歴史的に見れば、「県名」というのは県域全体を指す地名ではなく、むしろ県庁所在地を示すものです。 そして、その所在地の「町の名」(現在の市名に相当)か「郡名」を県名に用いるのが一応の原則になっていたようです。 つまり、「滋賀県」という名称の本来の意味は「滋賀郡に所在する県庁(の管轄地域)」ということです。
明治4(1871)年の7月に「廃藩置県」がありました。 当初は全ての「藩」をそのまま「県」にしたため3府302県もあったのですが、その年の11月に3府72県に整理されました。 この時点で近江の北半分が「長浜県」、南半分が「大津県」になっています。
問題は翌明治5(1872)年の動きです。 1月に「大津県」が「滋賀県」に、2月に「長浜県」が「犬上県」になり、9月に「犬上県」が「滋賀県」に併合されているのですが、併合はともかくとして、改称に関して理由を明記した資料を探し出せませんでした。
「長浜県」→「犬上県」については、上述の原則から言うと、県庁が長浜から犬上郡彦根へ移転したことを意味しているように思えます。 ところが、「彦根市史」(博文堂1987)によると、明治5(1872)年2月16日に長浜へ移った県庁が3ヶ月後に戻ってきたとあり、県名変更(2月27日)と全く同期していません。 当時、彦根と長浜で県庁の取り合いをしていたようなので、もしかすると、「県庁があるべき場所」は現実の所在地では無いと広報することで反対を抑えようとしたのかもしれません。
一方の「大津県」の改称は全く意味不明です。 「石川県」が治安上の理由で金沢市内に県庁を置けず郊外の石川郡内に県庁を置いたためにそうなったという話もあり、その類例かとも思ったのですが、どうも違うようです。
一般に、東北地方の一部などの例外を除いて、律令時代から明治初期まで、郡はほとんど変動していません。 明治中期から大正期にかけて全国的にはかなり派手な郡の改廃離合があったのですが、滋賀県では大きな変動はありませんでした。
但し、「市」になった部分は郡から除外されるため、滋賀郡と栗太郡は早い段階(戦後すぐ)から郡域が大きく減少していました。 具体的には、滋賀郡というのは、昭和大合併初期の1951年以降は仰木以北、1967年に堅田町が大津市に編入されてから平成大合併までは志賀町のみということになりました(2006年に志賀町が大津市に編入されて、滋賀郡は自然消滅)。 そのため、滋賀郡は「大津市の北の方」にある郡というイメージがあるかもしれませんが、実際には大津市の大部分(宇治川以東南の瀬田・大石・田上・上田上を除く地域)は、本来は滋賀郡に属します。 むしろ大津市の中心部こそが滋賀郡の中心なのです。
では、滋賀郡の「滋賀」とはどういう地名なのでしょうか? 「市町村名語源辞典」(溝手理太郎/東京堂出版1992)には
シ(石)カ(接尾語)で「石の多い所」のことか。スカ(砂州)の転とも考えられる。とありますが、仮説の域を出ないようです。
「シガ」は「あっちがわ」という意味で、逢坂山を越えた向こうという意味があるという説も聞き及びますが、手元の資料にはありませんでした。
最初に確認しておきたいのですが、固有名詞への漢字の当て方を厳格かつ固定的に考えるようになったのは、明治以降のことです。 例えば「三河」と「参河」などはどちらでも良かったようですし、苗字(姓)に関しては、同じ一族の中で格付けなどによって違う漢字を用いるなんていう芸当をしていたケースもあるようです。
そういうわけで、「滋賀」でも「志賀」でもどちらでも良いというのが本来の形なのでしょうが、律令以来「滋賀」が公式の表記ということになっているようで、「志賀」は古称あるいは雅称として扱われてきたようです。
ちなみに、「新編日本史辞典」(東京創元社1990)の付表には、律令以前の表記として「滋賀」「志賀」の他に「志何」「斯我」が挙げられています。
大津市の北に隣接して「志賀町」が平成大合併(2006年)まで存在しました。 「滋賀県滋賀郡志賀町」なので「何で最後だけ字が違うんだ」という声もあったのですが、多分「滋賀」を名乗るのは僭越だと思ったのではないでしょうか?
尤も、志賀町が合併で成立する前に広域行政組合(複数の市町村が行政の仕事の一部を共同で行うために作る組織で、法律上は都道府県や市町村と同様に「地方公共団体」の一種)が作った中学校の名前も「志賀」だったようなので、直接的にはこれが由来なのかもしれません。 但し、中学校の名前を決めるときに同じような話があったでしょうね。
合併して新しい市町村を作る際に、命名に困った揚げ句、 新市町村の範囲を大幅に越える広域地名をつけてしまったと思われる例は多いのですが、「志賀町」については、字を変えるだけ良心的だとも言えるでしょう。
なお、湖西線に「志賀」という駅がありますが、これは志賀町の中心地という意味で後からつけた駅名です。 江若鉄道時代には、所在地の大字名を取って「近江木戸」駅でした。
一方、明治22(1889)年から昭和7(1932)年まで「滋賀郡滋賀村」が存在(大津市に編入されて消滅)しました。 これは、合併前の6村の中に「南滋賀村」と「滋賀里村」があったということも影響していると思われます。 このあたりは、古代の大津宮の所在地に近いなど「滋賀」という地名の発祥の地とも考えられる地域なので、それほどの僭称とも言えないでしょう。 (「南滋賀」も「滋賀里」も京阪電鉄の駅名として残っていますし、付近には江若鉄道の「滋賀」駅もありました)