定年退職後、非常勤講師として、物理を専門としないが教職資格のために修得を要する学生を相手に電磁気学を講義することになった。 琵琶湖博物館で一般の人々に湖流の物理学を伝える方法を探ってきた経験が多少なりとも役に立っている。
その準備として、改めて昨今の電磁気学の教科書を検討し、「磁荷」の概念を完璧に回避する教科書が幅を利かしていることに驚愕した。 これは憂慮するべき事態である。
確かにミクロな物理学では「磁荷」は実在しないものだと考えられている。 存在するとすると物理学が矛盾を来すということにはならないとされているようだが、存在を示唆する実験事実は全く無い、というか、そのような実験事実が出てきたら大ニュースだということは広く知られている。
従って、例えば以下のような問題を考える場合に「磁荷」を考える必要は無い。
しかしこれは、ミクロな電磁気学の中で完結する問題に限られた話である。 マクロな電磁気学、つまり「磁石」という形が明示的に見えている状況を考えるのに、「磁荷」の概念を回避していたのでは問題が不必要に複雑になる。 例えば、以下のような日常的な問題に「磁荷」の概念を回避して対応することは、ほぼ不可能である。
結局、「磁荷」の概念を回避した教科書というのは、日常生活の中で体験する電磁気現象や、それに関連する電磁気に関する素朴概念を全く無視した、極めて視野の狭いものである。
「物理学」や「物理学を直接的に応用する諸分野」(工学の一部など)を専攻する学生の「2年目以降」の教科書であれば、それで充分であろう。 しかし、
ミクロには実在しないとされている「磁荷」が、「磁石」というマクロな形では存在が確認できることは確かな事実である。 そして、何故マクロな形だと「磁荷」が現れるのかという理路は周知のものである。 即ち「環状電流」と「磁気双極子/磁気二重層」の等価性、そして磁気双極子の集合体が全体として大きな1個の磁気双極子になり両端に単磁荷が存在するのと等価になるという理路である。
物理学を専攻する学生であれば、この理路を基礎知識として説明できることは必須であろう。 物理学に直接関わっている間はもちろん、卒業後に関連分野や他の分野へ進んだ場合も出身者の社会的責任として必要な素養だといえる。
そして勿論、教員に必須の素養であることは言うまでもない。 「素朴概念」(この場合は「磁荷」)と「厳密化した理論的概念」との対応関係をきちんと説明できねばならないからである。
「磁荷」は「仮想的」だから認めないと主張し、それを論拠に回避する教科書が横行している。 全くの論外である。 仮想的なものを認めないなどと言い出したら、波動関数を使うことができず、量子力学が展開できなくなる。
重要なのは、仮想的な概念を介することによって、何が説明(理解)できるかということである。 磁石のマクロな挙動は「磁荷」という概念を介することによって明快かつ簡潔な説明が可能になる。 「磁荷」の概念の(現代的な)存在意義はここにある。 この事実を無視するのは全くの誤りである。
「磁荷」の概念を回避する教科書は、「磁荷」の概念を持ち込む教科書を「古いタイプの教科書」と蔑み、自らを「未来を見通した新しい」ものだと誇っていたりする。 そのような誤った誇りは要らない。 「新しい」のではなく、教科書として「全くの誤り」であることを認識するべきである。