天動説的描像下の力学

遥かな天体に働く壮絶な慣性力

 宇宙の天体が地球を中心に流転するとする「天動説」が、 コペルニクス以来の「地動説」によって「否定された」と 単純に考えている人は居ませんか? 確かに、ある意味では正しいのですが、 天動説的に宇宙を見ること自体が間違っているとされたわけではありません。

元々、この文章は、後半の「壮絶な慣性力」の部分 を主目的として(主に回転系力学を学ぶ学生を対象として)書いたもので、 前半の「天動説についての考え方」の部分は単なる「導入」のつもりでした。 ところが、「小学生の4割が天動説を支持した」という調査結果を紹介した 2004年4月12日の新聞報道から発展した議論が スラッシュドットで盛りあがり、その最初の方で引合いに出されたために、 通常は月間アクセス100件を越えれば多い方だったこのページに 3日間で4000件近いアクセスが一気に来てしまいました。 専ら前半部分に注目した参照をされる結果になったわけですね。 議論を見ていると、どうも前半部分の書き方が簡単過ぎるために 誤解や混乱を生じさせているようなので、 改めて前半部分を書き直し、2倍強ほどに増訂してみました。

本来は単なる「記述方法」の違い

 電車や自動車に乗ったときに「前方から電柱がビュンビュン飛んでくる」 という表現を「電柱は動いてない、お前が走ってるんだ」と言って否定する人は、 余程の臍曲りでしょう(さもなくば、臍曲りを装った冗談)。 これは要するに「相対運動」の概念ですね。 自分を基準にすれば、常に相手が動いて見えるというわけです。 どっちが動いていてどっちが止まっているのかという問題は、 どちらを基準に記述するかで決まるわけです。

 天動説も、単なる「記述方法」として用いるのであれば、 現在でも全く何の問題も無い宇宙観です。 単に、地上から見て天体がどのように振る舞っている“ように見えるか”を 記述しているだけなのですから。

天動説の何が問題か?

 日常生活で「相対運動」を感覚的に理解している人は多いと思います。 特に、高速交通手段が発達した現代では、その感覚がつかみやすくなっています。 しかし、それはあくまで「地面基準」の運動記述に「優位性」を認めた上での、 特定の状況で便利な補助的な手段という感覚でしかないでしょう。 その理由は、地面は「皆に共通の基準」として使えるし、 日常生活レベルだと充分に近似的に慣性系と看做せるので、 地面を基準に考えれば話がややこしくならなくて済むからだと考えられます。

 一方、宇宙には地面に相当する「皆に共通の基準」が設定できません。 でも、地上で生活している人々に いきなり「確かな基準が無い世界」に入れというのは無理でしょう。 やはり、日常生活の延長で「動かない基準」が当然あるものという感覚で 物事を考えようとするのが、当然の成り行きです。それゆえ、 地球が「動くのか、動かないのか」ということが大問題になったのです。

 「相対運動」の概念を正しく理解していれば、 そんなことを論争すること自体がナンセンスだということは自明でしょう。 要するに、一方が正しくて一方が間違いという問題ではなく、 どちらが「優れているか」「便利か」という問題なのです。 では、天動説の何が不便で、地動説の何が優れているのでしょうか?

 「相対運動」の考え方からすれば、「動かない基準」などというものは、 物理学的に怪しげ(=無意味)な概念です。 しかし、動くかどうかはともかくとして、「基準」を設定することは必要です。 何かを「基準」にしなければ、そもそも記述が成立しません。 この基準は、あくまで「人為的に設定」するものですから、 問題を考えるうえで便利なように、都合の良いものを選んで設定すれば良いのです。 ここまで整理したうえで、もう一度考え直してみると、
天動説=地球を基準に運動を記述する描像
地動説=太陽を基準に運動を記述する描像
であることが解ります。 つまり、「地動説の方が優れている」という主張は、 「太陽を基準に記述した方が便利である」と言い換えることができるわけです。

地動説の優位性は「力学」にある

 では、太陽を基準に記述すると、何が便利なのでしょうか? ここで、天動説・地動説の各々における天体運動を思い起してみましょう。 地動説ではどの惑星も単純な円(正確には楕円)軌道を単純に巡っていますし、 無闇に高速運動している天体もありません。 それに対して、天動説における惑星運動は複雑怪奇ですし、 全ての天体が一斉に高速回転しているし、どうにも不自然です。

