コリオリの力は「見かけの力」か?

 琵琶湖博物館では、2015年にリニューアル工事が始まるまで、常設展示の一環として「回転実験室」を運営していました。 これは、琵琶湖の水理に地球自転の影響が大きく寄与していることが知られていることに基づいています。 展示意図については別稿を参照してください。

 回転実験室で本質的な現象は「Coriolis(コリオリ)効果」です。 実験室内のような「回転系」では、Coriolis力が作用している形に観測されるわけですが、さて、この「Coriolis力」って何でしょう?

 遠心力やCoriolis力などの「慣性力」のことを「見掛けの力」と表現し、「実際には存在しない力である」と説明することがあります。 だったら、Coriolis力なんてものを感じるのは、全くの「気のせい」で、全くの「錯覚」なんでしょうか?

「存在」に対する物理学の姿勢

 実は、この「Coriolis力の実在性」の問題を掘り下げて行くと、“「存在」とは何か”という、

哲学の問題
になってしまうのです。 そして、現代物理学はこの問題に対して「そんなこと人間がいくら考えたって解るわけがない」と開き直るところから出発していると言っても良いでしょう。 つまり、とにかく「観測で確認できる」ものは「存在する」と定義してしまっているわけです。 そして、逆も真で、「観測で確認できないもの」は物理学的には「存在しない」のです。

 このように定義してしまうと、当然の帰結として、ある特定の物理的対象が存在するかどうかは、観測者がどういう立場で観測しているかに依存するという、“投げ槍”とも評価できそうな結論になります。

 Coriolis力について言えば、慣性系の立場に居る観測者から見ればそんなものは存在しないし、回転系の立場に居る観測者から見れば間違い無く存在しているわけです。

「言葉の綾」としての「見掛けの力」

 こんな「観測者の立場によって、モノが実在したりしなかったりする」なんていう考え方をスンナリ受け入れられる人が一体世の中にどれだけ居るかというと、多分ほとんど居ないでしょうね。 むしろ、どれか特定の立場を「基準」に選んで、その立場に依存した「実在性」に基づいた説明をした方が、考えの依り処が明確になって理解し易いのです。

 好都合なことに、世の中には「慣性系」というものが存在して、実在性を考える上での「基準」として好都合であることが経験的に知られています。 そこで、慣性系で存在しているものを「実在」と表現し、慣性系では存在しないものを「見掛け」と表現するという流儀が一般に用いられているわけです。

 「見掛けの力」という概念は、「慣性系の優位性」を依り処として力学を解り易く説明するための「言葉の綾(あや)」であると考えるべきでしょう。

「慣性系の優位性」の具体的な意味

 「運動」というものが「力」に支配されているというのは古来の人間の経験的実感ですが、さて「力」って何でしょう? 「運動」は位置と時間の記述から簡単に定義できるのですが、「力」というのは、突き詰めて考えてみると意外と「正体不明」な代物です。 そこで、現代物理学では逆に「運動有るところに力有り」という感じで、運動に影響を及ぼす「何か」があれば、それを全て「力」と定義しているのです。

 そうすると、「運動の見え方」は観測者によって違うので、それによって「力」が変わってくる可能性があります。 その中に「どの観測者にも同じように見える力」というものが存在することが経験的に知られています。 このような力のことを、ここでは「外力」と呼んでおきましょう。

 さて、「慣性系」というのは、この「外力」だけで運動が説明できるような観測系(座標系)のことです。 この「慣性系」が実在することを主張するのがNewtonの運動第1法則で、その慣性系における外力と運動の関係を具体的に示すのがNewtonの運動第2法則です。 よく知られているように、慣性系が1つ実在すれば、その系からみて等速直線運動している観測系は全て慣性系になるので、世の中には無数の慣性系が実在していることになります。

 慣性系以外の観測系では「外力」だけでは運動が説明できないわけですが、とにかく運動があるところには、それに対応してNewtonの運動第2法則を満たすような「力」が存在すると定義してしまいます。 このような力を一般に「慣性力」と呼ぶのです。 遠心力やCoriolis力は、ある慣性系に対して等速円運動しているような観測系で作用する慣性力です。

「慣性系」の概念は意外と不確実

 以上のような「慣性力」の定義を見て随分と「御都合主義」だなと思う方もあるかもしれません。 そこまでして厄介な「力」の概念を導入しなくても、「慣性系」「外力」という「確実なモノ」で話をすれば良いじゃないかと思う方もあるかもしれません。

 ところが実際には、世の中のどういう観測系が「慣性系」で、どういう力が「外力」かというのは、意外と「確定不能」なんですね。

 有名なところでは「重力」というものがあります。 古典力学では我々が日常生活している地球上の世界は、地球の自転や公転の影響だけ除去すれば「慣性系」であると考えます。 言い換えると、地球上の世界で圧倒的な支配力を有する「重力」は「外力」の一種であると考えるわけです。

 ところが、一般相対性理論の立場は、これを否定します。 この立場では重力は「慣性力」の一種です。 地上世界は慣性系でも何でもなく、むしろ、自由落下している観測者の観測系が慣性系なのです。

 このように、世の中は「これは絶対」「これは確実」と思っていることが、意外と不確実で立場に依存したモノであることが多いのです。 一見「御都合主義」に見えそうな「力」の定義ですが、確実に議論が進展するようにしようと思えば、このように定義するしか無いというのが実情と言えるかもしれません。


2002年7月8日WWW公開用初稿/2014年11月30日ホスト移転/2018年4月6日リンク修正・最終字句修正

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