リンクについての個人的な考え方

まとめ


 「リンクには著作権に基づく許諾が必要」という誤解が、1999年から2001年ごろにかけて猛威を振るっていました。 そんな状況に一石を投じようと、2001年2月に「滋賀県立琵琶湖博物館の公文書」である「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」を公表(2017年10月、博物館Webリニューアルにより消滅)し、その半年後には、起草者の立場から「何故このような見解を公表する必要があったか」をメールマガジン「ACADEMIC RESOURCE GUIDE」第107号で公表させていただく機会も得ました。

 公文書公表の1年後ごろ(このページの初稿を執筆したころ)には、相変わらず「義務的に必要」と思い込んでいるとしか思えない「リンク許可依頼」のメールが年に数回程度のペースでやってきて、世の中ってそんなものかなあと思っていたのですが、流石に2003年に入るころには、ほぼ無くなってきました。 しかしながら、リンク設定に対してサイト管理者が許諾権を有するとする誤った理解を前提として、「リンクを許諾しない場合がある」などと理不尽な主張をする事例は相変わらず多いようなので、2003年4月には「管理者向けの雛型」を博物館内の個人の研究発信のページに公表することを試みました。 この試みの効果は未知数です。

 いずれにしても、以上のような文書は、「万人に通用する一般論」を論じたものか、せいぜい「公共機関である琵琶湖博物館」の立場を表明したもので、戸田の「純粋に個人的」な考えは反映されていません。 そこで、この個人的な考え方を別途まとめてみることにしました。

「リンクの連絡」について

 「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」の中の“「リンクの連絡」は、マナーの問題です”の部分に

そして、逆に「リンクを張った連絡を一々よこすなど、煩わしい限り」と思っている人も、世の中には少なくないということも知っておいてください。
とあるのをみて、「煩わしく思われるかもしれませんが……」という断りを入れて連絡してきた人が居ます。 これって、「よくある誤解」を払拭するために“逆の極論”を紹介したまでで、私の個人的見解ではないのですが……

 とはいえ「煩わしいなあ……」と思う場合があるのは事実です。 それは、明らかに義務的・事務的に連絡してきている場合ですね。 「そうしなければ」と思い込んで、連絡が自己目的化している場合です。

 「リンクしたよ」という連絡には、コミュニケーションの“きっかけ”となり、それを機にコミュニティが広がっていくことがあるという効果があります。 一般論として「挨拶」というのは、そういうものですよね。 リンクを契機に、お互いに気軽に批評し合う間柄になるなんてのも良いですね。 あるいは、議論した内容に基づくページを各々が公開したような場合だと、各々の論旨に応じて相互にリンクしあえば、ハイパーテキストとして優れたものになっていくでしょう。 それを効率的・効果的に進めるには、相互の連絡が有効です。 このように、後々の発展に結びつくような連絡なら、大歓迎です。

「リンク連絡を希望」に応えるべきか?

 “「リンクの連絡」は、マナーの問題です”ということを「リンクについての琵琶湖博物館の考え方」の中で論述したことに対して、「世の中には“これはマナーだ”と言って、他人にリンクの連絡を強要する人が居る。この文章の表現(特に章のタイトル)は、そういう強要を助長するから考え直してくれないか。」という趣旨の要望を伝えてくれた方がありました。

 正直言って、「そういう読み方もあるのか」って、意表を衝かれた思いでした。 文章が筆者の意図を離れて一人歩きしてしまうという典型的な事例を見せつけられたような気がします。 そういうことなら、修正した方が良いのかなという気もするのですが、厄介なことに、この文章は別の意味でも「一人歩き」してるんですよね。 「ACADEMIC RESOURCE GUIDE」第107号の記事の冒頭にも書いたように、この文章は「公共機関の公式見解」になっています。 つまり、既に起草者の手が直接届かない存在になってしまってるんですよね。 勿論、改めて修正を起案し、決裁を求めることは可能なんですが、ちょっと理由付けが弱過ぎて二の足を踏んでいるというのが実情です。

 章のタイトルではなく本文を読んでもらえば解るんですが、この章の主張は“あくまでマナーに過ぎません”の一言に集約されます。 「マナー」という概念を、そういう価値観で使っているわけです。 そして、起草者の意図としては、その直前の“可能な限り希望に応じるのがマナーでしょう”の中の「可能な限り」という一言にも主張が込められています。 つまり、裏返して表現すれば「正当な理由があれば応じなくて良い」ということなんです。

