわけです。 そして、それを物語としてまとめるために、イタズラ好きのトム・ソーヤーを再登場させました。 真相を知っているトムが、敢えてハックにそれを隠し、冒険的な状況を無理矢理に作るという展開にしたのです。 当然のことながら、この解決方法は賛否両論が渦巻く議論の的になったようです。 ただ、作者としては相当な難問を解決せねばならなかったわけですから、そこは割り引いて評価するべきところなのかもしれません。

参考文献

西田実(1977)岩波文庫「ハックルベリー・フィンの冒険」解説



「だから何やねん」目次へ戻る

Copyright © 2013 by TODA, Takashi