 この「複雑怪奇」とか「不自然」とかいう感覚について、よく考えてみましょう。 ただ運動を「記述」するだけなら、自然も不自然もありません。 「不自然」という感覚は、その運動に対して 「何故(whyというよりむしろhow)」という疑問があるからこそ生ずるものです。 つまり、運動が「どのようなメカニズムで」生じているかという 「力学」を意識しているからこそ、地動説が優れているという結論になるのです。

 よく知られているように、力学は「慣性系」で考えないと複雑になります。 つまり、近似的に慣性系と看做せる描像は力学的に優れていると言えます。 実際には、どんな描像でも無理矢理に慣性系扱いすることはできるのですが、 その場合には、訳の解らない妙な力が 支配的に作用していることにせねばならなくなります。 そして、実際問題として、地球を基準にするより太陽を基準にする方が 系が「慣性系」に近くなり、力学が単純で自然なものになるのです。

 天動説的描像の中で「慣性系から外れている」という意味で最も困るのは、 「地球は自転していない」という部分でしょう。 地球が自転していない系が慣性系だとすると、 全ての天体が地球の周囲を高速回転していることになり、 とんでもない強さの向心力が作用していると考えねばならなくなります。 もちろん、こういう描像で「非慣性系の力学」を展開することは可能です。 それについては、この文章の後半で述べます。

なお、歴史的には、力学的理由で、地球自転を否定する意味の天動説が 主張されていたということは重要でしょう。 これは、地球が自転している場合に地上で観測されるべき力学的現象が どのようなものであるかが正確に考察されていなかったことに基づきます。 そのため、もし地球が自転していれば、 目前の地上で凄じいことが起こるはずだと考えてしまい、 それを避けるために、全ての矛盾を天上に押しつけてしまったわけです。

現代的知識に基づく天動説的描像

 ところで、地動説と「伝統的な天動説」とには、 質的に異なる複数の差異があるのですが、 その区別ができていない解説が多々見受けられます。 実際、コペルニクスからニュートンに至る歴史的な論争においても、 この区別が適切に為されていなかったと思われます。 しかし、きちんと区別し、分離して考えないと、 混乱して本質を見失う元になります。 どのように分離するかというと、

  1. 地球が自転しているかどうか
  2. 地球が公転しているかどうか
  3. 惑星の公転中心に太陽が居るかどうか
の3つです。 特に、当時の論争の天文学的な意義(宗教的な部分はさておくとして)としては、 実は最後の「惑星の公転中心」の問題が本質的だったということには、 注意が必要でしょう。

プトレマイオス説の欠陥の本質は「惑星公転の中心」

 通常、「天動説」という言葉で指し示されるのは、 プトレマイオス以来の伝統的な「周転円式天動説」です。 各惑星が地球の周囲を巡っているのですが、単純に円運動をしているのではなく、 「周転円」と呼ばれる小さい円を描きながら、 その周転円が地球の周囲にある「導円」に沿って公転しているという描像です。 ちなみに、周転円は地球の周りを1日に約1周するわけですが、 このときに周転円自身が地球に同じ方を向けるように自転していると考えると、 外惑星(地動説で地球より外にある惑星=伝統的には火星・木星・土星の3つ) の場合、惑星は周転円上を1年に1周することになります。 しかも、全ての外惑星が周転円の中心から見て同じ方向にあり、 それは地球から見た太陽の方向と一致します。 実は、外惑星における周転円は、 地球からみた相対運動を記述する際に現れる、地球の公転運動の「影」なのです。

 なお、内惑星(地動説で地球より内側にある惑星=水星と金星)では、 通常は「周転円」と「導円」の役割を逆転させる立場で記述します。 即ち、周転円の中心が、地球と太陽を結ぶ直線上に並ぶわけです。 これは、外惑星と同じ役割にすると、 周転円の方が導円よりも大きくなってしまうからであると思われます。