 そうなってくると「正当な理由」とは何かという話になると思いますが、これには「正解」は存在しないでしょう。 「ケースバイケース」「個々人の感覚の問題」としか言いようが無いと思います。

 私自身の個人的な感覚としては、「自分がして欲しいことを相手にもする」というのを基本方針にしたい問題なんですよね。 つまり、前章に書いた「煩わしい連絡」を相手に対しても避けるというのは「正当な理由」に該当するという感覚です。 そして、「煩わしい連絡」に該当するかどうかは、どういう関係にある(または関係を構築しようと思っている)相手なのかということや、リンクを設定しようとしている文章の性格などによって変わってきます。 極端な例として、事実を客観的に分析しようとする論文からのリンクで、相手に連絡を取ることは皆無と言って良いでしょう。 確実に“義務的・事務的”になると考えられるからです。

「相互リンク」って何?

 「相互リンク」という妙チキリンな概念に遭遇したのは、“「リンクについての考え方」公表に至る背景について”にも書いたように、琵琶湖博物館でのWWW管理業務にあたっていた1999年6月のことです。 それ以前にも、どこかで言葉を聞いたことがあったかもしれませんが、自分自身に関わる問題として認識したのは、そのときが初めてでした。

 一体どこからこのような変な概念が出てきたのかな、と考えてみたんですが、もしかしたら「お友達リンク」の発想の延長なのでしょうか? とにかく「友達の輪」が広がったら楽しいという考えで、内容的なつながりなんか無視してリンクを広げていくという発想ですね。 つながっていること自体が目的だとしたら、一方通行じゃなくて往復になっている方が強固で良いに決まってます。

 でも、何か違うような気がするんですけどねえ…… リンクって、自分の文章の論旨の必要に応じて設定するものだと思うんですよ。 といっても堅苦しく考える必要はありません。 単なる自己紹介だって立派な「文章」ですし、その中で自分の友人や所属団体へのリンクを設定するのは、立派に「文章の論旨の必要に応じたリンク」です。 そして、「文章の論旨の必要に応じたリンク」であれば、相手の文章群からもリンクを張る価値が存在する可能性は高くなります。 となると、結果的に「相互リンク」になりますね。

 「相互リンク」というのは、このように「結果として成立する」ものであって、最初から目的にするのは考え違いだと思うのです。

「リンク集」って意味あるんだろうか?

 WWWページ群を整備するとき、何の疑いも無く「リンク集」という独立した項目を立てようとする傾向があるような気がするのですが、それで良いのでしょうか?

 独立した項目となると、「このサイトからのリンクは、全てここに集めた」という姿勢の「リンク集のためのリンク集」になってしまいがちで、一体何のためのリンク集なのか解らなくなってしまいます。 リンク集といえども、「文章」としての論旨を明確に持つべきです。 論旨に無関係に、ただ「リンクだから」というだけの理由で1ヶ所に集めるというのは誤りだと思います。

 極端な話として、「お友達リンク」というのを考えてみましょう。 この場合、確かにリンク先の内容は支離滅裂で、一見「文章としての論旨」を欠いたリンク集のように見えるかもしれません。 でも、そこには実は「友達の輪」という立派な「論旨」があるのです。

 私は別にWWWページで「友達の輪」を実現しようとは思っていませんから、そういう性格の「リンク集」を作ろうとは思いませんし、それ以外にも、最初から「リンク集」を作るつもりでページを作ることはありません。 何かの論旨に対応して、参考資料として「リンク集」をつけるとか(博物館職員講習の講義録の末尾につけたものが代表的)、一定の目的で行った調査の結果が必然的に「リンク集」として機能するとか(滋賀県博協未加盟館一覧表が代表的)、そういう形で、「結果的に」リンク集ができあがるのです。

 これは、私個人のページに限らず、琵琶湖博物館のページだって同じことです。 琵琶湖博物館は目的を分けて整備した3種のリンク集ページと、その他のページに設定した細々したリンクという形で整備していて、まとまった「唯一のリンク集ページ」は作っていません。 リンク集とは、本来こういうものだと思います。


2002年4月4日初稿/2003年5月25日最終修正/2012年7月17日ホスト移転/2018年4月6日リンク修正

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