「中部地方」というのも、 東海地方と並んで意味の不明確な地方名です。 考えてみると、この2つの地方名が混乱する原因は同じだとも言えます。 要するに「名古屋管内」が明確に決められないということなんですね。
そもそも「中部地方」という用語が使われ出したのはいつなのでしょうか? 「近畿地方」が明治末期の地理教育で定着した用語らしいので、 そのときに「中部地方」という地方区分も併せて発明された可能性があります。 この仮説に立って推測を進めてみましょう。
地理教育のために考え出された用語ということは、 日本という国の地理条件を概観する目的ということになります。 日本の最も伝統的な地域区分は、「五畿七道」です。 これは、都からの命令や都への報告の伝達を目的とした区分なので、 都を“中心”として、そこからの「方位」に着目しています。 江戸時代に徳川幕府が進めた、五街道制度や大坂城代制度などの政策も、 あくまで江戸を“中心”としたものです。 つまり、明治以前には、どこかを“中心”に据えた区分ばかりで、 全体を概観するような立場の区分は無かったか、 あっても普及していなかった可能性が考えられます。
そんな状況の中で「全体を概観するような立場の区分」を新作するとなると、 どういう発想の順序になるでしょうか? まず、北海道・四国・九州の3島を各々「1つの地方」とするのは自然でしょう。 次に、「東北地方」は、呼称はともかく、 古来から1つの「特別な地域」として扱われてきました。 気候も特徴的です。というわけで、これも自然に「1つの地方」になります。
次は「関東地方」です。古来「関八州」などと呼ばれてきた地域で、 地形的にも「関東平野」という形で独立性が高くなっています。 というわけで、これも「1つの地方」として扱うのが自然でしょう。
次に「中国地方」を考えてみましょう。 山陰と山陽とで気候がかなり違いますが、 地形的には「表裏」の関係にあり、古来相互に密接に関連してきました。 そして、本州の他の部分からの地形的独立性は高いのです。 となると、これも「1つの地方」ですね。 東限をどこに設定するかが問題ですが、「近畿地方」との関わりで決まります。 言いかえると、「兵庫県」が今の領域に設定された時点で 「中国地方」の東限も自動的に決定したということです。
次に「近畿地方」です。これについては、 別稿でも述べたように、 「拡大“畿内”」として考えることができます。
こうして本州から4つの「地方」を除いていくと、 最後に中央部分に9県残ります。これが「中部地方」ですね…… って随分“投げ槍”ですが、正直なところ、 これ以外に「中部地方」を「1つの地方」としてまとめて考える積極的な理由を、 全く思いつかなかったのです。というわけで、
「中部地方」は、本州から他の4地方を除いた残りに過ぎないというヤケクソの仮説を、ここでは提唱しておくことにします。
中部地方が「他を除いた残り」だとすると、その版図は「他」に依存します。 それを如実に反映するのが「中部地方」の東限です。
例えば、各省庁の出先機関(地方支分部局) の管轄を見ると、地理教育上の「中部地方」をそのまま管轄とするものは 全く存在しません。特に山梨県と新潟県が名古屋管内に入る例は皆無なのです。
そして、長野県も東京管内に入る例が多いようです。 山梨・長野・新潟の3県を加えた「拡大“関東”地方」には、 「関東甲信越」という、人口に膾炙した地方名称があります。 そういう言葉が定着するくらい、 この3県は「中部扱いされていない」存在なのです。
一方の西の限界、つまり「近畿地方」との境界に関して、 まず興味深い事実を指摘しておきましょう。
旧国土庁(現国土交通省)の担当である、 「○○圏整備法」と称する一連の法律があります。 この法律では、先に「名古屋管内に入る例は皆無」と述べた 山梨県と新潟県は「中部圏」に入りません。 山梨県は首都圏に、新潟県は東北圏に、各々属します。
そして、この法律では
福井滋賀三重の3県は、中部圏と近畿圏に両属するということになっています。つまり、中部と近畿の間には マトモな境界線が引けないということを、 法律レベルで認めてしまっているわけです。
現実問題として、滋賀県は近畿に属する側面が強いですし、 福井県は中部に属する側面が強くなっています。 けれども、滋賀県東北部(彦根や長浜など)は、 中日新聞のエリアに入るなど名古屋や岐阜とのつながりが強いですし、 福井県嶺南地方には近畿の一部としての性格があります。
そして、何といっても問題になるのが「三重県」ですね。 元々大阪文化圏と名古屋文化圏に跨って存在している県ですし、 地理教育上「近畿地方」に属するにもかかわらず、 日常社会生活上「名古屋圏内=東海地方」に 属するという矛盾が、問題を目立たせています。
三重県の中立性は、「伊賀は関西だ」という形で語られることが多いようです。 伊賀地方は大阪と名古屋のテレビ電波が両方入るため、 日本で最も数多くの地上波テレビ放送が受信できる地域だとも言われています。 伊賀地方の立場に関する問題を 表にまとめてしまったページもあります。 首都移転に絡んだ広告ページなので、滋賀県南部(概ね甲賀郡)と 南山城村(京都府)・月ヶ瀬村・山添町(奈良県)を含む 「畿央地域」という表現を使っていますが……
歴史的に見ると、江戸時代ほぼ全期を通じて、藤堂藩の支配下で 「伊勢中央部&伊賀」という1つの行政区画でした。 現在、伊賀が三重県に入っているのは、その名残だとも言えるでしょう。 伊勢にしても、中南部だけを取り出して考えれば、 近畿の一部と考えて全く問題ないとも言えるでしょう。 伊勢神宮の関西文化における特殊な地位や、 和歌山藩領(松阪など)の存在というような事実もありますし、 地形的にも「紀伊半島」に着目したまとまりとして自然です (地理教育上の区分は、この地形的事実に着目している 可能性が高いだろうと思います)。
ところが、現在の人口分布という意味で重みを持つ北部は、 完全に名古屋経済圏の一部なんですね。 このあたりに混乱の元があるようです。
ところで、2005年の愛知万博(愛・地球博)で 「中部千年共生村」というパビリオンが出展されたのですが、 これは「中部9県」の共催 ということになっています。
「中部9県」ってどこだ?というと、 「中部圏整備法」で定義された「中部圏」に属する県のことです。 「近畿圏」と両属する3県を全て含んだ数です。
この9県について改めて考えてみると、「地理教育上の中部地方」から、 「名古屋管内に絶対に入らない」新潟県と山梨県を除外し、 「西限」という意味で微妙な滋賀県と三重県を追加したということができます。 2県除外して2県追加したので、「9県」という数は地理教育と同じです。 数を同じくしたまま、地理教育から西へ少しズレた形になるんですね。
あまり聞き慣れない表現ですし、 地理教育と数が同じということは、かえって混乱の元になりそうな気もします。 ただ、ある意味で合理的なまとまりだとは言えるかもしれませんね。