私は、「指輪物語(the Lord of the Rings)」という作品を、 デ・メイ(John de Meij)の吹奏楽組曲の元になった物語 という以上には、長い間認識していませんでした。 所属楽団で映画音楽を採り挙げることになって、 初めて解説本を読み、映画第1部やアニメ版のレンタルビデオも鑑賞し、 原作の全訳や「ホビットの冒険」「シルマリルの物語」も 急いで通読したという人間です。 即ち「指輪フリーク」としてもズブの新参者なのですが、 映画に関して、どうも黙っていられない状況に直面してしまったので ……というか、自分自身の考えを整理するために主張をまとめておきたくなったので、 一文をしたためてみることにしました。
所属楽団で演奏会の準備にかかったとき、 主な映画館では第2部の上映が終わっていて見ることができませんでした。 そして、演奏会終了後に発売されたDVDで初めて第2部を見たのですが、 「原作無視」という意味で予想外の内容であり、唖然としてしまいました。
原作無視は第1部の段階で既に起こっています。 しかし、第1部での原作無視の多くは、 全体を3時間×3部=9時間の枠に収めるために 話を端折ったものとして、容認することができる内容です。
また、以下のような改変も、許容範囲のものでしょう。
これに対して、第2部における原作無視には、 原作に無い要素を追加するなど、かなり本質的なものが目立ちます。
尤も、ヘルム峡谷へのエントの不関与は、 話を端折るためと言えなくもありません。 原作でも説明不能な不可思議な事象として扱われており、 そのまま映像化するのは困難でしょう。
エルケンブランドが登場しないのも話を端折る効用があるわけで、 エオメルがその代わりを務めるとすれば、エドラスへ来ることはできません。
ネット上の噂話を検索してみると、 エントの態度豹変はホビットたち(メリーとピピン)の役割を 重くするためだという説があるようです。 しかし、「態度豹変」という行動自体、エントの性格設定に馴染まないだろうし、 ホビットたちをアイゼンガルドの近くへ送り届けるまで 木の鬚が惨状を知らなかったというのは不自然です。 どうも無理のある改変だとしか言えそうにありません。
最も訳の解らない原作無視が「エルフの援軍」です。 必然性が解らないし、地理的にも無理があります。 一体いつ出発して、どの道を通り、 どのようにしてアイゼンガルド軍に先んじてやってきたんだろう? 決戦地がヘルム峡谷(角笛城)だと、何故解ったんだろう? (原作でも第3部でエルフの小部隊が来ますが、 これは早くからアラゴルンを探し回りながらウロチョロしてたわけですし、 到着がアイゼンガルド陥落後なので、問題ありません。)
ネット上の噂話を検索してみると、 元々はヘルム峡谷にアルウェンが来て闘うことになっていて、 ロケーションでは、その想定で収録もしているようです。 エオウィンを登場させない設定さえも考慮に入っていたようで、 エオウィンと両方とも登場させて恋の鞘当てという 三流の設定の可能性もあったとか。 確かに第1部の段階でアルウェンの御転婆ぶりには違和感があったのですが、 そこまで徹底した性格変更を意図していたとは思いませんでした。 俳優の人選もこの性格変更を前提としたものらしく、 原作ファンの猛反発を買って揺り戻したために 迷走しているという噂もあるようです。
迷走の傍証として指摘されているのが、 エルフ軍の「指揮系統の混乱」です。 エルロンドの意思で、エルロンドのメッセージを携えて来た大部隊を率いるのが、 何故かロスロリアンのハルディア。 役柄に相応しい立場のエルフを他に登場させていないので、 消去法的に彼になったという説には説得力があります。
アラゴルンの転落も、アルウェンとの心理的接点を作るのが 大きな目的だと思われるのですが、どうも無理がありますね。 そして、アルウェンを出すからには父親のエルロンドも出てくることになります。 役回りとしては最終戦争を前に娘をアマンへ逃がしてしまおうとする 利己的な父親というところで、 これも重大な人物像変更として嫌われているようです。
第1部のビデオ末に収録されていた第2部予告編で 「二つの塔」の意味が替わっているのに驚いたのですが、 これは第2部と第3部の境界線を変更して、 第2部末尾のシェロブとの対決を第3部へ持ってきたことによる処置のようです。 この変更によって、フロドは、原作における「二つの塔」の一方である ミナス・モルグルに、第2部の間には到達できなくなりました。 仕方が無いので、「二つの塔」の一方を バラド・ドゥアだということにしてしまったのでしょう。
境界線を変更した目的は、 原作第2部相当部分の分量を増やす意図だと思われます。 つまり、第3部を大幅に端折って、第2部の端折りを減らそうという意図ですね。 考えてみれば、映画第1部の末尾は、原作第2部に少し踏み込んでいるわけで、 これも同じ目的なのでしょう。
オスギリアスでフロドがナズグルと対峙するのも、 シェロブとの対決に代わる「第2部最後の見せ場」が 必要だったからなのではないでしょうか。 そう考えれば、それほど無理のある改変でも無いような気がします。 ネット上の情報を見てみると、 ファラミアが執拗に指輪を求めるのが 原作からの人物像改変として嫌われているようですが、 オスギリアスでの対峙を誘導する目的の改変ではないでしょうか。
第2部の原作無視が以上のように酷かったので、 第3部がどうなるか心配したのですが、実際公開されてみると、 本質的な改変はアンドゥリル(ナルシル)の取り扱いに絡むものだけでした。 指輪の仲間が出発する段階では折れたままエルロンドの元にあり、 第3部に入ってから鍛え直され、エルロンドが馬鍬谷まで持って来るわけです。
おそらく、アルウェンの役割を重くするため、 そしてアラゴルンの「王になるための通過儀礼」を派手に演出するための 改変というつもりなのでしょう。 第2部の「エルフの援軍」とは違って 敵地を抜けたわけではないという意味ではマシですが、 それでも日数的に考えて、やはり地理的に無理な設定です。
第3部には、他にも多数の原作無視が見られますが、 いずれも話を「大幅に省略」するための改変であると認められるものです。
第3部は、サウンドトラック発売が劇場公開よりもかなり先行しました。 音楽内容としては、第2部以上に前作に縛られて苦しんでいます。 アーティスト陣を豪華にして何とかしようとしているようなのですが、 今ひとつ功を奏していない感じです。
第2部までの主要モチーフは 「だから何やねん」で示しましたが、 第3部での新たな重要モチーフとしては、ゴンドール王国の主題