 この描像は、ティコ・ブラーヘからケプラーへ引継がれた観測の結果、 惑星までの距離が正確に求められたことによって否定されました。 ところが、この観測は「プトレマイオス説」を否定したのですが、 他の「天動説」をことごとく否定することにはなりません。 この観測は、あくまで「惑星の公転中心に太陽が居るかどうか」という 太陽と惑星の位置関係に関する問題を決定づけたものに過ぎません。 「地球の公転・自転」の是非には言及できないのです。 この観測から外惑星について判ることは、周転円の大きさが正確に一致し、 それが太陽の(地球から見た)軌道と一致するということです。 そして、各外惑星の周転円上の位置も太陽と一致するわけですから、 各々に周転円があるのではなく、 同じもの(=太陽の軌道)と考える方が合理的だという結論になります。 つまり、プトレマイオスとは逆に、導円が周転円に沿って公転している (どちらがどちらに沿って公転するとしても幾何学的に等価であることについては、 例えば 新潟大学教育学部理科教育教室の修士論文を公開したもの を参照)という描像です。 プトレマイオス描像では、何れの考えを採るにしても 「公転している円」の中心に何も実体が無いことには変わりが無いので、 半径が大きい「導円」が小さい「周転円」を従えると考える方が 合理的だと判断したのではないかと推測できます。 しかし、距離を正確に求めた結果、円の役割を逆転させることで 導円の中心に「太陽」という実体が現れることになり、 中心に実体の無い円が消えるという合理性が得られたわけです。 また、こうすることによって、内惑星 (周転円の中心が「太陽の方向にある」から「太陽に一致する」に変わる) と外惑星の運動が本質的に同じになるという意味でも合理性の高い描像になります。

「地球公転」の是非……「修正天動説」の立場

 実は、先に挙げた「3つの差異」の3つめだけを地動説的に理解して 他の2つは天動説の立場を維持する描像、 即ち、太陽は相変わらず地球の周りを巡っていて、 その太陽の周りを惑星が巡っているという描像は、 ティコ・ブラーヘ(チコ・ブラーエ)の「修正天動説」として、 よく知られているものです。 彼は、地球が公転していれば生ずるはずの「恒星の年周視差」が (当時の観測技術では)観測されないことを理由に、 地動説を否定したとされています。

 そして、現代において正しいとされている知識に基づく、 太陽や惑星の「地球を基準とした相対運動」を記述すれば、 この描像そのものになります。 つまり、ティコ・ブラーヘの太陽系像は、 「力学的に不便な描像」としては現代的にも正しいと言えるのです。 あえて「太陽系像」と書いたのは、恒星の位置に関する知見が異なるからです。 ティコ・ブラーヘは、恒星群の地球からの距離は不変と考えたのですが、 「現代的天動説」では太陽運動の年周期成分に同期して変わることになります。

「地球は自転するが公転しない」という天動説も可能

 いずれにしても、以上で述べてきた論点は 「地球が自転しているかどうか」という問題には 全く寄与しないことに注意してください。 地球が自転しているのか地球以外が一斉に日周運動しているのかを決定するのは、 どちらが慣性系と看做せるかという「力学的考察」です。 ですから、この問題は、フーコーの振子実験によって 地球自転の存在が直接的に証明された時に、完全にケリがついたと言えます。

 通常、天動説というものは、全ての天体が1日に1回地球の周りを巡るが、 その周期が天体によって微妙に違っていて、その微妙な誤差の積み重ねが 太陽の年周運動なり惑星の公転運動なりになるという立場で理解されます。 しかし、どの天動説描像でも、そこに地球の自転を導入して 天体の日周運動を止めてしまい、「微妙な誤差の積み重ね」だけにする (例えば太陽は1年に1回地球の周りを巡るという形にする)ことは可能です。 これは、「地球の位置に居て自転していない観測者」に対する 相対運動を記述したものに過ぎず、 「運動の記述」として現代的にも全く問題が無いことは、完全な天動説と同様です。

 考えてみると、これは現代人が地上から見た天体運行を考えるときに 無意識に採用している描像だと言えるのではないでしょうか。 要するに、いわゆる「天球」を基準に物事を考える描像なのです。


回転地球から見た宇宙の力学

 というわけで、天動説的描像というのは、 「間違いではないが、力学的に不便」なものであるということが判ったわけですが、 どのように不便かということを、少し具体的に見てみたいと思います。 慣性系であるとは看做せないことは明らかなわけですから、 慣性系と看做せる地動説的描像の力学から変換する方法で考えてみましょう。

 「慣性系」で無い座標系(観測系)を全部ひっくるめて「非慣性系」と呼びます。 非慣性系の力学全体に通じる一般論というのも勿論ありますが、複雑になるので、 ここでは、自転する地球を「定角速度回転系」 (単に回転の速さが一定なだけでなく、回転軸の向きも動かない系)と 看做すことができる程度の精度で考えることにします。 これは、公転の影響や自転速度変化の影響を無視することになります。 自転自体の影響の方が圧倒的に大きいという前提で考えるわけです。

 「定角速度回転系」の力学は、通常の慣性系の力学描像に、 新たな「役者」として 「遠心力」「Coriolis力」という2つの「慣性力」を 追加したものになります。

 さて、この座標系で周囲の天体の力学を記述するとどうなるでしょうか? 一般論を展開すると複雑になるので、 天体が「回転していない地球(地球の位置に居て自転していない観測者)」から見て 「静止している」と看做せる場合を考えてみましょう。 この場合、天動説的描像における天体は、 地球を中心とする単純な「等速円運動」をしています。 例えば太陽だと、通常の地動説における地球の公転と同じ大きさの円上を、 365.2422倍の速さで回転していることになります。 秒速約2千kmといったところでしょうか。 1光年離れた星だと、秒速約6億km程度になります。

 エ、光速を超えてるじゃない、と思った方、正解です。超えてても良いんですよ。 「光速度不変」とか、その帰結である「光速を超えられない」というのは、 あくまで「特殊相対性理論」の結論、 つまり「慣性系では」という条件つきの法則なのです。 今考えているのは非慣性系ですから 「光速の呪縛」には間接的にしか影響されません。

 さて、このとんでもない高速で回転している天体は、 どのような力学バランスになっているのでしょうか? 慣性系で「静止」と看做せる状況を考えていますから、 慣性系では力は釣り合っていることになります。 従って、専ら回転に伴う慣性力、 つまり「遠心力」「Coriolis力」の出番になります。

 ちょっと一般論的に計算してみましょう。 地球の自転角速度をΩ、地軸(地球自転の回転軸)から天体までの距離をr、 天体の質量をmと置きます。 天動説的描像における天体は、半径rの円上を、角速度Ωで、 地動説的描像における地球の自転とは逆向きに回っています。 回転の向心加速度はrΩ2ですから、 mrΩ2の向心力が作用しているハズです。 この向心力は何処から出てくるのでしょうか?

 まず、遠心力はmrΩ2です。 向心力と同じ大きさですが、これは座標系の回転角速度と 天体の(座標系から見た=天動説的に見た)回転角速度が同じだからです。 向きは反対ですね。即ち、遠心力は外向きに働きます。

 次にCoriolis力ですが、一般には2mΩ×(天体の速さ)です。 天体は等速円運動しているので、速さは円周方向にrΩというわけで、 Coriolis力の大きさは2mrΩ2となります。 そして、例えば自転が左向きならCoriolis力は右向きですが、 この場合天体は地球から見て右向きに回っているので、 Coriolis力は内向きになります。左右が逆でも、内向きになるのは同じです。

 結局、Coriolis力は遠心力の2倍の大きさで逆向きなので、 差し引きすると遠心力と同じ大きさのCoriolis力が残り、 最初に向心加速度から求めた向心力と合致して辻褄が合います。 天体はCoriolis力で回転していることになるんですね。ウウム……

 ちなみに、とんでもない半径の円をとんでもない速度で回転しているのですから、 その向心力は更にとんでもない大きさになるハズなのですが、 馬鹿々々しくって計算する気にはなれません^_^;

 実際問題として、天体力学をこんな立場で記述しても、 話が複雑になるだけで何の益もありません。 回転系の力学は、系とほぼ一緒に回転している物体にしか便利ではなく、 一緒に回転していない物体に適用すると、こういう事態に陥るわけです。 ただ、原理的には以上のように無理矢理適用可能なんだということは、 知っておいて損は無いでしょう。


2002年7月8日初稿/2004年5月9日前半部全面改訂/2005年12月2日最終改訂/2007年4月12日レイアウト微修正/2011年1月3日METAタグ追加/2014年10月31日誤字訂正/2014年11月30日ホスト移転

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